壊せない壁

葱と落花生

 壊せない壁

 私の背中


 壮絶な吹雪に見舞われ、深い雪に埋もれたまま長い月日が流れた。

 極寒の時がようやく終われば、穏やかな日差しにこの身を委ねられると思い込んでいた。

 しかし、一瞬で雪を溶かした灼熱の陽射しは、猫のように丸まったこの背中を容赦なく焼き尽くした。

 河岸に生える草木は激変する環境に耐えきれず、何時しか枯れ果ててしまった。

 辛うじて生き延びているのは、河に巣食う生物が僅かばかりだろうか。

 それとて近くに住まう人間達が、飢えをしのぐのに食いつくさんが勢いの世だ。

 ボンヤリ空を見上げる私にできる事など、何もない。


 喜怒哀楽に満ちた時代が暫く訪れないだろう事は、河の両岸を行き来する鳥達の様子で容易に想像できる。

 かく言う私には、祖国とすべき台地が無い。

 いや、無かったとすべきか、奪われたとすべきか。

 いずれにしろ長い事、国とした檻に囚われた者達とは別の生き方をしてきた。

 それが幸せだったか不幸だったか問われると、この歳になっても答えに困る。

 ただ、遠くに消え去りたいとか、仙人の様に暮らしたいとは考えない。

 むしろ、多くの人と接し、この世の繁栄を実感しつつ生きたいと願っている。


 陽が傾き、私の影がキラキラした川面に長く伸びている。

 私はいったい何時から、誰の為に、何をしたくてここに居るのだろう。

 そんな事より、人はどんな目で私を見ているのだろうか。

 いつもゴロっと横になったまま空を見上げたり、川面を眺めたりしているだけの怠け者だろうか。

 台地にしっかり立ち、微動だにしない強情者だろうか。

 道に伏し息絶えヽの人を、助けるでもなく声を掛けるでもない薄情者だろうか。

 ひょっとして、隣国から大量の兵士や武器を運び込む鬼畜だろうか。


 幾年、幾十年、ひょっとしたら幾百年、己の年齢すら定かでない。

 今は誰も私の事を頼って来たりしない。

 何時の時代でもそうだったように、誰かが私に御願いをする時は、必ずと言っていいほど悪い事が起きる。

 時代の波が人心を惑わし、たった一つの大切な約束でさえ守れなくしてしまう。

 蝶の羽ばたきの如く、ほんの小さな出来事が、人から人へ僅かばかり大きく語られ、何十億の人に知れる頃には、世界をも飲み込む巨大な嵐を創り上げる。

 わかっていても、もはや嵐にまで育ってしまった蝶の羽ばたきを、止める手立てを持たぬのが人間の悲しい性だ。

 この事を伝えず、生涯だんまりを決め込んだ私は、類なき卑怯者かもしれない。

 


 ある暑い夏の事、河を隔てた二国のいがみ合いが一段と激しくなった。

 両の岸には何万という兵士が陣を築き、険しい表情で睨み合う日が続いた。

 そこへ、大勢の人がトラック満載の荷と一緒にやって来た。

 ガラガラと乱暴な音をたて、ダンプが私の背中へレンガを落とす。

 それを職人が真ん中まで運び、忙しなく積み上げていくと、ほんの数日で分厚い壁が出来上がった。

 壁の天辺に鉄条網が張られると、河を隔てた人々の行き来は禁止された。


 両岸に聳える見張り台の中には機関銃が据え置かれ、昼夜徹した監視が続けられるようになった。

 政府と称した魔物が教育と偽り、敵と定めた地域の民を憎み、罵らない者は罰すると国民を脅した。


 近くにかかっていた私の仲間は、無残にも破壊され河底に沈んだと噂に聞く。


 同じ人間、同じ民族でありながら、何時しか政府の思惑どうり、民達は互いにいがみ合うのが当然であるかのように過ごすようになっていった。


 河の両岸で繰り広げられる小競り合いの銃声が、夜な夜な高い星空に響き渡る。

 周辺諸国の進めにより政府間の話し合いはあるものの、それは何時になっても堂々巡り、本気で和平を結ぼうと考えているとは、到底思えぬ議論ばかりである。

 それもその筈、両陣営を後押ししている大国は、己が利益ばかりを追求している者達ばかりだ。

 小国の内戦に見せかけ、互いの力を誇示しているに過ぎない話し合いが、まともな形でまとまる訳がない。

 最悪、戦闘状態悪化となっても、大国は己が国に余った兵器の在庫一掃をするだけの争いである。

 自国に何ら被害の及ぶものではない。

 たとえ、自国の兵士が巻き込まれ死傷したにしても、国家が勝手に決めた正義の理論により、死傷者の犠牲は正当なものとされてしまう。

 そこには、平等も平和も、生きる権利すらないのである。



 年が明けて早春、一時休戦が布告された朝。

 河を境に引き離されていた家族や親戚達が、両岸で手を振り、大声を出して呼び合っている。

 久しく見なかった人々の笑顔である。


 この景色に、争が終わったと勘違いしたか、一人の少女が河の中へと歩き出した。

「だめー! 来ちゃだめよ。 来ないで」

 娘を制止する母親の声。

 懐かしく暖かく、直ぐに抱き着いて甘えたい気持ちで頭を一杯にするには十分な刺激に、少女の足はなお速くなる。

「来ないでー」

 明るかった宴の場は、年端もいかない少女の動きを見守る静寂へと一転した。


 バーン!ドッゴーン

 見張り台から狙撃手が、川面に威嚇の発砲をすると、背丈よりも高い水柱が立ち昇り、俄雨のように少女の姿を曇らす。

「嫌ー」母親は、悲鳴にも似た叫びと共に少女へと駆け寄る。

 バーン! 今度は対岸の見張り台から、母親めがけて発砲された。


 ドン。

 銃弾が母親の背を貫く。

 倒れ込む母親に向かって走り出す少女。

 バーン!ドン。

 少女の体が宙に舞い、そのまま川面に叩き付けられる。


 求め合った手と手が触れる事はない。

 二人は流れに揉まれて浮き沈みする。

 両岸の人々は呆然とし、生死の境で流れて行く二体を見ているだけである。


 狙撃手とて、望んで引き金を引いたのではない。

 命令した上官とて、願って母子を銃弾で貫いたのではない。

 こじ付けの大義名分に、強く洗脳された結果である。


 こんな事件が有ったのを知ってか知らずか、長い長い戦争が続いた後に和平を約束した両国は、私の背に乗った厚い壁を取り壊す事に同意した。





 少年とパン屋と老婆


 冬の始めに粉雪が、壊した壁の痕跡を白く化粧すると、私は再び人々の為に働く事となった。

 相変わらず両岸には検問があるものの、チョイと前に比べるとその違いは歴然。

 両岸に開かれた市では、あちらこちらの品物が行き来し、活気に満ち溢れている。


「ドロボー。このガキがー」

 市のパン屋が、腹を空かせた子供に対し、怒り露わに拳を振り降ろす。

 猫の子のように襟首を捕まえられた少年は、両手に抱え込んだ大きなパンを離そうとしない。

 それどころか、殴られながらも抱えたパンを食っている。


「どこから来やがった。どうせ向こう岸からだろう。あっちじゃろくに食わせられねえのか。ろくなもんじゃねえな」

 パン屋は腹立ちまぎれにこう吐くと、少年を蹴り飛ばした。


 これを見ていて我慢できなくなったのが、向こう岸からの買い物客である。

「おい、泥棒をぶちのめしただけの話なら黙っていようと思ったが、向こう岸の者が誰も彼もろくでなしみてえな言い方されたんじゃ黙ってられねえな」

「何をー、てめえも向こう岸か、おめえらに売ってやるパンはねえ、帰んな」


 毎日ではないにしろ、こんな言い争い、時として殴り合い、暴動にまで発展する事が、岸の両側で起こっていた。

 稀に平和な時を毛嫌いする輩が、市で爆発を引き起こす事もある。

 岸のあっちだろうがこっちだろうが、国が大きかろうが小さかろうが、何がどうひっくり返っても人であるに変わりない者達が、教育と偽った洗脳から覚めきれずにいるのだ。


 気が遠くなる程の昔から、理由を忘れた戦争を続けてきた人々の、潜在意識にある敵対心を消し去るのは容易ではない。

 あれほど両岸での自由な行き来と平和を望んでいた者達が、やっと叶った願いを今度は壊そうとしている。


「おーおー、かわいそうにね、パン屋さん、この子が食べているのは幾らだい、私が払うよ」

 随分と悲しい時代を綴ってきたであろう老婆が、子供をかばう様にして背中を撫でながら言う。

「ほー、物好きな御仁もあったもんだ。金さえもらえりゃ御客さんだ、どうせもうすぐ店仕舞いだ、おまけもくれてやらあ、持っていきな」

 パン屋は自分の行いを恥じていると素直に言えないのか、並べてあったパンの半分を袋一杯詰め込んで老婆に渡した。


「坊や、親はどうしたね。とにかく一緒においで、その身形もあんまりだ、なんとかしてあげるよ」

 老婆に言われるまま、少年は町外れにある家へとついていく。

 家に着くと少年を風呂に入れ、汚れた衣服を洗ってやり、新しい服をあげた。


「坊や、親はどうしたね」

「御前の仲間に殺された」

 対岸に住まう少年は、周囲の大人達から『お前の親は向こう岸の連中に殺された』と教え込まれていた。

「こっちの者が全部そんな事をする人間じゃないんだよ。兵隊さんだって、上からの命令で仕方なくやった事なんだよ。代わりに私が謝るよ、許しておくれ」


 少年の手をとり何度も頭を下げる老婆の向こうには、暖炉の上に置かれて沢山の写真がある。

 そこには、休戦の日に撃ち殺された少女と母親が写っていた。


 これから十数年、少年は老婆と暮らし立派な青年になった。

 相変わらず見えない壁は、私の背中に乗ったままである。


 表向き両岸の住人達は平穏に過ごしているものの、向こう岸から来たよそ者という、青年に対する烙印は何時になっても付きまとっている。

 町で知り合った女性と仲良くなっても、彼が向こう岸から来た人間だと知るや、自然と遠ざかっていくのが常である。

 昔からの住人がつく仕事にはつけず、人が嫌がる仕事ばかりだが、「仕事があるだけ俺は幸せなんだ」と、老婆に言う。


 深い慈愛を持った老婆と、強い意思で周囲からの差別を受け止めている青年。

 二人の凛とした有り方に、好意を持つ者も少なくなかった。


 足腰が弱って杖を頼りに歩く老婆が、青年に悲しそうな目をして話掛けた。

「もう、向こう岸にお帰り。町長さんがな、また戦争が始まりそうだから、そうなったら、御前が真っ先に酷い目にあわされるからってな」

 涙を流す老婆がパンを一切れ青年に渡す。

 十数年前、青年を泥棒と罵ったパン屋が、今では町長になっていた。

「もう止めようよ。無意味な戦いは、誰も望んでいないだろう」

 青年もまた、流れる涙を拭いて老婆に意見する。


 この晩、青年は老婆の為にシチューを作り、夕食時をゆったり過ごした。

「なあ、手紙は届くかな」

「この前の時は郵便も止まったなー」

「歩くのきついに、俺があっちに行ったらどうすんだ」

「町長さんが家に来いって、あの人も変わったな」

 町長が少年に出会い、老婆と話すうち、穏やかで慈悲深くなったのを、町の者は皆知っている。

 それを、悪く言う者もあれば、良く言う者もある。

 彼が町長でいても、この町は青年が安心して暮らせる場所ではないのだ。

 青年は向こう岸の街へ、この日の夜中になって去って行った。


 暫くすると青年が向こうで、平和を訴える活動を始めたと風が伝えてきた。

 この噂を聞き町長が「こっちでもやるかい?」と老婆に問うた。

「こんな婆に、まだ働けって言うのかい。あんたがやんな!」

 声は荒げているが、顔が笑っている。


 花々がようやく蕾を付ける頃、雪解け水が河いっぱいに流れている。

 何時か必ず、背中に乗った見えない壁が消え去る日のやってくる事を信じ、私はここに建ち続ける事にしよう。

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壊せない壁 葱と落花生 @azenokouji-dengaku

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