第3話 自己選択された痛みに被害意識はないという話
『誰かに刺さる話』という事は、つまり、その話は『誰かに傷を作る』という事である。
なぜ、傷つくことは一般的に忌避されるのに、人は物語に刺されることを求めるのだろう?
それは、物語それ自体には自我を感じにくいからではないか、と個人的に思う。
作中の登場人物たちには勿論人格はあるが、彼らの意思は物語の外側にある読者を認識せず、感情を向けられるなんてことはほぼ無い。
読者は物語に介入しえない第三者であり、完全に作中世界から隔絶していることで守られている。
安全な立ち位置で話を眺められる権利があるのだ。
そして物語というものも自意識を持たない無生物であり、物語を眺める読者に意思を持った投げかけをすることはない。
『読書とは能動的活動である』
この言葉はつまり、読者は能動的に物語を観測する一方で、物語側が能動的に働きかけることはない、ということではないかと個人的に考える。
読者が『受け取った』を感じるメッセージや感動それ自体も、読者が選択的に解釈し、『伝えられた』と思っているに過ぎない、という少々強い見方も、できると言えばできる、のかもしれない。
物語それ自体には自我はない。
だが自我がないからこそ、そこから受け取る感情――――特に悲しみのようなマイナスの感情は、『傷つけ!』というような害意を伴う意思が存在することもない。
つまり、読書による傷つく感覚は、他者からの害意が介在せず、その上『この痛みを受け取ろう』というような読者側に感じ取るかどうかの選択の自由がある、といった側面がある。
傷つくという行為でありながら、その痛みには他者の害意は存在せず、自己選択的でもある。
だから、物語に傷つく、刺さる、という事は、実存の誰かからの明確な厳しい・強い・恐ろしい感情を向けられながら受動的に受けとらざるを得ない、という選択権の乏しい事象とは訳が違うのである。
故に作品から、極端に恣意的なメッセージ性といったものを感じ取る時、読者は『押し付けられた』と鼻白む。
一方的に観測し、圧倒的に選択権を持つ立場であったはずなのに、突然物語側から自身が望まないモノを強制されたように感じれば、当然と言えば当然だ。
作品から自我を感じたくない、という情動は、読書の『能動的鑑賞行為』といった側面から発生しているのかもしれない。
さて、以上の思考から私はふと、誰かに『良い刺し傷』を作る物語の必要条件は、読者に能動的な働きかけをしない、という事ではないかと思ったりする。
作品の展開も、登場人物の感情のやりとりも、強く哀しい台詞も。
例えば『このような行いをすれば、このような報いを受ける』といったような、教訓的、教示的な気配を押し出そうとはしない。
舞台上の俳優が観客が受け取りやすい声の大きさや、見えやすい演技の角度を意識しつつも、表現する感情それ自体は『無色透明の観客』のその向こう、作中の他の演者に投げかけるようであること、といった概念に近いのかもしれない。
鑑賞しやすさを考慮する以外では、鑑賞者(読者)はいい意味で『無い存在』であった方がいい、という事だ。
そうすれば、自身を意識されていないと安心した鑑賞者(読者)は、自ずから必要とする感動を選択し、満足のうちに物語の終幕を見届けるのだろう。
物語を書く時、どうしても読む相手を意識しない訳にはいかない。
しかし、その意識は『受け取りやすく整える』以上の過剰さであってもよくはないのだと思う。
物語に、大切な登場人物たちに、集中するべきなのだ。
作る上での過剰な自己中心的・自分勝手的視点も、読者(他者)を意識せずとも、登場人物たち(他者)を意識さえしていれば、解消されるのではないか、と考える。
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