かって嬉しい割引肉で 〜She's hotter than yakiniku〜

K

かって嬉しい割引肉で 〜She's hotter than yakiniku〜


 だからこんな夕方に家を出たのか、と天野美咲は納得する。カートのかごに入れられたパックにはことごとく三割引き、ないし半額のシールが貼られており、定価のものは一つとして無い。


 牛の肩ロース、カルビ、サガリは言わずもがな、豚トロ、レバーと来ればホルモンと次々に投げ込まれていく──そう、買い手は美咲でなく同居人の緑川みどりであった。


「あぁ〜ん、牛タンは割引ないかぁ。ま、他でトントンやろ」


 定価の牛タンのパックをかごに入れ、翠は満足そうに腕組みした。


 一方、美咲みさきは周りの子連れや老人を見やり、おずおずと、


「ねぇ。翠ちゃんがカート押す……?」

「いやええよ。じぶんカートのほうが楽やろ。ほらあれよ、ジジババが押しとるくらいやん」

「あれはシルバーカート! やっ、だからあの、その……」

「なぁんね、スーパーおるん嫌なんか?」


 おおむねそう、という感じでうなずいたが、結局は耳打ちする事になった。


 ──わたしたち割引や半額ばっかり買ってて、変に思われてない……?


「そんなけったいな事! 思われてへんよ。だいたい、自分とこの買い物でそれどころやあらへんやろ」

「あっ」


 という間に翠はカートのハンドルを奪い、自ら押していく。無料の牛脂のブロックを二つ三つ、その隣から焼肉のタレを手に取り、


「ん。タレは甘口にしとかにゃ」


 言うとまたポニーテールと切り揃えた前髪を豪快に揺らし、跳ねるようにカートを押していく。


 美咲が慌てて追いかけると、ふと立ち止まった。


 翠は深刻ぶった小声で、


「ね、なんやろアレ……?」

「えっ、どれ? なに?」

「ちょい野菜コーナー見てきてんか」


 魚コーナーに近づくにつれ、野菜コーナーは入り口付近にあった。


 翠が言うからには珍しい野菜か果物があるのだろうと美咲はゆるいウェーブを掛けた髪を揺らし、それらしき場所へと走り寄った。


「──うっそお!」


 カートごと追いついた翠がその背中をさするのだが、美咲はすぐにその意図に気づかなかった。


「え、なに? ウッソウ? ほうれん草みたいな? どれよ?」

「だあぁ! 嘘、うーそ! だましたんよ!」

「う、嘘? えぇ、なんで急に騙す?」

「なんで韓国風のカタコトなんよ。そんなんでよう詐欺に遭わんこっちゃな、うち怖いわ」

「だって翠ちゃんの言う事なんだもん……」


 美咲はもう周りの目などどうでもよくなったどころか、すっかり良い気分になって「えへへ」と笑い、大きく伸びをした。


 大きな襟付きの、ミント色の袖なしワンピースからモデル顔負けの美腋が丸出しになったが、当人はまったく気にしていない。


 今度は翠が周りの目を気にする番だった。


 ハンドルを握る手に思わず力が入った。客を迎えた自動ドアが開くと、いまだ酷暑の熱を残した秋風に吹かれ、じわっと汗が滲んだ。


 黒のタンクトップの上に羽織ったモノトーンの上着は冷え性防止策だったのに、いまや熱中症の原因になりそうだ。下はコーデとはいえデニムの短パンで正解だったと翠は思い、蒸れたうなじを掻いた。


「──ねぇえ。じぶん腋、丸見えやねんけど?」

「そういう服なんだもぉん」


 ふと翠がレジの方に目をやると、レジ待ちの退屈しのぎにお腹を出す女の子とそれを叱る母親がいた。


「あぁ……まさにアレや……」

「あ! もう騙されないかんねっ」


 さながらアニメキャラみたいに片手を腰に当てて指を差したが、いちおうレジの方を振り返ってしまうのが美咲らしかった。


 それから台所用品コーナーでスポンジやクエン酸の粉末、中性洗剤の詰め替えをカゴに入れると、


「早よ帰ろ。焼肉やでっ」

「やでっ」


 美咲が関西弁の語尾で敬礼すると、翠はなにそれと笑い、二人はレジに向かった。



 いつもの座卓に卓上焼肉コンロを置き、翠は慣れた手つきでガスボンベをセットし、火災報知器にビニール袋を被せるようにと美咲に言った。


「まかせて!」と意気揚々と座卓に足を乗せた美咲だったが、伸ばした中指の先にギリギリ火災報知器が触れるかどうか。


 翠はしげしげと震えるつま先から手先まで見上げ、


「バレエせんでええで?」

「やっ! その、あの……。抱っこして……?」


 翠は「しゃあないなぁ!」と顔を真っ赤にして笑い、美咲もまた照れ笑いした。


 そして二人して座卓に乗り、翠は背後から美咲を抱き上げた。


「高い高い高い高い! 怖い怖い、まじ、まじで離さないでよ! 翠ちゃん、冗談じゃないかんね!」

「離さへんて! 早よ巻きゃええが!」

「いま巻いて、ゔっ」

「あ! おなか締まってんか! 待ってや、腰の方に抱き直すさかい」

「は? ちょ、やだやだやだ、お腹持ってて! 怖いんだかんね、なにしてんの、あとちょっ──ぉゔっ!」


 ごつん、と抱き直しざまの勢いで美咲が天井におでこをぶつけるという代償を払いながら、煙センサーの封印はなんとかできた。


 それから残りの準備を経て、旨い肉の匂いがする煙がもうもうと立ち込め、ジュウジュウという音をのせてベランダの窓から出ていく頃、六畳間の空気はやや重かった。


「……あの。もう堪忍してや、ごめんて」


 美咲の膝の上で、翠は口の中をシマチョウでいっぱいにされていた。ちょうど母親が幼い娘にするように、美咲は箸の先に生のシマチョウを挟み、鉄板の上に寝かせながら、


「えぇ? 怒ってたらこんなサービスするぅ?」


 翠はシマチョウを一つずつ飲み込みながら、


「焼肉の初手にホルモンはありえへん。牛タン焼かせてよ……」


 翠の訴えに美咲は目を丸くし、五つ目のシマチョウを玉ねぎの上に置いた。


「え! 関西の焼肉ってホルモンだけじゃないの? 前に屋台で食べたのは……?」

「それモツ焼きや。なんね、じぶん、まじで善意で焼いてくれてたん?」


 美咲はふるふると首を横に振った。ゆるいウェーブの茶髪がふわふわと波打つような、否定さえも可憐な子だ。


「い・や・が・ら・せ♡ でも翠ちゃんと付き合うまで、ホルモンってほとんど食べた事なかったよ、わたしは」


 玉ねぎの上のシマチョウは、タレの皿に入るまでは翠の予想通りだったが、美咲の口の中に消えた。


 魚の浮袋にも似た白っぽいシマチョウは、頬張ればジュワッと口中に脂の旨みが広がり、弾力たっぷりの食感は美味しいけれど、飲み込むのは少しコツがいる──なのに翠はさしたる苦労もなく、ぜんぶ飲み込んでしまうからつまらない。


 翠は牛タンの入ったトレイを手に取り、


「ねえ、ママ。牛タン焼いてぇ、ゆーて」

「あなたどこの子? どいて、邪魔」


 翠はジロッと睨んだ。


 美咲はいまだにこの流し目に胸が高鳴ってしまうが、今日はそうはいかない。おでこに貼った冷却ジェルのシートの冷たさで怒りを思い出し、美咲は精一杯、怖い顔で睨み返した。


 翠の流し目がハッと開かれた。


 その頬が、目尻が、耳がみるみる赤くなっていく──美咲は熱でもあるんじゃないかと思い、箸を置いた──瞬間、器用に膝の上で上体をねじった翠に抱きしめられた。


「な、なに、ちょ、も、なにぃ?」


 耳元に返ってきたのは、まず深い溜息と、次いでつぶやくような「好き」の一言だった。


 美咲は「わたしも」と言いたいのを、口の中のシマチョウごと飲み込んで、テレビのある対面に座れと指差した。


 テレビはゴールデンタイムのバラエティで、今月封切りの映画の主演俳優らが芸人顔負けの笑いを取ったところで、水飛沫を上げてぶつかるノンアルビールのCMに切り替わった。


 美咲は牛タンを焼きながら、


「も、もうっ。危ないんだかんね、急に抱きついてきてさっ、鉄板熱いんだしね。あ、塩! あとネギ! レモンも!」


 言いつつ、自分でふりかけた上、片手を皿のようにして箸の先の牛タンを吹いて冷ます。


 必死に語気を強めているのも見え見えなら、翠に食べさせようとしているのも前屈みの姿勢から分かる。


 翠は煙の様子をうかがうフリをしたが、もう耐えられないとばかりに笑い出し、美咲もつられて笑い出した。


「あはっ! あははははっ、めぇ、めっ、めちゃサービスええやん……っぷふふ!」

「う、うるさいなぁ! 笑かさないで、牛タン、さめ、冷めないでしょ……くくくくっ、ふふ、ほら」


 アーンして、と言い終えるより先に、翠の口には牛タンが入っていた。


 山ほど乗せたネギも滴るほどのレモン汁もすべて肉汁と絡み、塩すっぱい旨みがシコシコの食感と混ざりながら喉へと落ちていくのは旨いを通り越して快感ですらある──翠はあぐらを掻いた片方の膝を震わせ、ご機嫌で座卓をピアノのように叩いた。


「美味しい?」と、美咲。

「んっ。美味しい!」と、翠。


 同じ食べ方で、翠は美咲にも食べさせた。


 美咲もまた歌うように顔を横に振った。


 それから二枚、三枚と牛タンを塩レモンで愉しみつつ、肩ロースとカルビを食べ比べ、美咲は小さな茶碗にご飯を山盛りによそい、翠は買い置きの缶チューハイをグラスに注いだ。


 メラッと溶けた脂が炎を上げ、香ばしい煙の中にシュワシュワとレモンの香りが弾ける。


 サニーレタスにタレを付けたカルビを乗せ、カイワレを添えて巻いて食べた日にはもう、どちらとなくハイタッチを決め、豚トロに頬がとろけ、サガリや牛レバーのあっさりとした旨さで美咲は茶碗を空にし、翠はグラスを空けた。


 えんもたけなわ。


 二人は棒アイスをかじりながら、推しアイドルのうちわでベランダのほうへ煙をあおぎ、暮れなずむ空を見上げた──西日の赤が炭火なら、雲の灰色は煙のような秋の空。


 けっして割引けない、ふたりの空。


(了)

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