第一章 1日目

第壱幕 穢人

「つまりね、僕はラビリンスのような田舎道に加え……不親切な野蛮人の所為で危機に瀕した、というわけなんだよ」

 弁解染みた、いや、弁解そのものを口にしながら、古泉秀一こいずみしゅういちは大きく頷いた。

 その弁明はともかく、秀一がハンドルを握る外国製の高級車の外では、モノクロの海から飛び散る雪たちが踊り、白銀のドレスで着飾った針葉樹たちの姿が見える。

「おまけに雪道だ。雪対策はしてきたけど……このまま雪の勢いが強くなればどうなることやら……」

 雪道には慣れている、と言えば嘘になるが、東京でもそれなりに雪は降る。豪雪地帯の人たちから言わせれば東京は雪に軟弱らしいが、経験を積めば東京人も雪に対して強くなれる。

 そもそも、豪雪地帯の人たちも最初から対策を手に入れていたわけではない。数多の犠牲と先人の知恵と口伝えで今も対策が出来ているに過ぎないのだ。彼らは都会を羨む前に、先人に感謝するべきだろう。

 そんな雪対策に関して、秀一はそれなりに経験してきたと自負している。助手席に魅力的な女性を乗せて、雪の都内を走り回ったこともあるし、スキーもスノーボードも嗜んでいる。だからこそ、雪山を走り回る自信があったのだが、

「やっぱりあの辻を間違えたのが影響しましたね。田舎道で迷子は致命的ですよ」

 後部座席からそう言って顔を覗かせたのは、骨沢英字ほねざわえいじという名の男性だ。小柄かつ好奇心を告げるドングリのような顔と目が青臭さを助長してしまい、中学生に間違われるような有様だが、自身の好奇心を刺激したことに関して飛び回るアグレッシブな顔もあるため、通っている大学では友人らにリトルタンクというあだ名を付けられている。

「縁も所縁もない土地なのに……よく下見もなしで僕らを案内しましたね」

「いやいや、現に目的地まで着実に近付いているさ。制限時間は今日の十八時までだしね」

「もう十五時半ですよ。遅刻してお給金がパァになったら先輩が負担してくれるんですよね? 送ってやるって言ったのは先輩なんですから」

 ぐう。

 秀一は英字のことを一瞥した。秀一の方が一歳年上だが、幼なじみ特有の気安さで、英字はズンズンと秀一に意見することが出来る。そんな二人の歯に衣着せぬやり取りに対し、

「ふん。送迎を声高々に宣言しておいて、当のおぼっちゃまが道を知らないなんてな……呆れて言葉もねぇぜ」

 後部座席から嗄れ声をあげたのは、飯田遼太郎いいだりょうたろうという男性だ。ダメージジーンズを纏うやや短い脚を組んだまま、秀一のことを一心にねめつけている。

「おやおや、お客さんを怒らせてしまったようだ。僕はタクシー運転手には向いていないらしい」

「自覚してくれたようで結構だ」

 遼太郎は窓を微かに開けると、吸っていた煙草を外に投げ捨てた。それを見、英字は即座に声をあげた。

「ちょっと飯島先輩! 山火事が起きたらどうするんですか!?」

「起きねぇよ。燃え移るようなものが何処にあるんだ。ふん。これが四月のハイキングだったら捨てやしねぇがな」

「まぁ……この雪だし、大丈夫だろうさ」

 憤慨する英字を宥めながら、秀一も胸ポケットから煙草を取り出した。それはお気に入りの銘柄で、灰皿にはその吸い殻が犇めいている。

 英字からの叱責など意に介さず、遼太郎は龍の刺繍が施された革ジャンの胸ポケットからスキットルを取り出した。いそいそとキャップを外した遼太郎は熱心な口づけを味わいながら、ご機嫌の声をあげた。

「なるほど……先輩の送迎を受け入れたのはそれが理由でしたか……」

 キャップから車内へ我先にと溢れるアルコールの臭いに対し、辟易した英字は腕で鼻を覆った。遼太郎がスキットルを持ち歩いているのは車内の誰もが知っているが、何を飲んでいるのかは、訊く人もいないため誰も知らない。

「おぼっちゃまと違って……俺は飲酒運転なんてしないからな」

 げぇ、と品のないゲップを披露しながら、遼太郎は紅い顔を秀一に向けた。

「おやぁ? その口ぶりは僕が飲酒運転の常習犯のような言い方だねぇ?」

「違うのか? 俺はてっきり女を御持ち帰りしながら飲んでると思ったんだがな」

「心外だねぇ? 僕はアメリカに押し付けられた属国憲法をしっかりと守っているさ」

「御立派だな」

 ふん、と顔を背けた遼太郎を見、秀一も視界を前方に戻した。

 二人が出会せばこうして冗談か本気かわからない言い合いが始まる。これが敵意を剥き出しにした喧嘩だということがわかれば楽だが、露骨さがないため英字はいつも首を捻っていた。喧嘩するほど仲が良いということなのだろうか。

「まったく……お前らの会話は何だ? 戯れ合いなら戯れ合いらしくしろ」

 後部座席で一人屈強な体躯を溢れさせている坂本翔太さかもとしょうたが声をあげた。

「無事に到着したら、俺たち六人には一週間の半共同生活が待ってるんだぞ? こんな調子のバカげた言い合いを毎日聞かされるなんて冗談じゃないからな」

 筋肉に覆われた身体を前に出し、秀一のことをねめつける翔太。その威圧は強く、相手を茶化すような言動が多い秀一ですら彼の剣幕には退散するほどだ。

「わかってるよ、軍曹。それに……僕だって三十万は欲しいからね」

「そりゃあそうですよ! 先輩は三十万なんてお小遣い程度かもしれませんが……僕ら庶民からしたら一週間のアルバイトで三十万は大金なんですよ!」

「おいおい……僕だって三十万は魅力的だよ。最近のお父様はお小遣いを渋っていてねぇ……困ってるんだ」

 繊細な銀フレームを持つ眼鏡に加えて高級な紺のスーツが象徴するように、秀一は一介の大学生とは思えないほど高級品に囲まれている。こうして雪に包まれた宵霧山を行くのは外国製の高級車だ。

 その高級車を購入したのは、もちろん秀一ではない。彼の父親は会社の社長であり、ずいぶんな資産家でもある。そのため、秀一に対してもお小遣いとして大層な金額を渡している。その後援を受けてか秀一の金遣いは荒く、自身の甘い声や端正な外見も武器にして派手な女性関係を繰り広げている。

「遊ぶ金ぐらい自分で稼げよ。学費は出してもらってるんだから……」

「おやおや、軍曹こと翔太……君はずいぶんと親思いだね」

 秀一が翔太のことを軍曹と茶化すのは、道徳観や規則に口煩い時があるからだ。

「何が言いたい」

「親が子を養うのは当然だよ。愛という電気信号に従った情事は構わないけどさ、今の人間には獣と違って避妊という知恵を手にしたんだ。子を必要としないなら避妊すればいいんだけど……そうじゃない人たちは生=子供という意識があるだろう? それはつまり、子を一生養う覚悟を持ったうえで伴侶を孕ませているわけだ。コウノトリで運ばれて来た僕を育てているのなら……恩義があるから僕も敬うけど、わかりきった結果を経て産んだんだから、子が親に養ってもらうのは当然だよ」

「要は産んでくれと頼んだ覚えはないってことか?」

「その通り。僕はこの世に好意を抱いていないし、長生きも御免だよ。親のエゴの所為で……生きる辛さを体験中なんだからさ、それぐらいの奉仕はされて当然だろう?」

「どんな理屈だよ……お前は」

「でも今回だけ……遊ぶ金は自分で稼ぐことにしたよ」

 そう言いながら、秀一は片手を巧みに操り煙草をくわえた。英字を除いた男連中は全員がヘビースモーカーのため、銘柄が違う煙草が車内で飛び交う。そんな中、

「ちょっと、ただでさえ野郎臭が漂ってるのに……これ以上臭くしないでよ」

 その文句を連れて、秀一がくわえた煙草をスルリと奪い取ったのは、助手席で目を閉じていた天音夕子あまねゆうこだ。高級車の助手席が似合う官能的な女性で、長い脚を組んだまま煙草を灰皿に押しつぶすと、気の強さを主張する鋭い瞳を後部座席に送った。その視線の先にいるのは、スキットルと見つめ合う遼太郎だ。

「言われなきゃわからない?」

 その言葉に対し、遼太郎は「ああ?」と顎を上げたものの、即座にスキットルを隠した。

「素直でよろしい。加奈も嫌だったらちゃんと言ってやりな」

 後部座席に座るのは、遼太郎と英字に翔太だけじゃない。夕子が厳しい一瞥を投げたのは、右端に座っている相沢加奈あいざわかなという女性だ。幽霊のような長い髪を持ち、常に俯いている変わった女性で、車内のメンバーで親しい相手はいない。強いて言うのなら、幾度かの交流経験がある夕子ぐらいだ。

「ううん。楽しいから良いよ」

 かぶりをふった加奈は、胸に抱き抱えていたスケッチブックを広げると、手遊びしていた鉛筆を走らせ始めた。その手の動きは早く、英字がしげしげと覗き込んでいる間に、数分前の加奈が見ていた車内の光景が蘇る。

「相変わらず……凄いですね。何で芸術系の大学を受験しなかったんですか?」

 加奈が描いているのは精確な模写ではなく、彼女にしかわからない独自のタッチだ。サイケデリックな毒々しい渦に包まれた車内らしき中には、深紅に殴り描きされた六の骸骨が口を開けたまま座っている。英字にわかるのはそこまでだ。

「またその絵か……もう何枚目だ?」

 英字と一緒にスケッチブックを覗いていた翔太が言った。

「毎度思うことだが……交通事故でも予知してるのか? 不吉な絵は歓迎出来ないぞ」

 四人が座るギチギチの後部座席において、恵まれた体躯を持った翔太の所有面積は広い。スケッチブックを覗き込んでいるだけにも関わらず、華奢な加奈を押しつぶしてしまいそうだ。

「ん〜? そう見える〜?」

 フワフワした声音を連れて、加奈は頭を左右に振った。絵の意味は彼女にしかわからないため、翔太は肩をすくめながら小さく息を吐いた。

「ふん。気違い女が描いた絵を俺たちが理解出来るとでも思ってんのかよ」

「……おい。普通とは多少違うというだけで気違い扱いなんて酷いと思わないのか。お前は差別主義者か?」

 翔太は遼太郎を睨みつけた。だが、遼太郎はそれに臆することなくガラの悪い目を見開き、

「ふん。俺は個人的に線引きしてるだけで、お前みたいに差別という魔法の言葉を隠れ蓑にして自分の考えを押し付けるようなことはしないだけさ。それに……俺は別に気違いを目の敵にしてるわけでも排除しようとしてるわけでもねぇよ。この地球には腐るほどの人間がいるんだ。変わった奴がいてもいいだろうが」

「だったら……もう少し気を遣ってやれ――」

「坂本くんよ、その時点でお前は認めてるんだよ。この相沢加奈ちゃんが普通じゃない奴だってことをな。事実は事実として受け止めて、普通に接してやれよ。お前みたいな偽善者が好物にしてる特別扱いこそ大衆の差別を助長するんだぜ?」

 こうして他者を責める時の遼太郎は饒舌になり、無愛想かつ秩序の無い顔に反した満面の笑みを浮かべる。それを真っ赤な顔で睨み続けていた翔太だが、当の加奈がやり取りをまるで聞いておらず、やがてその睨みは彷徨い始めてしまった。

 そんなやり取りを見ていた夕子は、振り返ることなく、

「事実は事実でも、聞いていて不快になる言葉は忌避されるのが当然でしょう? その辺のことは意識しなさいよ」

 それは遼太郎に対する叱責だが、当人は意に介していない。

「悪かった……こいつの言い方に対して……な」

 翔太はもう一度遼太郎を睨み、頭を掻いた。

「あんたも自分の体格を考えな。その図体で暴れて車が転倒したらどうすんの」

「その通りだねぇ、軍曹。雪道は神経をすり減らすんだからさ、頼むよ」

 秀一の言葉に頷いた翔太は、それ以降遼太郎に絡むようなことはなく、遼太郎の方も加奈の一挙一動に口を出すことはなかった。

「先輩、確か……目印があるんでしたっけ?」

 気まずい沈黙を嫌って、英字が声をあげた。

「ああ。最初の目印は時計塔だって聞いたよ。木々の上にヒョコリと見えるからって教えられたけど……どうだい?」

 雪の勢いはそれなりだが、視界が完全に奪われているわけでもないし、走行の直接的な障害にもなっていない。

「う〜ん……それらしいものは僕の視界には見当たりませんね。というより、もうちょっと野生動物とかが見えると思ってたんですけど……何もいませんね」

 キツネや鹿が見れるかも、と出発前にはしゃいでいた英字だったが、今ではすっかり気落ちしている。動物園に行けば、と誰も言わないのは気遣いだろう。

「地元民から忌み嫌われている山だ。樹海のようなもので、動物たちの主食が無いのかもしれないぞ。しかも冬だしな」

 翔太も野生動物に出会す可能性を口にし、楽しみだと笑っていた一人だが、基本的にポジティブ思考の彼はもう動物たちに興味はないようだ。

「忌み嫌われている……ねぇ?」

 秀一は翔太の言葉を反復する。こうして宵霧山に突入するのが午後を過ぎてしまったのは、案内板が見つからなかったことと、地元民の協力が得られなかったからだ。思い出すだけで腹立たしいのは、飲食店の老婦人に声をかけた時だ。

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