第二章 2日目

第参幕 鏑矢

 今日は十二月二十六日。

 二日目の朝。

 朝食時に屋敷管理のシフトを決めよう。夕食中に秀一がそんなことを口にしていた。そのことを夢の中で思い出した英字は、八時を示す壁掛け時計を見た。

「……そういえば、自由過ぎて夕食のことしか考えていなかったっけ」

 家でも着ている馴染みパジャマの乱れを直しながら、英字は朝の支度を始めた。部屋の中に水道設備は無いため、歯磨きや顔を洗うには洗面所兼脱衣所へ行かなくてはならない。

 沈黙の廊下に水音は届かず、耳をすませてみても他者の生活音は聞こえてこない。英字が選んだ部屋は東館二階の最果ての月だ。隣の星は秀一が使っているものの、生活音は聞こえてこない。もう起きているのだろうか。

 洗顔用品を連れて、英字は脱衣所に入った。高級な温泉旅館を彷彿とさせる脱衣所兼洗面所には、二人分の鏡、優しい駕篭、竹が敷かれた滑らかな床、三人以上が入っても余裕がある浴室へのドアがある。それが一階かつ西館にもあるのだから、叢雲家の資産の底が垣間見える。

「ウチもこれくらいのお金持ちだったらなぁ……」

 どうにもならない現実への苛立ちから、英字は鏡に映る冴えない自分に息を吐いた。秀一の性格はいざ知らず、その外見は良い男だ。だから夕子を筆頭に美人との付き合いが多い。羨ましいとは思わないが、劣等感は生まれる。

 英字は手短に朝支度を終え、相も変わらず響き渡る水音を聞き流しながらサロンを覗き込んだ。だが、予想に反して遼太郎の姿も見当たらない。行儀良く大食堂にでもいるのだろうか。

 長靴に履き替える手間を捨て、英字は西館の階段経由で大食堂に足を踏み込み――。

「やぁ英字、これは君の仕業かい?」

 扉を開けたと同時、秀一の問い掛けが英字に刺さった。見ると、英字以外の全員がテーブルの手前に集まり、一様に背中を向けている。

「えっ? 何かあったんですか?」

 誰もその問いに答えないため、英字は眉を顰めながらテーブルに近付き、

「これは……タロットカードとダガーですか?」

 英字の視線が捉えるのは、晩餐の名残あるテーブルに置かれた六枚のタロットカードだ。それぞれが座っていた位置にカードは置かれ、ダガーと称された三十センチほどの刃物が深々と突き刺さっている。

「質が悪いね……カードは選んだ部屋と同じだ」

 秀一は星、英字は月、翔太は戦車、遼太郎は正義、夕子は女帝、加奈は魔術師だ。

「こんなこと……僕はしませんよ! 先輩じゃないんですか?!」

「違う。イベントは好きだけど、人の動揺を見て楽しむ趣味はないからね」

 かぶりをふった秀一は、翔太を見る。

「言っておくが、断じて俺じゃない。昨日の説明以前にタロットの心得はない」

「それはいくらでもごまかせるとして……夕子は?」

「違うから。あんたでしょうよ」

「だから……違うって。そもそも……見てご覧よ」

 ほら、と秀一はダガーを指差した。

「このダガー……素人目かつ趣味を除いて装飾が見事だし、かなり高価だと思う」

 秀一の言う通り、単純な十字架形状であっても、鍔には蛇に絡まれた女性の装飾が施されている。少々の乱暴を加えれば簡単に壊れてしまいそうだ。

「秀一、何が言いたいんだ?」

「つまりね、ドクター……もしこの中にいる誰かが持ち込んだ物だとしたら、綺麗過ぎると言いたいのさ。この屋敷へ至るまでの道を思い出してごらんよ」

「……だが、厳重に持って来た可能性もあるんだろう?」

「あるけどさ……六本を個別包装なんてしていたら荷物がかさばってしょうがないだろう? ドクターの言う通り厳重な包装だというのなら、持ち込んだ奴は荷物が多かった人ということになるよ」

 飛鳥を除いた全員の視線が互いに突き刺さる。そうして一つに収束された先は夕子だ。

「……何よ。女の荷物が多い理由を語れっての?」

 集った視線を追い払うように夕子はかぶりをふった。

「最後までこの部屋にいたのは夕子だったね? 僕が食器を洗うと言ったのに、機嫌を悪くして一人残ったけど……」

「ばからしい……そもそもこんなことをして何になるの? あんたの見立てが正しいのなら、そのダガーってのは高価そうなんでしょう? 十万や五万だとしても、六人分も揃えれば大学生とは程遠い金額でしょうが」

「そうですよ、先輩。ただのいたずらで大金なんて使いませんよ。……先輩のようにお金持ちなら出来ますけどね」

「……いくら僕でもいたずらに万は使わないよ。その金があるなら車や女の子に使うさ」

 かぶりをふった秀一は、改めて全員を見渡した。

「いいから名乗り出てくれよ。どうせダガーもタロットカードも家の物だ。一週間の退屈を盛り上げようとしてくれたんだろう?」

 そうだろ、と秀一はいたずら好きに念を押すが、誰も名乗り出ない。それを見た秀一は、いつもの顔立ちを真顔にさせ、

「もう一度訊くよ? ダガーもタロットカードも家の所有物だのに……勝手に動かしたうえに、カードには傷……弁償並みの危険な行為なんだよ?」

 子供に言い聞かせるように言葉を続けたが、それでも誰も名乗り出ようとしない。

「……わかった」

 秀一は頷きながらそう言うと、イスにドサリと腰を下ろした。

「名乗り出ないということは……この六人の中に、趣味の悪いイタズラ好きがいるということになるね」

「イタズラ……なんでしょうか?」

 秀一に続いて英字も腰を下ろした。

「翔太、煙草ちょうだい」

 英字に続いた夕子は、横にいる翔太に煙草をねだった。

「吸い過ぎるなよ? 昨夜もここでずいぶんと吸っていたが……」

「……いいでしょ。苛立ちを解消してくれるんだから」

 そう言って、夕子は煙草に火をつけた。

「イタズラ好きの某さんは……何を企んでいるのかな?」

 明るい声音のまま、秀一は一人一人の顔を見つめていく。すると、

「おい、秀一よ」

「何だい?」

「露骨に海堂を無視すんなよ」

「行きずりの彼女がこんなことをすると?」

「俺たちを疑うなら、こいつも容疑者の一人だろうよ」

「でも飯島先輩……海堂さんがこんなことをする理由が思い付きませんけど……」

「ふん。理由なんざいくらでも作れるだろうよ」

「おやおや……彼女を疑うだけ無駄さ。昨日の遭難が演技とは思えないし、気を失っていたのも紛れもない事実だ。ドクター、そうだろ?」

「ああ、演技ではなかった。検診の真似事をした時に反応は見せなかったし、瞳孔確認で寝たフリは無理だろう」

「ドクターの言う通りだよ。海堂飛鳥ちゃんはこのイタズラの容疑者に含まれないよ」

 秀一は断言するが、

「おい! 真面目に考えてるのかよ! これはどう見ても殺害予告だろうが!!」

 遼太郎が大声を張りあげた。今にも暴れ出しそうな野生動物さながらに秀一のことをねめつける。

「俺たちの部屋と同じ絵柄に突き刺さるダガー……どうごまかしてもイタズラの範疇じゃねぇだろ!!」

「飯島先輩、落ち着いてくださいよ……!」

「遼太郎、まだ何も起きてないんだ。英字の言う通り……ここは落ち着け」

 英字と翔太に宥められる遼太郎だが、それでも吐き出される息は荒々しい。そんな三人のやり取りを尻目に、飛鳥は突き刺さるダガーの一つに近付いた。

「これって……」

 十字架に触れてみると、秀一が言ったように装飾は脆く、下手に力を込めれば容易く折れてしまいそうだ。だが、木造ではないテーブルに深々と突き刺さった惨状を見れば、か弱い装飾なんて答えは出ない。

 皆を落ち着かせ、必要以上に怖がらせないための方便なのか、それとも秀一のちょっとしたいたずら心が予想以上に皆を困惑させてしまったため、言い出せなくなったのか。だが、突き刺さる短剣の種類は、遼太郎が言うように冗談ではすまされないほどに不吉な物だ。

「あの……細かく言うなら、これはダガーじゃありませんよ」

「はぁ?」と皆の視線が飛鳥に集中した。

「ダガーじゃない? いや、それよりもそれが重要なことなのかい?」

 秀一の問いに、飛鳥は頷いた。

「これはおそらく……スティレットです」

「ス……?」

 首を傾げた英字と翔太を見、飛鳥は続ける。

「短剣の一種なんですが……見てください。刃がありませんよね?」

「あっ……本当だ。そんな場所に意識なんて行きませんでしたよ」

 英字はそう言いながら、スティレットの剣身に触れた。

「スティレットは剣による斬撃が通じない敵を倒すために作られたらしいですけど、今は歴史よりも……別名の方が重要だと思います」

「別名なんてあるんですか?」

「はい。それを知っているといないでは……受け取り方がまるで違うと思います。スティレットの別名はミセリコルデ……慈悲だったはずです。瀕死の重傷を負った騎士にとどめをさす短剣です」

「とどめをさす……慈悲だと?」

 遼太郎は自身を示す正義のカードからスティレットを力任せに抜いた。それを見た秀一たちも一斉にスティレットを抜いた。

「慈悲の剣〜それじゃあ犯人さんは私たちに慈悲を与えようとしてるの〜?」

 黙っていた加奈の不吉な発言に対し、

「慈悲ねぇ……殺害予告にしてはずいぶんと優しい言葉が出てきたなぁ」

 抜いたスティレットで手遊びしながら秀一は呟いた。その視線は鋭い切っ先に向けられており、顔には何やら悲愁のような翳りが見えた。

「とどめをさす短剣が俺たちを示すカードに突き刺さっていた……確定じゃねぇかよ」

 ちくしょう、と遼太郎はテーブルの脚を蹴り――。

「……おい、短剣を全部寄越せ」

 何を思ったのか、遼太郎が有無を言わせず五人のスティレットを掻き集め出した。

「こんなもん……持ってられるか!」

「おい、屋敷の所有物なら乱暴は……」

 遼太郎の腕を掴む翔太だが、

「うるせぇ! 弁償ぐらいしてやらぁ!」

 唾を撒き散らした遼太郎は、掻き集めたスティレットを胸に抱えて窓に近付き――六本のスティレットを勢いよく外へ放り投げた。

「捨てちゃうの〜?」

 加奈は我先にと入り込んで来る雪のことなど意に介さず、どこかへ埋もれてしまったスティレットたちに目をやるが、

「早く閉めてよ加奈……! もう見たくもない!」

 夕子にがなられ、加奈は首を傾げてから窓を閉めた。

「本当に……誰の仕業……?」

 いつの間にか二本目の煙草を吸っていた夕子が、唸るような声で言った。

「冗談だったとしても……事と次第によっては赦さない……から」

 顔を押さえる指の隙間から覗く紅く鋭い瞳は、秀一に向けられている。だが、当の秀一はその視線をヒュルリと躱し、

「とにかく、朝食にしないかい? 正体不明、目的不明、動機不明の出来事に推測を重ねても意味がないからね」

 何があるのかな、と秀一は軽い足取りで厨房へと向かう。

「私も行く〜」

 加奈が秀一の背中に続き、大食堂に取り残された飛鳥たちは、

「けっ……飯なんか食ってる状況かよ」

 苛立たしげに手を鳴らした遼太郎は、身を翻すと廊下に向かった。

「……場が白けた。お前らがどう思っていようと、俺はあれがイタズラだとは思えない。榊原の小屋にでも行って……下山する方法を探らせてもらうぜ」

「どうやって行くつもりだ? 極寒の宵霧湖を泳いでか?」

 飛鳥たちを運んで来たボートは既に龍一が小屋へ戻してしまった。だが、

「ふん、忘れたのか? 直通電話があるって言ってただろうが」

「ああ、そうか。でも、その榊原さんが下手人ならどうする気だ? 俺たちにマスターキーはないんだぞ? 鍵穴に差し込まれている鍵だけだ」

 龍一ならマスターキーを持っているし、夜の内に屋敷を訪れることだって出来る人物だ。

「罪人たちが告発されて殺される宴ならそうだろうけどよ。この屋敷を鳥瞰すれば、ボートで接近なんて迂闊なこと出来ねぇからな」

「まぁ……コの中心に飛び込むようなものだからな」

 翔太の見解に鼻を鳴らした遼太郎は、早足で廊下に出て行った。ちょうどそれと入れ代わるようにして、秀一が厨房から戻って来た。

「おや? 遼太郎はどこに消えたんだい?」

「榊原さんに連絡して、小屋で暮らすそうだ」

「仕事を放棄したか。なら彼の三十万は山分けでいいかい?」

 厨房から持ち出した朝食セットをテーブルに広げながら、秀一はクスクスと笑う。持って来た朝食は、牛肉の缶詰、夕子が予約炊きをしていてくれた白飯、赤ワインにジェラートというアナーキー状態だ。

「朝から牛缶ですか? こんな気味の悪い出来事の後でよくまぁ……」

「朝食は一日の内で最も大切な儀式だよ」

 その言葉と、缶詰から解き放たれた牛肉の大和煮の香りを受けて、飛鳥たちはタロットカードとスティレットのことを無理矢理振り払い、それぞれが朝食の支度を始めた。

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