episode6『失踪の噂-Vanity space-』

「ダメだ、全く書けん」

 ある作家が机の前でボヤいていた。その作家は学生時代からノートやキーボードに齧り付いて暮しており、筆の速さが自慢だった。しかし、書けない。

 アイディアはある、やる気もある、仕事環境だって悪くない、体力作りは日課のランニングのおかげでたっぷりだ。しかし、書けないものは書けないのだ。


「書けない書けないと言っている場合じゃありませんよ、先生ここのところ二カ月以上サボっていたじゃないですか」

 作家の同居人は作家の男をたしなめ、携帯端末に視線を戻した。

「げえ、なんだこの意見。全く的を射ていないし、何の参考にもならない……こいつは日本語が理解出来ているのか? これは告知が来ない様設定するしかないな」

 作家の同居人の男の言葉に、作家の男は興味深そうに額を寄せて来た。

「なるほど、こりゃ酷い。お前の小説はクズだ! 一行一行毎に改行をして行間を空けろ! お前の様な作家は気延きのべ誉津ほむつの爪のあかでも煎じて飲め! 画数の多い感じを使うんじゃねえ! か、こりゃお笑いだな!」

「そこまでは言われていません」

「いいや、言われているも同じさ。こいつの文章を見ろよ、相手の事を思っていない事が一目瞭然いちもくりょうぜんだし、もしくは自分が絶対正しいと盲信して間違っている事しか言ってないんだ。コイツの本音はそんなところだよ」

 作家の男は水を得た魚、立て板に水と言った調子でのべつ幕無し相手を悪く言い始める。

 相手が今、この場で目の前に居ないのを良い事に、相手を悪く言うのが楽しくてたまらないといった様子か。

 いや、この男の場合、相手が今この場に居たらもっと調子づいて哄笑こうしょうの一つや二つも追加していただろう。

「そもそもボクの爪の垢とか言っているのも笑えるな。こいつが言っている一行一行毎に行間を空けろって旨だが、ボクはそんな事してないぜ? ボクの著作はネットでも無料で試し読み出来ると言うのに、さてはボクの作品なんて一冊も読んだ事が無いエアーマンに違いない。これは大した知ったかぶりの無知蒙昧むちもうまいだな! 小学校一年生の教科書でも、行と行の間を空けるのは場面変更の表現だって内容が書いてあるのに、こいつの知能は小学一年生にも劣るらしい!」

「そんな悪く言わなくても……一応この人は俺の読者なんですし……」

「おいおい、おいおいおいおい、そいつをかばうのか? ボクにはこいつの動機と手口と精神のありようが手に取る様に理解出来るぜ、丁度孫悟空を握り潰すお釈迦様しゃかさまみたいにな! 君、今自分の作品の感想文や紹介文は幾つあるか分かるか? 作品自体のフォロワーは? もしくはコメント貰った事は?」

 作家の男にそう言われて、作家の同居人はもじもじと恥ずかしそうにボソりと呟く。

「え、何? 聞こえない」

「たったの十個ですよ! 先生みたいに、書けば日本中や海外が黄色い声挙げて喜ぶような事は俺には出来ません!」

 その言葉を聞いて作家の男は満足げに微笑む。

「いいじゃないか、君は自分の作品を通して十人の人間に夢とか希望を与えたんだぜ? これは胸を張ってほこるべき事だ。そもそも一人の人間にわざわざ感想文を書かせるだなんて、小規模な奇蹟きせきと言っても過言じゃあ無い。だって、読書感想文の宿題なんて物、億劫で夏休みの最後の日に済ませるものだからね!」

 作家の男にそう言われ、作家の同居人は顔を紅くして伏せた。

「ありがとうございます……」

「礼を言うのはまだ早いぜ、ボクは動機と手口と精神が分かると言っただろう? 感想文からそいつの作品へ飛べるよな? そいつのスコアを見てくれ」

 作家の同居人は指示されたままに端末を操作し、批評を送って来た人物の作品へ飛ぶ。

「感想文が二件……? 何だよ、どんぐりの背比べかも知れないが、コイツ俺より全然ダメじゃないか……」

 その言葉を聞いて作家の男は舌打ちをした。

「口だけだと思ったが、思ったよりは数マイクロミリメートル程はやるようだな……」

「先生、さっき御自身と言った事と矛盾していませんか? この人は少なくとも二人の人間を感動させた事になるんですよね?」

 作家の男は、同居人の言葉に両耳を塞いでわめき始める。

「あーあーあー、聞こえませんー! ボクが的を射ない酷評をされた時は、その自称批評家は完全に口だけの零点ダメ人間だったんだもーん! そいつ、ボクにアドバイスする振りをして、間違った情報をガンガン言って来るって言う、まるでマラソンランナーに毒入りジュースを差し入れして来るみたいな、足引っ張り全振り無能極悪人だったんだもーん! ボクには何も聞こえませーん!」

 その様を見た作家の同居人は思わず吹き出し、そして笑い出した。

「ははは、なんか先生の言葉を聞いていたら、酷評された事なんてどうでもよくなってきましたよ。ありがとうございます、先生」

「あはははは! そうだろう、そうだろう。ボクは偉いんだ、もっとたたたまえ」

「はいはい、調子に乗らないでください。」

「ああそうそう、今日この日の事は忘れるなよ。人生で起こった事、全てを肥やしにしろ。ボクが常々言っている事だが、事実は小説より奇なり、作家は自分が体験した事しか書けないんだ。その酷評をやってのけた人間は、メモを取るか写真を撮るかして、アクセス拒否もしないでおくといい。それは実際に悪質な被害を受けた場合にとっておけ、人と人との繋がりはどこでどう作用するか分からないからな」

「それは先生がさっき言ったように、先生の実体験ですか?」

「いいや、それも実体験だが、これは別の実体験だ。端的に言うと、ボクはこの間殺されたんだ。いや、アクセスを拒否されたと言った方が正しいのかもな」


 * * * 


 本屋を兼ねたカフェで雑誌を開き、コーヒーを飲みながら精読する。

 正直言って、ボクは他の作家の作品にはさほど興味が無い。

 ボクにとって最高の作品とは、自分の手で生み出すべき理想の物であって、つまり他の作家がボクより素晴らしい作品を書いたとしても、それは今現在実在する作品であるが故に最高の作品とは定義し得ないのだ。

 雑誌のめぼしい箇所を読み終え、持ち込んだ端末を操作し、気になった作家の名前で評判や本人の弁を調べる。

 ボクにとってライバルとは素晴らしい作品を作る人間ではなく、雷光の如き強い向上心や克己心を持つ人間だ、実力や経歴の有無ではない。

 ボクにとって脅威となる人間や評価に値する人間は、目に見える格上ではない、何時いつ何時なんどき足元をすくって来るか分からない格下とされている人間なのだ。

生橋なまはし博衛はくえ。ミンメイパブリッシング新人賞を佳作で入賞し、その後ウェブ連載で頭角を顕し、現在同レーベルから文庫本の一、二巻が好評発売中か……こいつは注目だな、こう言ったギラギラした新人の闘争心こそ最高の参考になる」

 しかし、今の時代作家同士が額を寄せて雑談する事なんてそうそうないし、これが黄金期の話なら、同じ集合住宅の中に複数の作家が住み込み、それこそ家族の様にアシスタントの真似事をしたりする事もあっただろう。

 もしも今の時代、作家同士が対話する事があるとしたら、それはモニター越しかウェブ上での文通が一般的だろう。

「昔は良かったとは言う積もりは無いが、昔の人が見たら今と未来のどちらが良いと言うだろうね?」

 ボクは雑誌と端末をしまい、コーヒーを飲み干して本や兼カフェを後にした。


 総合住宅の郵便受けを確認すると、やけに配達物の量が多い。

 はて、何か届く予定でもあっただろうか? と疑問に思いながら郵便受けを開けると、配達人が間違えたのであろう、上の郵便受けの住民への郵便物が交ざっていた。

「一つ上の郵便受けは、一つ上の階か。名前は生橋なまはし……生橋なまはしだと!?」

 まさに事実は小説より奇なりか。ボクの住んでいる集合住宅の上の階に、勝手に好敵手認定している人間が住んでいたのだ!

「これはいい、まるで口にトーストを咥えた女子生徒が全力疾走する様なベタベタな展開だ。創作意欲がむくむく湧いて来た、これを口実に部屋に踏みこんでやろう!」


 生橋博衛なまはし はくえとの対話は実に実りある物だった。

 インターホン越しに郵便物を届けた時には幸運にも在宅だったし、快く部屋へ通してくれてスムーズに話が進み、彼の小説に対するバックボーンや意気込みを聞き出し、連絡先も交換する事に成功した。

 勿論この経験はメモに記してあり、作品に使える事は髄まで使ってやる所存だ。

 あちらも大なり小なりこちらと同じ腹積もりだろうし、早い話は友達同士の助け合い、そうボクと生橋なまはしは今日から友人となったのだ。

「おれ、高校の頃はサビーとかザビエルって呼ばれてたんです。と言うのも、当時ロックが大好きで、楽器の方は下手の横好きだったのですが、両耳に小さい十字架のピアスを付けてたんです。自由な校風だったんで」

 そう語る生橋なまはしの顔は優男と言った感じの印象で、髪も茶色でロックファッションが似合いそうとは到底思えなかった。

「でも、そういう経験もあっておれは今ここに居るのだと、そう考えています。音楽もファッションも小説家としてのおれを構成する成分って言いますか」

 そう語る生橋なまはしの声と顔には、未来への覇気を感じさせるものが感じられた。


 ボクは行きつけの本屋でミンメイパブリッシングから出ている雑誌を買ったが、しかしそこには奇妙な脱字があった。

 なんとアンケートハガキの面白かった作品に、生橋なまはしの作品が載っていない。

 雑誌にはキチンと生橋なまはしの作品が載っているにも関わらずだ!

「おいおいおいおい、ボクが生橋の立場だったら編集に破城槌か何か持って乗り込むぞ? アンケート至上主義の雑誌だったら、人一人の首が飛んだり飛ばなかったりする一大事じゃないか! それに生橋なまはしも可哀想だが、これには浜橋はまはしのファンが可哀想じゃないか! このアンケートハガキに誰の名前を書いて送れば良いのか分からないっ! くそっ、なんて可哀想なボクなんだ!」

 何かおかしい。

 なんでアンケートハガキに彼の名前が載っていないかも分からないが、何かがおかしい。

 しかも何がおかしいかと言うと、まるで頭にかすみがかかったかの様に何がおかしいのか分からないのだ。

 まさに五里霧中と言う他無い。

「まあいい、ミンメイパブリッシングマガジンの評判をネットで見てみよう。看板作家と言っても差し支えないはしの名前が載っていないなんて、さすがに誰か気づくだろう。確か彼の下の名前は……どれどれ、そうだ博衛はくえだったな」

 しかしネットではし拓衛たくえの名前を検索しても、何の情報も出て来ない。

 まるで生八なまやはしと言う名前の人間なんて初めから居なかったかのように、情報が全く出て来ない。

 試しに彼の本名ではなく、愛称のザビエルで検索もしてみたが、フランシスコ・ザビエルの情報しか出て来ない!

「くそっ、何がどうなっているのかまるで分からん! こうして雑誌には名前は白紙なまはしはくえの小説と、イラスト担当者の表紙と挿絵も載っているんだ! なのに検索結果に出て来ないのはどう言う事なんだ? まるで世界中の人間が名前は白紙なまえははくしをアクセス拒否しているか、その逆の様だ!」

 試しに____なまはしはくえの相方たるイラストレーターの名前で検索してみたが、こちらは情報が得られて、おおむね好評だった。

 しかし、____なまえははくしの情報は一切出て来なかった。どういう事だ!?

 次の瞬間にはボクは、____闇闇闇闇闇闇闇の部屋へ向かっていた。足がどうにかなりそうにも関わらず、友達の元へ全力で走った。

 携帯端末で連絡を取るが、応答は全くない。

闇闇闇闇なまえははくし! 居るのか? 反応してくれ!」

 インターホンを鳴らしても全く反応が無い。

 これは間違いなく異常事態だ、個室でクソをきばっているなんて状況じゃないと、ボクの勘がそう言っている。

「くそ、管理会社に電話して開けてもらうしかないか!?」

 その時気が付いた。

 携帯端末を操作しようとしている、自分の右人差し指が無い。

「な、なんだこれはああああぁぁぁぁ!?」

 落ち着け!

 いや、これが落ち着けるものか!

 ボクの指が消えているんだぞ!

 しかも消えたの指先だった筈だが、今では人差し指の根元までが消失していた。

「こ、これは何が起こっている!? ボクの肉体が消えている! 誰か! 誰か居ないのか!?」

 そう叫んだ時、気が付いた。

 これはアクセス拒否だ、ボクは今、丁度人が他人のメールや言葉が届かなくなる様にアクセス拒否を行なうのと同じ要領で、右人差し指を世界からアクセス拒否されたのだ。

「くそ、これと同じ事が闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇闇、いいや、ザビエルにも起こったのか? くそっ、消失が右手首まで回って来た、ボクは、ボクは一体どうなるんだ!?」

 次の瞬間、膝が砕けた。

 いや、膝が砕けたと言う表現は誤りだ、見るとボクの両足のうち、つまさきからくるぶしまでが丸々消失していた。

「くそっ、この現象が脳や心臓に回ったらどうなるんだ? いや、主要器官に回らずとも、肉体の三分の一が消失したら機能不全に陥って死んでしまう! くそっ、畜生!」

 そう喚いている間にも消失は右手から、足元から回っていき、胴体や股関節へ回り、そして心





























 * * *


「と言う訳だ、ボクは世界から殺されると同然の目に遭わされた」

「いや、先生は生きているじゃないですか」

 作家の同居人は、作家の男の尻切れトンボな話に苦言を呈する。

 何せ殺人事件が被害者の目線で終わってしまったに等しいのだから、仕方がない。

「まあ待て、この後も話があるんだ。君はさっきボクに対して二カ月以上サボったと言っろ? 君はこれまでボクがサボっているのを観た事があるか? いや、原稿が進まないとかじゃなく、作品を書こうとする姿勢が無いような様子を一日たりとも見た事があるか?」

「そう言えば、無いです。いつでも書けない書けないと呻きながら、仕事はちゃんとしています」

 作家の同居人の言葉に、作家の男は自信満々な様子で胸を張る。

 相手に同意して貰って嬉しくて仕方が無いと言った様子だ。

「そうだろう、そうだろう。つまりはだな、ボクは世界からアクセス拒否される様な方法で神隠しにあったんだ。気が付いた時には七十五日が経過していたよ、お陰で普段は楽々だった仕事がギリギリだったり、落としたりで散々だ。何とか言い訳を捻出したいが、仕事が滞って結果として皆に迷惑をかけたのは事実だからな、とりあえず一に仕事、二に仕事するしかない。ボクも可哀想だが、生橋の奴も同じくらい可哀想だね」

「うへえ、七十五日って、それこそ夏休みよりもずっと長いじゃないですか」

「その通り、しかも宿題も多い。まあいい、こうして話している内に頭の整理もついてすいすい書ける様になったからな」

 作家の男はそう言いながら、端末を打ち込んでいた。

「ところで先生、そのアクセス拒否だか神隠しって結局何だったんですか?」

 作家の同居人の問いかけに、作家の男は端末に打ち込みながら答えた。

「さあな、ボクにも分からんよ。何せ生橋を消し去る際に、生橋の相方たるイラストレーターじゃなくボクを一緒に消し去ったんだ。何を基準に選んでいるか分からないし、ひょっとしたら基準とか選出も無しに無差別にやっているのかも知れん」

 そう語る作家の男の腕に、何か羽虫が止まる。

「あ、蚊だ」

 作家の男は、自分の腕に止まった蚊を叩き潰して殺した。

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