第4話

 翌日。地平線の向こうで太陽が顔を覗かせる早朝。

 荒野という地形は昼夜の寒暖差が激しく、ただでさえ作物には過酷な環境を一層劣悪なものにする。時折訪れる降雨が流れ込む地面の割れ目にすら緑が覗けないのは、流石にサント周辺だけの話であろうが。

 一定間隔で魔避けの魔石を設置しているとはいえ、村全体を照らし出すには程遠い。故に村人は日の出と共に活動を開始し、日の入りを目安に帰路へとつく。

 そんな一日の始まりを告げる陽光に反射して一人の少女が宿のすぐ側で鍛錬の汗を流していた。

 正中の構えから剣を振り上げて、振り下ろす。

 基本中の基本とも言えるシンプル極まりない単純作業の繰り返しに確かな効果を積み重ねる手段を、アリオーシュは師匠から授かっている。


「剣を振るうッ、相手をッ、意識してッ、振り下ろすッ!」


 目深に被ったフードの奥で緋の瞳が憎悪に燃える。

 彼女が剣を振り下ろしたい相手は、生者死者を問わず無限に存在する。

 愚図で愚鈍、救い難く許し難い人の形をしただけの化物の群れ。悪辣さと残虐性だけは他の生物と一線を画す部分など、所詮は本能の赴くままに暴れ回る魔物の方が余程好感を抱けるというもの。

 白刃の得物に反射する陽光が、少女の奥に秘めた闇を照らし出す。

 振り下ろす刃に込められた翳りを、彼女の師匠が一目していれば指摘できた問題点を殊更に強調するように。


「あ、トルエライト様!」


 背後から投げかけられた鈴のような声音に口端を歪めると、鍛錬を中断してアリオーシュは振り返った。


「チッ、アクエか……おはよう」

「もう、また舌打ちが先に出てます」

「知ったことか」


 緑髪を揺らして駆け寄る少女は、喜々として彼女を偽名で呼んだ。

 サントを訪れた際、クロムは素直にクローズ・クロムウェルとフルネームを告げた。だが、アリオーシュは家を隠すために偽名を名乗ったのだ。

 故に旅に赴く彼女の名はアリオーシュ・トルエライト。王家の人間とは一切関係ない、陽暴症ようぼうしょうを発症した陽光を嫌う少女だと。


「しかし、陽暴症なのに朝から剣の練習なんて、頑張り屋さんですね。トルエライト様は」


 世間話のつもりなのか。

 作業がてらに振る話題は、彼女の嘘に端を成すもの。

 彼女が取り合わずに見つめている合間に、アクエは手に持つ桶から洗濯物を物干し竿へ干していく。身長は届くかどうかにも関わらず、少女の手並みに淀みはない。

 次々と干されていく洗濯物達を一瞥し、アリオーシュは再度舌打ちを零す。


「遊び盛りの子供に何やらせてんのよ……」


 富の有無に限らず、幼い頃から親の仕事を手伝うといった話は特段珍しいものでもない。

 が、目の下にクマを浮かべたアクエの様は明らかにオーバーワークの類であり、友人と遊びに興じる余裕があるようにも見えない。

 先代村長が魔物に襲われて以来、彼女が村長代理を務めているとのこと。

 まだ一一歳の少女が。


「トルエライト様……顔が……」

「え、あぁ……別に、発症前は外でよく遊んでたからね。下手に部屋で引き籠るよりも元気になるのよ」


 太陽光を浴びると傷つく病気に罹患してなおも外に出たがるベタな理由を、信じやすいように設定した内容を淀みなくアリオーシュは語る。

 すると一陣の風が吹き抜け、物干し竿にかけられていたタオルが宙を舞った。


「あぁッ、タオルが!」


 絹を裂く悲鳴がつんざき、アリオーシュが視線を上げる。燈から青に移り変わる空模様に割り込む白を捉え、少女は軽く跳躍。

 軽い調子でタオルの自由を奪うと、膝を曲げてアクエへと目線を合わせた。

 彼女が即座に感謝の言葉を紡げなかったのは、一重にアリオーシュの鋭利な緋の瞳が突き刺さったが故に。昨日の男との口論でせっかくの手料理が散々な物言いを食らったことも、少女に対して少なくない忌避感を生んでいた。

 一方のアリオーシュはアクエの足元にある桶を見つめる。

 未だに相当量の洗濯物を敷き詰めた桶を。


「チッ……手伝ってあげる。どこにかければいい?」

「……! ありがとうございますッ、トルエライト様!」


 不安の混じった表情に花が咲き、アクエは満面の笑みで偽名の少女へ感謝を紡いだ。



「何だって私が人助けの真似事を……柄じゃない、気持ち悪い……」


 歯軋りをしながら階段を登るアリオーシュ。不機嫌さを露程にも隠さぬ態度はすれ違う利用客から自然と距離を置かれ、結果的に集中力に欠けた歩先が誰かと衝突する事態をも回避した。

 彼女自身は、利益に預かっている自覚すらも皆無だが。

 やがてアリオーシュが足を止めたのは、アクエが報酬の一環として貸してくれた宿の個室。曰く、普段は他所の村から訪れた村長が利用するために貸し与えている部屋とのこと。

 村長用の部屋でも扉を開くと音が鳴るのは、最早サントという村の貧困具合が原因なのだろう。

 事実、扉の老朽化から目を離せば部屋の備品は中々に上等。

 シングルベッドは横になれば忽ちの内に睡魔が手招きし、備え付けの冷却式冷蔵庫まで存在する。更には浴室まで自前だというのだから素晴らしい。


「あぁ、鬱陶しい……!」


 乱雑にフードを脱ぎ捨てて床に落とすと、燃え上がる赤髪が室内で露わとなる。

 髪色を隠すためとはいえ、常日頃からフード付きの生活を余儀なくされるのは厄介どころの話ではない。せめて寒冷地でさえあれば、との祈りは当分叶えられそうにない。

 アリオーシュは勢いのままに衣服を脱ぎ捨てると、一糸纏わぬ姿で浴室へと足を踏み入れる。


「確か、ここら辺に……と」


 魔石を用いて事前に温めていたため、桶に充満したお湯は肌に適した温度で維持され、外気温との差で湯気を発する。

 薄い白煙が浴室を包む中、アリオーシュはお湯を頭から浴びた。

 途端に心地よい刺激が肌を叩き、身体に蓄積した疲労を水音と共に洗い落とす。元より鍛錬で汗を流してから然して間を挟んでもいない時分、排水口には面白いように汚れが流れていく。


「はー、気持ちいい……やっぱり鍛錬後は洗い流さないとだよ」


 気の抜けた声を零すアリオーシュは眼差しを正面の鏡へと注ぐ。

 写り込んでいるのは短い赤髪にナイフの如く研ぎ澄まされた眼差し、雪のような白肌のアリオーシュ。当然の話であるが、鏡が映し出すのは眼前に立つ少女自身である。

 普段はワンピースに隠れた身体は起伏に乏しく、単調に続く音楽を彷彿とさせた。これが栄養状況の悪化に伴う変化ならばいざ知らず、普段から直線模様の身体である以上は他者を恨むことさえできない。


「……考えるのは止めよう。虚しくなる」


 気持ちを切り替えるべくお湯を浴び、身体の汚れを洗い流す。

 滞在期間が大幅に延長した結果、思う存分湯浴みが出来るのは嬉しい誤算というもの。魔物さえ狩れば魔石は手に入り放題とはいえ、行き先の分からぬ旅では湯浴み程度に使うこともできず、更には路銀のためにも一定数は貯蔵しておきたい。

 故に、アリオーシュは今のうちにお湯を堪能する。

 何度も何度も。

 繰り返し。


「えッ……!」


 不意に身体を流れる液体の色が変化する。

 透き通った透明から、命を流す赤へと。

 誰かの命を奪って生き延びた証左だと、紛れもない殺人者だと声高に主張するように。鋭利な緋の眼差し自体が、雄弁に物語る物証を糾弾するように。


「この、またこれかッ……!」


 アリオーシュは顔を歪めて乱暴にお湯へ突っ込むと、腕を汚す朱を拭い去らんと幾度となく擦り合わせる。


「取れろ、取れろ、取れろッ!」


 桶の中に朱が混じるのも厭わず、ひたすらに何度も。


「だって、だって仕方ないじゃないッ。あぁするしか……私だって死にたくなかったしッ。他にどうしろっていうのよ……!」


 言い訳で脳裏に響く声を拭い去り、桶を乱暴に引っ繰り返して身体中にこびりついた血を拭う。しかし、なおも血生臭い感覚は深く浸透したまま。

 まるで外から浴びたのではなく、内側から染み出したもの。

 性根が身体という外皮を突き破り、貫通したかの如き光景にいよいよアリオーシュは恐慌に陥ったと目を見開く。

 酸素を渇望する金魚の如く口を激しく上下させ、未だ拭えぬ血に濡れた両手で顔を掴み、恐怖で身体が地震と見紛う程に震えた。


「あ、あぁ……あぁッ」


 そして臨界を迎えた心が万感の叫びを上げる刹那。


「はぁ……またこれか、お前は」


 嘆息を一つ零し、頭を掻くクロムが呆れた様子で身を竦めた少女を見下ろす。


「クロ、ム……!」


 怯え、震えた声音で名を呼ぶアリオーシュに普段の姿は微塵も伺えず、呼気を乱す様は恐怖に屈した少女そのもの。

 眼差しが一定せず、揺れ動く緋の瞳もまた彼女の抱いた激情の一端を垣間見せる。

 クロムへ向けて伸ばされた右腕はしかし、途中の段階で縫い留められた。


「……ほら、タオルだ。自分の身体は自分で拭けよ」

「…………うん、分かった」


 顔を覆うように投げられたタオルの奥。弱々しく、消え入りそうな声で紡がれた肯定の意に、クロムは頭を掻いて応える。


「そいつはとってもらしいが、感謝の気持ちは大事だぞ。おい」


 嘆息する男の視界には、温水で清めたばかりの身を丸めて蹲る少女だけが映っていた。

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