それぞれの記憶に1 モーリス

 それぞれの事情で、自分の記憶を遺しておきたい、という願いは、現在、技術的に可能となっている。利用には、誓約書へのサインと、立ち会い人として主治医ともうひとりが必要となる。


「それでは、記憶の抽出を始めます」


 記憶バンクサービスから派遣されてきた技術者の声がして、ディープとヴァンの立ち会いの中、僕は深い眠りに落ちていった。意識レベルを仮死状態近くまでにして、記憶の抽出が始まる。


 *


 気がつくと、見渡す限り草原が広がっていた。涼しい風に、沈む夕陽で黄金色に染まった下草が、さーっとさざなみの広がるようにゆれていく。泣きたくなるような哀しく美しい風景の中、黄色のドアがポツンとあった。


 僕はドアを開けた。


 中は暗く、足を踏み入れると、僕の身体はふわっと浮いて、下に着地した。目の前がゆらいで、そして…。


 ゆっくりと像を結んだ記憶は、エリンが僕にキスしていて、僕がエリンの髪をなでている場面だった。


 「もうそろそろ体力的にギリギリだと思うよ」とディープに言われ、エリンとの記憶を失いたくなかった僕は、今日までなんとか待ってもらって、ここから始めることにしたのだった。


 記憶の映像は揺らいでは、次々と変わっていった。


 ・エリンが会いに来てくれて、その胸にあったペンダント。

 ・グラントとリサの結婚パーティー。

 ・最後の航海から帰った時のスクリーンに映る星の姿。

 ・それから、それから…。


 5人で過ごした日々のたくさんの記憶。


 時計を巻き戻すように、記憶は過去へと遡っていく。


 ・NEW HOPE号の初めての出発の朝。

 ・研究所が燃えた夜。

 ・ラディとはじめて出会った日。

 ・研究室の爆発事故。

 ・楽しそうに笑いながら、片手づつそれぞれを両親とつないで歩く子供の僕。

 ・出産後、おくるみに包まれた僕を抱いた母と、ふたりを抱いた笑顔の父。

 ・超音波検査で胎児の心音が確認できた日。


 そして、いちばん最初は、小さな細胞…。


 ・卵子と精子が出会い、受精卵ができる。細胞が分裂をはじめる。


 僕はふんわりとした光を放つその小さな球体へ手を伸ばした。

(ああ、あたたかい…)

 僕の掌の上に浮かんだそれは、ふわふわと漂い、移動をしはじめ、そのあとについていくと、緑のドアがあった。

「ありがとう」

 僕の声に応えるように、球体は数回小さく上下したあと、スーッと消えていった。


 ドアを開けて出ると、見渡す限り緑の草原が広がっていた。そこは、明るいあたたかな日差しの中、光と希望に満ちあふれた世界だった。


 僕はふと思った。

(ここにいたいなぁ、ずっと…)

 涙がこぼれた。


 ここにいると、不安も怖れも苦痛もなく、ただ穏やかな気持ちでいられる。遠くに大きな樹が見えて、心地よい風の中、ゆっくり歩きはじめると、身体が軽く、どこまでも行ける気がした。


「立派な樹…」

 僕は樹に触れて、見上げた。

 木漏れ日の中から、声が聞こえた。

「ここは『始まりの場所』。君はもう一度最初からやり直すこともできる。ただし、今までの記憶はリセットされ、全てを失うことになる。さあ、君はどちらを選ぶ?」

 僕は迷うことなく答えた。

「僕は帰ります」

 僕には、僕を待っている人達がいる。その大切な人達の記憶をなくすことなどできるわけがない。


 もうすぐ終わりが訪れるのだとわかっていても、なお。


 いつのまにかそこには、水色のドアがあった。

「さよなら」

 僕は一度だけふりかえり、ドアを開けた。


 

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