episode5『トンネルの向こうの食事-reverse-』
「ダメだ、全く書けん」
ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードに
アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くない、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。
「またですか……また書けないとかボヤいて黒魔術とか始めたりしないでくださいよ」
作家の同居人は心底迷惑そうな口調で釘を刺す、これに対して作家は気分を害したような態度を示す。
「
「今まだって言った!
「全くやかましいな、君は! コナンドイルを見てみろ、彼は娯楽小説の分野においては
「いやそれ先生の
同居人の指摘に、作家の男は極めて心外そうな顔をした。
「ふん! つまらない理屈で武装したものだな。まあいい、君には今からボクの神秘学にまつわる取材の話を聞いてもらおうか」
「聞きたくないです、そんな胡散臭い話」
「いいから聞け、この体験談と語りはボクにとっては一種の入出力だ。つまりボクにとっては仕事の一環であり死活行為で、ついでに言うと経済的な
「いつも思うんですけど、なんで先生は金銭を含めて何もかもがいつでもギリギリなんですか?」
「話と関係無い質問は一切受け付けない! これはI市と言う場所にまつわる話だ。I市には封鎖されたトンネルがあり、その先には人界のルールが適用されない村があると言われている、電話も電波も通ってなくて、一旦入ったら絶対に帰って来られないらしい。一番よく言われているのは、
呆れた同居人に対して、作家の男は聞く耳持たずの立て板に水の構えだ。
何が何でも自分の気が済むまで話す積もりと見える。それに対し、作家の同居人は今度は作家の男の話にきょとんと疑問を呈する。
「憲法が適用しないって、それ笑えるんですか? それ人権が機能してないって聞こえるんですが」
「君は本当に何も知らないな! 憲法ってのは基本的に王様や国そのものを取り締まる法だよ、王様が好き勝手出来ると人民の権利が
* * *
「なるほど、ここが件のトンネルか」
作家の男の前には、寂れて板が打ちつけられた封鎖されたトンネルがあった。
トンネルを封鎖している板は
しかし、作家の男にはある情報があった。
曰く、実際に行ってみたが思った以上に何も無かったのだと。
つまり完全に
そして、一見一分の隙間も無いと思われた板だが、よくよく調べると何らかの不自然な形跡が
「なるほど、どうやらトンネルの先へ行った人物が居るって言うのは嘘でもなさそうだな。問題は帰って来れない憲法無用の村か、何も無い村か、真実や
長いトンネルだった。
長いトンネルには霊が出るとか、何かしらの事故が起こると言われているが、そんな事は全く無く、ただただ闇がどこまでも続く様な不気味な雰囲気があるだけのトンネルだった。
トンネルは最初の方は真っ直ぐだったが、緩やかなカーブを描いているらしく、先は真っ暗、いつまで経ってもトンネルの出口には辿り着かないのでは? と、いわゆるスペランカーと呼ばれる人々ならば
しかし、作家の男は衛星写真でこのトンネルが車で長時間かかる様なトンネルではない事を予め調べており、この先に山陰の集落がある事も知っていた。
彼は退屈こそ感じたが、引き返そうと言う気は全く無かった。
やがてトンネルの先に光が見え、作家の男はようやく目的地に着いたぞ! と、
暖かな陽光と爽やかな風が吹き抜け、桜の花びらが舞っていた。今は春ではない。
暖かな陽光が周囲を照らしていた。先ほどトンネルに入った時は夕方だった。
木々には桃色の花が生え、桃の様な果実を形成していた。今は夏でもない。
「何なんだ……ここは?」
「ここは
呆然とする作家の男の前に、いつの間にやら立っていた、仙女の様な
「桃源郷? ここは何も無い、憲法が適用しない村じゃないのか?」
「はい、ここには浮世の
作家の男は
確かにこの女の言う事は、ボクの言う条件を満たしてこそいるが、はっきり言ってペテンの類だ。
ここが本当に桃源郷だと言うならば、帰って来れなくなるのも信じられるし、国家と言う枠組みが無くても人類が幸せになれると言うなら憲法も必要無い。
しかし、村の
作家の男は疑念を抱いたまま、
トンネルに入っていた時同様、
しかしこのままでは帰る事は出来ないと、そう考えて取材を続ける事にした。
「
作家の男は仙女風の女性に言われるがままに着いて行きながら、周囲の観察をした。
村中に桜の様な花が咲いており、その木からは桃の様な果実が成っていた。家屋はどれも
村民は皆幸せそうで、大半は桃をもいで
作家の男と仙女風の女性に気が付き、話しかけて来る事もあった。
「見ない顔だね、お客さんかい? うちの村はいい所だよ、何も無いが幸せはある。良かったらうちに移住しないかい?」
「いえ、ボクはここへは取材へ来ただけですので……ここの素晴らしい景色や、出来れば独自の文化なんかをまとめて帰り、皆に読んで貰えればそれがボクの幸せです」
作家の男へ話しかける村民は一人ならず居たが、作家の男の村を褒める言葉を聞くとニコニコと満足げに下がっていった。
「さあ着きましたよ稀人さん、こちらでどうぞお腹一杯召しあがって下さいな」
仙女風の女性に連れられて到着したのは村で最も大きな家、解放された庭の縁側から見える部屋の中では道中でも見た立派な桃が大量に並んでおり、桃からなる飲料だろうか? 何やら白い液体で乾杯をしている村民の姿もあった。
作家の男は村民たちに導かれるままに部屋に通され、座布団に座り、言われるがままにカットされた桃を口に運んだ。
作家の男は目を剥いた。
桃の味がする、こんなに味の濃い桃は初めてだ! 甘味は強いがべたつかず、汁気は多いが美味さの余り一滴も残さず飲み干さねば! と言う気になり、
見れば周囲の村民達はカットした物をフォークで口に運ぶなんて事はせず、皮ごとガブリと噛みついている。
自分もああしたい、思いっきり大量に食べたい! 彼はそう言った
「すごいな、これは。こんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてだ。この事も記事に書いていいかい?」
「ええ、ご自由にどうぞ」
作家の男に対し、仙女風の女性は快く返答した。
そして、周囲の村民達も口々に言う。
「お客さんも気に入ったか」
「記事なんて書かなくてもいいんじゃねえか?」
「仕事なんかせずに一生ここで暮しましょうよ」
「こんなに美味しい桃が食べれるのはここだけですものねえ」
「俺も昔小説家だったがね、ここへ移住してからとんと何も書いてないや、ガハハ!」
その言葉に作家の男はハッとして、その村民を見た。
間違いない、仲は大して良くなかったし交流も一度会っただけ、しかし目の前の元小説家は自分の知人だった。
「おいあんた、
「なんだも何も、リタイアした後の余生だよ。ここは何も働かずにただ桃だけ食っていればいいからな。この桃を食うとみーんなハッピーになれるのさ、ただここの桃はここでしか育たないし生えないから、物理的にこの村から離れられなくなるのだけれどな」
作家の男の言葉に、元小説家の男そう答えた。
上機嫌であったが、正気の、心からの言葉に相違なかった。
「おいあんた、どういう事だ? この桃には中毒性でもあるのか? この村では来訪者を囲って薬漬けにする風習でもあると言うのか?」
静かな怒りを含んだ作家の男の言葉に、仙女風の女性は答えて言った。
「いいえ、わたくし共はそのような事は決してしません。ただ、この村ではこの桃が特有の食物であり、これを食べた人はここが気に入ると言うだけの事です」
「それが中毒じゃないかと言っている! まあいい、ここの事はルポルタージュにするには少々問題があるな、創作のタネって事にするか……ボクはこれで失礼する」
作家の男は座布団から立ち上り、しかしそこから動けなかった。
身体が言う事を聞かないのだ。それ見た村民達は笑いながら桃を齧って言う。
「そらあんたもここの桃の
「この桃を食うと他の場所へ行く気なんか失せちまうもんなあ」
「安心しろって、住む場所ならあるからよ」
「それじゃ客人殿の為に乾杯でもするか!」
なるほど、この桃は
ここは生きながらにして死者の国で、死者の国だから憲法は必要無いと言う寸法か、全く吐き気がする!
作家の男は口に出さずにそう考えた。
そう腹の中で考えていた矢先、自分の身体に違和感が走った。
何やら顔を始めとして全身が痒い。家屋の中にあった鏡を見ると、自分の顔が若返っていた!
(この桃を
作家の男は意を決したように、振り返って仙女風の女性に尋ねる。
「おいあんた、この村にネット環境はあるか? ボクは作家だ、記事や作品を書いて送らないといけないんだ」
「いいえ、その様な物はありません。この村には何もありません故」
「じゃあボクはこの村を出る他無いな! その件なんだが、この桃を口にしたら帰れないとでも言いたさげにしているな? だがそれはおかしくないか? ボクの肉体を形成する食物は、ここの桃以外の方がずっと多いんだ。桃源郷の外の食べ物もたくさん胃の中にあると言うのに、桃を一口食べただけでこの桃源郷から出られないのは理屈に合わないじゃないか?」
「いいえ、その桃の作用はあなた様が体感した通り、一口で桃源郷の外のどんな食物をも
「なるほど、言いたい事は分かった。ではこうしよう」
作家の男はそう言うと、おもむろに指を喉の奥に突っこみ、思いっきり
* * *
「え、先生はその女の人の前でゲロを吐いて帰って来たんですか?」
「それはちょっと違うな、ボクはあの仙女気取りのアマの顔に思いっきりゲロを吐きかけてやったんだ。笑えたぜ、自分は絶対安全圏に居るんだーってすまし顔の奴の顔と服がゲロ
「何と言うか、先生みたいな自走式の
「何を言うんだ、向こうは
「死者の国から追い返された男か、もう訳が分かりませんね……もう先生は分類としては人間じゃないんじゃありませんか?」
同居人の言葉に、作家の男は笑いながら答えた。
「滅多な事を言ってくれるな、ボク達は人間なんだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます