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某県、午前八時十二分——。
佐山美咲は、高校の屋上前踊り場にいた。制服のスカートが直で床に着いてしまう事も厭わず、手すりの壁に寄り掛かって座り込む。左側頭はここ最近慢性化した偏頭痛を訴えていて、髪を掴む様にして掌底で圧迫しても治る気配が無い。
階下の廊下からは、同級生たちの華やいだやり取りが響いてくる。つい先日まで賑やかに思えていたそれらが、今はどうしても雑音の様に——耳元を飛び回る小虫の羽音の様に聞こえてきて、下唇を噛み締める。
「どこで……間違えたんだろう」
眠りの浅い日が続き、掠れた声で一人呟く。薄霞が掛かったように処理能力が低下した頭の中とは裏腹に、胸中では嘔吐感を伴う激情が渦を巻いている。
隣のクラスの彼を、好きになった事だろうか。
勉強や部活に邁進しながら、淡い想いを秘めつつ彼を横目で追っていた事だろうか。
そのまだ名前も付いていない感情を、小中高と同じ学校に通い続けている、幼馴染の田中愛に悟られてしまった事だろうか。
その幼馴染から先日、「池田くんとヤっちゃった」と軽薄な笑みと共に告げられた事だろうか。
行為の詳細な内容と、付き合うつもりは無いのに一回ヤったくらいで彼氏面してきてウザい、という自虐風自慢を、滔々と語られた事だろうか。
いや、と美咲は頭を左右に振る。
そもそも、田中愛の幼馴染として生まれてきてしまった事が間違いだった。
思えば、こと全てに於いて田中愛は自分より一つ上のレベルにいた、と美咲は回想する。
学力も運動能力も、ルックスも。全てが『一つ分だけ』自身よりも優れていて、手が届きそうで敵わない。周囲は——それこそ両親や姉と弟さえも、田中愛と美咲をよく比較した。
何よりも田中愛には、『華』があった。カリスマ性というかスター性というか、人目を惹きつける何かが彼女の内には確かにあった。だからこそ、整ってはいれど取り立てて騒ぐ程でもないルックスであるにも関わらず、彼女は常に人の輪の中心にあった。
海に面した小さな田舎町だ、現代社会といえど娯楽はそう多くはない。だからこそ田中愛は、何事においても後塵を排する自分をそばに置いたのだろうな、と乳白色の脳内で美咲は思った。
——私から奪う事が、彼女にとって娯楽なんだ。勉強も部活も友達も家族も。
初恋も——。
『奪われたままでいいの?』
思考と現実のちょうど境界で、男なのか女なのか若いのか置いているのかもわからない、無色透明で無味乾燥な声音が響いた。脊椎を撫で上げられる様な感覚に、胸の内側に居座ったどす黒い感情が明確な形を作っていく様な気さえしてくる。
『劣ったままでいいの?』
『いつまでもオマケのままでいるの?』
『君も華が欲しいんじゃないの?』
『奪いたく、ならない?』
最後には、後ろから抱きすくめられて耳元で囁かれている錯覚さえ美咲は覚えた。どこまでも他人事の様に突き放す響きを伴い始めた声音は、その実世界で一番近くにいてくれている様で、仄暗い背徳がまるで酩酊の様に四肢を浸潤し始めたのがわかった。
胸の中のどす黒い感情は、今や光さえ放っていた。それはどこまでも深くグロテスクな深緑で——。
——八時二十五分を告げるチャイムが突如として響き渡り、美咲は全身を震わせて顔を上げた。田中愛に遭遇しない様に八時前には学校に到着していたので、もう三十分経過したのかと驚く。
教室に行かなきゃ。遅刻しちゃう。
鉛のように重たいため息を吐き出し、美咲は放り出していた学校指定の鞄を肩にかけると、緩々と立ち上がった。鈍く思える足を気怠げに動かして、階段を降りていく。
廊下に溢れていた生徒たちが、ホームルーム前の予鈴に慌てて教室へ駆け込んでいくのが見て取れる。人波は端から美咲の存在など認識していないかの様に、彼女を掠めていく。
比較、という双方に強引に冷熱を押し付けるコミュニケーションを取られるくらいなら、いっその事鈍化による無関心の方が、今の美咲には好ましく思えた。
しかし。
「あ、美咲ー。おはよ」
前方から、一番聞きたくない声音が響き、馴れ馴れしく抱きつかれた。生温い体温が気持ち悪い。
田中愛だ。
「なんで先に登校しちゃったの? 待ってたのにー」
他人の都合など無視した、周囲へのアピールが透けた無配慮な距離感。男好きするたぬき顔とそれを武器だと理解しているメイクも、無駄に肉付きの良い肢体も、媚を孕んだ鼻に掛けた声も。全てが不快。
顔を上げると、密かに思っていた男子——池田が、所在なさげな右手を彷徨わせながら、下卑た熱に浮かれた瞳で田中愛を射抜いていた。その瞳の温度が急下降し、美咲の頭からつま先までを無遠慮に眺める。
「よし、美咲も来たし、もう教室行かないと。池田くん、また後でね」
ひらひらと手を振った田中愛に連行される様にして池田の横を通り過ぎた、その時。
「チッ、邪魔すんなよ」
確かに、聞こえた。心からの侮蔑と、揶揄を一掬いトッピングした罵倒。目線を彼に向けると、既に美咲のことなぞ捉えておらず、不服そうに体を揺すりながら教室へと入って行った。
自重に苛まれながら足元に視線を落としたその時、視界の端で確かに捉えた。
田中愛の、暗い愉悦が滲んだ醜い微笑を。
頭の中で、ガチン、と硬質な音がした。
胸の奥の激情は、深緑の宝石となった。毒々しい輝きを放ちながら、衆目に晒される瞬間を今か今かと待ち侘びている。
それは、どこの誰とも知れぬ——
美咲は笑った。
皮肉にもその笑顔は、この場に存在している誰のものよりも美しく、凄絶だった。
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