episode5『トンネルの向こうの食事-reverse-』

「ダメだ、全く書けん」

 ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードにかじり付いて暮しており、筆の速さが自慢だった。しかし、書けない。

 アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くない、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。


「またですか……また書けないとかボヤいて黒魔術とか始めたりしないでくださいよ」

 作家の同居人は心底迷惑そうな口調で釘を刺す、これに対して作家は気分を害したような態度を示す。

黒魔術くろまじゅつとは何だ、黒魔術とは! 君はボクを一体なんだと思っているんだ? 確かに悪魔と契約したり、交霊術こうれいじゅつを試みたり、土着神相手にインタビューをしに行った事も数回あるが、黒魔術なんかにはまだ手を出してないぜ?」

「今まだって言った! ちかってしないとか、絶対しないとかじゃなく、まだ手を出してないって言った!」

「全くやかましいな、君は! コナンドイルを見てみろ、彼は娯楽小説の分野においては殿堂入でんどういりで、殊の外推理小説においては金字塔と言っても良い。しかも歴史小説も書けるし医学にも明るい文化人で、自ら交霊術や心霊写真を試みる神秘学者でもあった。逆説的に、神秘学をたしなむのは作家にとっては王道と言っても過言ではないのだよ!」

「いやそれ先生の詭弁きべんですよね? 作家がオカルトに傾倒する事があると言う例に過ぎないと言うか、義務は全く生じませんよね?」

 同居人の指摘に、作家の男は極めて心外そうな顔をした。

「ふん! つまらない理屈で武装したものだな。まあいい、君には今からボクの神秘学にまつわる取材の話を聞いてもらおうか」

「聞きたくないです、そんな胡散臭い話」

「いいから聞け、この体験談と語りはボクにとっては一種の入出力だ。つまりボクにとっては仕事の一環であり死活行為で、ついでに言うと経済的な分水嶺ぶんすいれいでもある。ボクが体験談を話すのを止めたら、原稿代が入らずに部屋を追い出される事になるって寸法さ、巻き添えで君もな! 加えて言うと、この業界は締め切りが守れずそのまま引退する者、突然筆を折る者、更にはあれやこれで蒸発する者も多い! ボクも危うくその一人になるかも知れないんだ、他ならぬ君のせいでな!」

「いつも思うんですけど、なんで先生は金銭を含めて何もかもがいつでもギリギリなんですか?」

「話と関係無い質問は一切受け付けない! これはI市と言う場所にまつわる話だ。I市には封鎖されたトンネルがあり、その先には人界のルールが適用されない村があると言われている、電話も電波も通ってなくて、一旦入ったら絶対に帰って来られないらしい。一番よく言われているのは、憲法けんぽう適用てきようしない。との事だ、笑えるな」

 呆れた同居人に対して、作家の男は聞く耳持たずの立て板に水の構えだ。

 何が何でも自分の気が済むまで話す積もりと見える。それに対し、作家の同居人は今度は作家の男の話にきょとんと疑問を呈する。

「憲法が適用しないって、それ笑えるんですか? それ人権が機能してないって聞こえるんですが」

「君は本当に何も知らないな! 憲法ってのは基本的に王様や国そのものを取り締まる法だよ、王様が好き勝手出来ると人民の権利がないがしろにされる、だから憲法は人権を保障しているんだ。逆に言えば、あのトンネルの先の連中は自分達を閉鎖空間へいさくうかんの王様で、自分たちを縛る法律なんて物は無いとうそぶいている事になる。もっとも、トンネルの向こうの連中が君と同じ位法律の事を知らないオッペケペーの可能性もあるがな。まあいい、これはボクが件のトンネルの先の村へ取材へ向かった際の話だ……」


 * * *


「なるほど、ここが件のトンネルか」

 作家の男の前には、寂れて板が打ちつけられた封鎖されたトンネルがあった。

 トンネルを封鎖している板は十重とえ二十重はたえの念入りに打ちつけられ、一見完全無欠の鉄壁てっぺきであった。

 しかし、作家の男にはある情報があった。

 曰く、実際に行ってみたが思った以上に何も無かったのだと。

 うわさの無い所に煙は立たぬ。

 つまり完全に封鎖ふうさされたトンネルを見て噂を考え付いた可能性もあるし、何も無いと言う証言もでっち上げられた対抗神話かも分からぬ、しかし村の向こうへ行ってみる価値はあると、作家の男はそう考えていた。

 そして、一見一分の隙間も無いと思われた板だが、よくよく調べると何らかの不自然な形跡が一箇所いっかしょに見られ、触るとまるで扉に取り付けるペットドアの様に、人一人通れる隙間になった。

「なるほど、どうやらトンネルの先へ行った人物が居るって言うのは嘘でもなさそうだな。問題は帰って来れない憲法無用の村か、何も無い村か、真実や如何いかに……ひょっとしたら両方かもな」


 長いトンネルだった。

 長いトンネルには霊が出るとか、何かしらの事故が起こると言われているが、そんな事は全く無く、ただただ闇がどこまでも続く様な不気味な雰囲気があるだけのトンネルだった。

 トンネルは最初の方は真っ直ぐだったが、緩やかなカーブを描いているらしく、先は真っ暗、いつまで経ってもトンネルの出口には辿り着かないのでは? と、いわゆるスペランカーと呼ばれる人々ならば懸念けねんしただろう。

 しかし、作家の男は衛星写真でこのトンネルが車で長時間かかる様なトンネルではない事を予め調べており、この先に山陰の集落がある事も知っていた。

 彼は退屈こそ感じたが、引き返そうと言う気は全く無かった。

 やがてトンネルの先に光が見え、作家の男はようやく目的地に着いたぞ! と、小躍こおどりで駆け足になり、そして目の前の光景に驚いた。

 暖かな陽光と爽やかな風が吹き抜け、桜の花びらが舞っていた。今は春ではない。

 暖かな陽光が周囲を照らしていた。先ほどトンネルに入った時は夕方だった。

 木々には桃色の花が生え、桃の様な果実を形成していた。今は夏でもない。

「何なんだ……ここは?」

「ここは桃源郷とうげんきょうにございます」

 呆然とする作家の男の前に、いつの間にやら立っていた、仙女の様なあでやかな漢服に身を包み、艶やかな黒髪くろかみを結った女性が答えて言った。

「桃源郷? ここは何も無い、憲法が適用しない村じゃないのか?」

「はい、ここには浮世のうれいが何も無い、憲法の必要の無い桃源郷の村です」

 作家の男はいぶかしみ、考えた。

 確かにこの女の言う事は、ボクの言う条件を満たしてこそいるが、はっきり言ってペテンの類だ。

 ここが本当に桃源郷だと言うならば、帰って来れなくなるのも信じられるし、国家と言う枠組みが無くても人類が幸せになれると言うなら憲法も必要無い。

 しかし、村のうわさとこの桃源郷とやらの様子はまるで何もかも違うじゃないか。

 作家の男は疑念を抱いたまま、携帯端末けいたいたんまつを見る。

 トンネルに入っていた時同様、圏外けんがいだった。

 しかしこのままでは帰る事は出来ないと、そう考えて取材を続ける事にした。

稀人まれびとなんていつ以来かしら、先週? それとも先月? 忘れてしまいました。さあさこちらへ、村民のみなさんと一緒にお食事でもしましょう」

 作家の男は仙女風の女性に言われるがままに着いて行きながら、周囲の観察をした。

 村中に桜の様な花が咲いており、その木からは桃の様な果実が成っていた。家屋はどれも茅葺かやぶき屋根で、いかにも田舎と言った風情だ。

 村民は皆幸せそうで、大半は桃をもいでかじったり、昼寝をしたりして過ごしていた。

 作家の男と仙女風の女性に気が付き、話しかけて来る事もあった。

「見ない顔だね、お客さんかい? うちの村はいい所だよ、何も無いが幸せはある。良かったらうちに移住しないかい?」

「いえ、ボクはここへは取材へ来ただけですので……ここの素晴らしい景色や、出来れば独自の文化なんかをまとめて帰り、皆に読んで貰えればそれがボクの幸せです」

 作家の男へ話しかける村民は一人ならず居たが、作家の男の村を褒める言葉を聞くとニコニコと満足げに下がっていった。

「さあ着きましたよ稀人さん、こちらでどうぞお腹一杯召しあがって下さいな」

 仙女風の女性に連れられて到着したのは村で最も大きな家、解放された庭の縁側から見える部屋の中では道中でも見た立派な桃が大量に並んでおり、桃からなる飲料だろうか? 何やら白い液体で乾杯をしている村民の姿もあった。

 作家の男は村民たちに導かれるままに部屋に通され、座布団に座り、言われるがままにカットされた桃を口に運んだ。

 作家の男は目を剥いた。

 桃の味がする、こんなに味の濃い桃は初めてだ! 甘味は強いがべたつかず、汁気は多いが美味さの余り一滴も残さず飲み干さねば! と言う気になり、口唇こうしんかられる事も無かった、渋みも無く、果肉も重厚、よもやこの世の物とは思えぬ味だ!

 見れば周囲の村民達はカットした物をフォークで口に運ぶなんて事はせず、皮ごとガブリと噛みついている。

 自分もああしたい、思いっきり大量に食べたい! 彼はそう言った衝動しょうどうられた。

「すごいな、これは。こんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてだ。この事も記事に書いていいかい?」

「ええ、ご自由にどうぞ」

 作家の男に対し、仙女風の女性は快く返答した。

 そして、周囲の村民達も口々に言う。

「お客さんも気に入ったか」

「記事なんて書かなくてもいいんじゃねえか?」

「仕事なんかせずに一生ここで暮しましょうよ」

「こんなに美味しい桃が食べれるのはここだけですものねえ」

「俺も昔小説家だったがね、ここへ移住してからとんと何も書いてないや、ガハハ!」

 その言葉に作家の男はハッとして、その村民を見た。

 間違いない、仲は大して良くなかったし交流も一度会っただけ、しかし目の前の元小説家は自分の知人だった。

「おいあんた、呉藻くれもがく……呉藻学じゃないか! ボクだ、気延きのべだ! リレー小説企画を一緒に一度やった、気延きのべ誉津ほむつだよ! お前、ここで一体何をしているんだ? 世間からは生活音が聞こえないから、雲隠れしたんじゃあ? と言われているぞ!」

「なんだも何も、リタイアした後の余生だよ。ここは何も働かずにただ桃だけ食っていればいいからな。この桃を食うとみーんなハッピーになれるのさ、ただここの桃はここでしか育たないし生えないから、物理的にこの村から離れられなくなるのだけれどな」

 作家の男の言葉に、元小説家の男そう答えた。

 上機嫌であったが、正気の、心からの言葉に相違なかった。

「おいあんた、どういう事だ? この桃には中毒性でもあるのか? この村では来訪者を囲って薬漬けにする風習でもあると言うのか?」

 静かな怒りを含んだ作家の男の言葉に、仙女風の女性は答えて言った。

「いいえ、わたくし共はそのような事は決してしません。ただ、この村ではこの桃が特有の食物であり、これを食べた人はここが気に入ると言うだけの事です」

「それが中毒じゃないかと言っている! まあいい、ここの事はルポルタージュにするには少々問題があるな、創作のタネって事にするか……ボクはこれで失礼する」

 作家の男は座布団から立ち上り、しかしそこから動けなかった。

 身体が言う事を聞かないのだ。それ見た村民達は笑いながら桃を齧って言う。

「そらあんたもここの桃のとりこだ!」

「この桃を食うと他の場所へ行く気なんか失せちまうもんなあ」

「安心しろって、住む場所ならあるからよ」

「それじゃ客人殿の為に乾杯でもするか!」

 なるほど、この桃は黄泉戸喫よもつへぐいか、もしくは冥界のザクロと言ったところ。

 ここは生きながらにして死者の国で、死者の国だから憲法は必要無いと言う寸法か、全く吐き気がする!

 作家の男は口に出さずにそう考えた。

 そう腹の中で考えていた矢先、自分の身体に違和感が走った。

 何やら顔を始めとして全身が痒い。家屋の中にあった鏡を見ると、自分の顔が若返っていた!

(この桃を摂食せっしょくした結果、肉体が全盛期に戻りつつあるとでも言うのか? だからさっきボクは、蒸発して小説家を引退した呉藻学の事がぱっと見で分からなかったのか! まるでアイルランド神話の常若の国や、聖書で言う天国で天使の様になった死者か何かか!)

 作家の男は意を決したように、振り返って仙女風の女性に尋ねる。

「おいあんた、この村にネット環境はあるか? ボクは作家だ、記事や作品を書いて送らないといけないんだ」

「いいえ、その様な物はありません。この村には何もありません故」

「じゃあボクはこの村を出る他無いな! その件なんだが、この桃を口にしたら帰れないとでも言いたさげにしているな? だがそれはおかしくないか? ボクの肉体を形成する食物は、ここの桃以外の方がずっと多いんだ。桃源郷の外の食べ物もたくさん胃の中にあると言うのに、桃を一口食べただけでこの桃源郷から出られないのは理屈に合わないじゃないか?」

「いいえ、その桃の作用はあなた様が体感した通り、一口で桃源郷の外のどんな食物をも凌駕りょうがします」

「なるほど、言いたい事は分かった。ではこうしよう」

 作家の男はそう言うと、おもむろに指を喉の奥に突っこみ、思いっきり嘔吐おうとをした。


 * * * 


「え、先生はその女の人の前でゲロを吐いて帰って来たんですか?」

「それはちょっと違うな、ボクはあの仙女気取りのアマの顔に思いっきりゲロを吐きかけてやったんだ。笑えたぜ、自分は絶対安全圏に居るんだーってすまし顔の奴の顔と服がゲロまみれになったんだからな! ついでに桃をリバースしたら、都合が良いのか悪いのか、肉体も元の年齢に戻った。いや、あの死者の国から離れたらと言った方が正しいかもな」

「何と言うか、先生みたいな自走式の疫病神やくびょうがみが走って突っこんで来た桃源郷の人が可哀想ですね……」

「何を言うんだ、向こうは拉致らち監禁一歩手前の事をして、しかもその上ボクの人権を無視する様な事を言って来たんだぜ? ゲロ吐きかけてやって正解さ! まあ、二度と来るな! と怒鳴られ、逃げ帰った訳だがね」

「死者の国から追い返された男か、もう訳が分かりませんね……もう先生は分類としては人間じゃないんじゃありませんか?」

 同居人の言葉に、作家の男は笑いながら答えた。

「滅多な事を言ってくれるな、ボク達は人間なんだ」

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