間章Ⅰ 生と死を司る獣
「もうすぐここに赤い髪の女がくる。それを撃退しろ。……いいか、絶対に殺そうとは考えるな。絶対にだ。……わかったな?」
そう厳命されていた翼の男は、滞りなく無事に目的を達成した。
「貴様の要求通り、ここはおとなしく引き下がろう」
炎を纏う赤髪はそう言った。偽りではないと判断して帰路につく。
今回は、帰ったらどんな味の飴が貰えるだろうか。命令を忠実に熟した後にいつも貰えるご褒美。甘さに想いを馳せ、期待に胸を膨らませる。
今日はいい空と風だった。思わず自由に飛び回りたくなる。うららかな日差しに彩られた蒼穹が、どこまでも続く世界を覆っている。雲もなく、景色が霞むくらい遠くまで見渡せるほど絶好の日和。陽気に誘われるまま、あの遥か彼方まで飛んでいってしまおうか。
けれど、それは許されない。
首筋を触る。硬質な感触があった。服従させる為に、飼い主に都合のいいように装着した者の力を抑制し意思を制御する不可視の首輪。そういった性質を持つ類の代物であるという理解に翼の男は誰に教えられるでもなく到達していたが、何故それをされていて、それをされているのがどういう事なのか、その真理には到底及ばない理解しかなかった。首輪の冷たさは強制する側の思惟を正鵠に表していたが、翼の男にとっては単なる低温でしかありえず、あるいはそれは、この世の在り方を端的に物語っているに過ぎないのかもしれなかった。
己の戻るべき場所へと帰投していた翼の男は、ふと上空で停止して振り返る。
なんとなく、だった。どこかうわついた気分。何もしないなんて事が到底できそうもない落ち着かない気持ち。こんな日は初めてだった。二人の知らない人間を見て、関わった。
赤髪と繰り広げた、殺さなくてもいい楽しい戦い。
感じた事のない空気を纏って話しかけようとしてきた黒髪の人間。
背中の翼をはためかせて滞空しながら地上を見下ろす。視線は自然と、二人の行方を追う。
まだどちらも移動していない。何事かを話し合っているようだ。
強く気を引かれた。魔力を通じさせて耳を澄ませる。距離はずいぶん離れていたが、会話は明瞭に聞こえてくる。
夢中になり、聞き入った。内容は、よくわからなかった。
会話が終わる。赤髪が炎で魔物の死体を焼き、黒髪が地面に横たわるやけに肌の白い人間から花の偽物のような物を回収する。
そして二人は、こちらに背を向ける形でその場を後にした。
どうしてか、横たわる白肌を残して。
「…………」
彼らに興味があった。名残惜しいと思った。居ても立ってもいられなかった。
このままこの時が過ぎ去ってしまうのが、我慢ならなかった。
だからといって、自分に何ができるのか。追う事はできない。それが許される環境に、翼の男は身を置いていない。
「…………ッ!」
突如、遠くで茂みから飛び出した四足動物が、捨てて行かれた白肌めがけて猛然と走った。
――――喰われる。
衝動が、身体を突き動かした。空を疾駆し、間隙を一瞬で削り取って獣と白肌の間に割って入る。
獣が足を止めた。警戒して威嚇してくる。こちらより遥かに小さい獣だった。
「……去れ」
野生の獣だろうが言葉は伝わる。正確には、翼の男は言語を話しているのではなかった。意思を込めて鳴けば、真意が相手の意識で形になる。そういった力を翼の男は持っていた。
獣は踵を返し、茂みの中へ紛れた。
傍らに転がっている白肌の死骸を見る。
艶やかな黒髪、雪のように青白い肌、見た事もない鮮やかな着衣、瞼とその周辺に薄く紅が散り、唇は朱。細い首筋に、首輪が装着されている。思い返せば、先程の黒髪の首にも似たようなものがあった。こちらと同じように不可視ではないが。
(ならばこの者達も、私と同じ――……?)
なぜだか胸がぎゅっとなる。
「…………っ」
妙な日だ。これまで経験した事のない気持ちばかりが沸き起こる。
――それにしても、あの二人はなぜ、白肌を置いていったのだろうか。
確かに、壊れている。壊れているのだが。
壊れたのなら、治せばいいのに。
疑問に感じながら、己の右手を見る。
【必ず対象の心臓を握り潰して生命力を奪い取る能力】と【蓄えた生命力を与えて回復させられる能力】が混在した力。翼の男の右手に宿る能力である。
できる。そう確信する。
翼の男は白肌の脇腹へ――最も損傷が激しい患部へ、そっと右手を押し当てた。
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