鏑矢 3

 ずいぶんと気まずい朝食だった。

 遼太郎が飛び出した後、飛鳥たちは秀一に促されるまま朝食をとった。夕子の手料理という空気ではなく、秀一に倣って全員が缶詰や昨夜の残り物ですませた。その間にスティレットの件を口に出す者はおらず、互いの顔色を探り合うような状態だった。その中でも、秀一は平常運転だったようで、自身が口にしていた楽観論はその態度を後ろ盾に、英字たちの高ぶった神経を日常へと戻し始めた。

 そうして朝食を終えた飛鳥たちは、それぞれの日常へ戻って行った。秀一たちも常に一緒という関係ではないため、それぞれが食堂を後にした。

 飛鳥もその流れに従い、大食堂を後にした。とはいえ、止む気配を見せない吹雪に反して、今の飛鳥に予定はない。行きずり状態のため、一人で時間を潰せるような物を持ってきているわけではないのだ。自室に籠っている名案もあったが、桐生楓製の人形が屋敷中に飾られていると聞いた以上、その美しい躰を眺めに行くほうが楽しいと結論し、飛鳥は一人屋敷の中を散策し始めた。

 西館は翔太による案内で満喫はしたが、東館はまだ見ていない。

 食後の身繕いを終えた飛鳥は、男女の双子人形が踊る西館二階のL字廊下からエントランスの踊り場を経由して東館のL字廊下へ入った。紳士の翔太によると、野郎しかいない場所に飛び込む必要はないからとのことだが、人形があると言われてしまえばそれまでだ。

 海堂飛鳥、桐生楓製人形に恋する十九歳なのです。

 シンメトリーの東館L字廊下には、皇帝が刻まれた当主の間へ通じる扉がある。その皇帝の扉は文字通り重厚で鍵が差さっているものの、中には入らないようにと龍一から釘を刺されているらしい。

「……叢雲帝二、叢雲帝二……どこかで聞いたことあるような」

 来訪者を睨みつける皇帝の鋭い双眸を見据えたまま、飛鳥は記憶の引き出しから叢雲というキーワードを探る。そうして見つけたのは、隅で埃をかぶっていたいつかの新聞記事だ。

「確か……一人娘が事故死したって書いてあったはず」

 一人娘を亡くすことが父親にとってどれだけ辛いものかは想像することしか出来ない。自分なら悲しいが、他者はそれが当たり前ではない。相手の気持ちが理解出来るなんてまやかしだ。

 そんな事故の後、帝二が亡くなっていることを思うに彼の気持ちは前者だろう。一人娘がここに住んでいなかったのが幸いだ。別荘などの類いではなく本邸だったとしたら、彼らも管理なんて引き受けなかっただろう。

 そんなことを考えながら、飛鳥は皇帝の視線から外れた。

 こちらのL字廊下にも人形がおり、黒いカクテルドレスとタキシードを纏って踊る双子の男女だ。玉の肌を惜しげもなく見せつけている様は非常に美しい。ちなみに西館の方では白のカクテルドレスと白のタキシードを纏っている。絡み合うセクシーな踊りだが、男女の視線は交わっておらず、互いに廊下側を見つめている。ちょうどL字の分岐点に立っているため、廊下を歩く人とは視線が合うようになっているようだ。

 どうすればこんな人形が作れるのだろうか。生きている人間では辿り着けない外見だけの永久だが、それでもこの人形たちは美しい。もしも代われるのなら、代わりたいと願う女性は多いだろう。

 エントランスから響く水音を端にしながら、しばらく眺めていた時、

「……歌声?」

 追いやった水音の中に、微かな声が聞こえた。一瞬、それが悲鳴のようにも聞こえたため、飛鳥は鑑賞会を止めて耳をすませた。スティレットの後に悲鳴が響いたのなら、ここは文字通り嵐の山荘になる――が、その危惧はすぐに振り払われた。

「歌……? 相沢さんかな……」

 反射的に声の主が浮かんだ。戻って来た水音と混じってしまったため、もう声は聞こえないが、飛鳥は迷うことなくサロンの扉を開けた。

「飛鳥さ〜ん? 何してるの〜?」

 扉を開けるとほぼ同時に歌声が止み、加奈は言った。彼女は屋敷の中心に位置するフランス窓の前に立ち、飛鳥に背を向けているため誰が入って来たのかはわからないはずだが、

「私が入って来たって……よくわかりましたね」

「飛鳥さんの〜気配がしたから〜」

 ふふ〜、と自慢げに振り返った加奈は、おいでおいでと手招きする。

「海堂飛鳥という人形さんは〜こちらへ〜」

 その手招きに流されるまま、飛鳥は彼女の横へ向かった。

「私が人形ですか」

「ふふ〜違うの〜? 着せ替え人形みたいだと思ってたよ〜」

 そう言われ、飛鳥は己の服を見下ろす。昨夜着ていた服は、自室に戻ったと同時に脱いだ。自らが生きている世界とはあまりにも違う毛色に耐えられなくなった証拠だ。

「ん〜? 昨日着ていた服のことじゃないよ〜? 人と状況でコロコロと態度や気持ちを変えることを言ってるの〜」

「……それって仕方ないことじゃありません?」

 痛い所を突かれた。そんな気がして、飛鳥は微かに眉を顰めた。

「仕方ないことかな〜? 自分の信念や目的が明確じゃないと人生は真っ暗だよ〜?」

 ぐぅ。

「……相沢さんは信念があるんですか」

「あるよ〜今は別になってるけどね〜」

「別?」

 飛鳥の問いに加奈は刹那に目を伏せ、

「帰りたいってことかな〜」

 それだけ言うと、加奈は視線を飛鳥からフランス窓の遥かに広がる吹雪のカーテンを見据えた。

「……一週間では帰れない気が?」

「そうだね〜一週間は吹雪の予報があったし、穢れが残る山だからね〜」

 わからない人。それが加奈に対する評価だ。だが、周りに流されない自我を持っていると豪語する姿は羨ましい。彼女が言うように、飛鳥はなかなか自我を前面に出すことが出来ないし、しようともしない。着せ替え人形という評価はある意味で正しいのだ。とはいえ、

「……相沢さんも人形みたいですよね。言われません?」

「ん〜? 気にしたことないかな〜」

 クスクス笑う加奈。その笑みは相変わらず可愛らしく、この笑みを向けられた男が勘違いしてもおかしくはない。だが、その中身を見て驚かされるだろう。

「飛鳥さんは〜未成年だよね〜?」

「はい」

「残念だね〜一緒にお酒を楽しみかったのに〜」

 見ると、加奈は右手にワイングラスを持っていた。中身は赤ワインのようで、バーのカウンターにはその正体らしきボトルがある。

「相沢さんの見た目でお酒は意外です」

「嗜むよ〜?」

 そう言うと、加奈は残っていた赤ワインを飲み干した。アルコールには強いようで、酔っているような素振りは見られない。思い返せば夕食でもずいぶんとアルコールを楽しんでいた。

「お昼は何を食べる〜? 厨房にあるものは何でも食べていいって榊原さん言ってたよ〜?」

 飛鳥は掛け時計を見た。秒針が示すのは十一時十六分。

「食べたばかりじゃないですか」

 華奢でも大食いなのだろう。飛鳥の方は体躯が示す通り小食のため、学校給食にはずいぶんと苦労させられてきた。ゆえに飛鳥の昼食は十三時を過ぎるだろう。

「ところで〜飛鳥さんはスティレットのことをどう思ってるの〜?」

「えっ?」

 スティレットの件が話題にあがるとは思っていなかった。誰もが秀一の楽観論に従っているにも関わらず、加奈はここでも自我を貫いた。

「いたずらかな〜? 家の中のものを使った即興だと〜?」

「……どうでしょう。スティレットの意味を知っている人が意図的にしたのなら……ただのいたずらとは思えませんけど」

「そっか〜じゃあ誰かが邪な考えを抱いているってことだよね〜?」

「でも……映画じゃないんだし……」

 脳裏に遼太郎の危惧が思い浮かぶ。とどめをさすスティレットが各々の部屋を示すタロットカードに突き刺さっていた光景は、まさに映画や小説で用いられてきた伝統という殺害予告だ。

「現実は映画じゃないよ〜? だけどね〜現実は小説よりも奇なんだから、想像を超える出来事なんて数多だと思うよ〜?」

「……相沢さんの言を掲げるなら、あれは殺人予告だということでいいんですね?」

「みんなが狙われる動機はわからないけどね〜」

 飛鳥もそれは同意だ。もしも殺害予告が本当であるのなら、行きずりの自分が加わったにも関わらず、犯人は計画を変更しなかったということになる。それに加え、狙われているのは自分を除いた全員だ。どういうつもりなのだろうか。犯人が部外者であるのなら、惨状を見ていた自分を生かしておくはずはない。だのに殺害予告は来ていない。

「私がいるのに殺害予告を出しましたけど……それってつまり私の分は用意出来なかったということですかね?」

 自分も皆殺しリストに入っている。わかっていたことだが、こうして口にすると途端に寒気が刺さる。

「……大丈夫だと思うよ?」

「はい?」

 加奈のあまりにも不意な顔付きに、飛鳥は思わず目を丸くした。困惑の飛鳥を見据える加奈の双眸に冗談の色はなく、文字通り心の底から発した言葉のようだ。

「飛鳥さんは大丈夫。あれが断罪という意味だとしたら、行きずりの人に罪はないから」

 飛鳥を見据えていた視線を遥かにやった加奈は、それ以上何も言わなかった。それが会話の終わりなんだと察した飛鳥は、「それじゃあ」と、一声告げてサロンを後にした。

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