未来の少年は【異世界】を侵食する

軽本かく

プロローグ 魂の感触

 少女を抱えて、山の中を走っていた。見たこともない怪物に襲われているからだ。

 転ばないように前方の景色を目に焼き付けて、振り返る。

 まだ、いた。そんな事は背後から聴覚へ届く気配でわかっていたが、距離を目視で確認してまだ安全だという確信を得なければ気がどうにかなりそうだった。

 怪物の外見は、見るもおぞましい軟体生物……とでも言えばいいのだろうか。生物を潰して混ぜっ返したような吐き気を催す黄土色をしていて、体から無数に伸びる太い紐状の部位が多脚で地を這う昆虫の足取りで巨体を前進させて追って来ている。見上げる程に大きく、目算は三メートルを超えていた。

 そして、何より薄気味悪いのが……


 ――――じっ……


 視線。体表には零れ落ちそうな大きな目玉が無造作にぞろりと並び、血走っている。粘りつく生温い手で肌を撫でられているかのようで、身震いするほど嫌悪感が沸いた。

(くそっ……なんなんだよあのデカいのはぁ!)

 竜胆朝陽(りんどうあさひ)はそう心中で悪態を吐く。

 あの生き物がいったいなんなのかなんて、全くわからなかった。あんなのは初めて見たのだ。

 それでも、目的の推測くらいなら容易に立てられる。獰猛にして餓えた捕食者。怪物の全身がそう物語っていた。

 木々を縫って、山の柔らかい土を蹴散らしながら無我夢中で駆ける。距離は遭遇した時と殆ど変わっていない。巨体が仇となって小回りが利くこちらを追い込みあぐねているようだ。

(この状況、どうすればいい? 考えろ……!)

 そう妙案を探していると、

『朝陽くん、あの生き物って何なのかな……? どうしてあんなのがいるの……?』

 その思考に割り込んで、怯えを含んだ声が意識に響いた。

 慣れ親しんだその声は、腕の中の少女、幼馴染である水守牡丹(みずもりぼたん)のものだ。

 牡丹は和装――身動きの取り辛い着物姿だ。履いていた下駄は何かの拍子にどこかへ飛んでいってしまったらしく足を守るものは足袋しかない。対して朝陽は比較的動きやすい高校の制服なので、動きにくい格好の牡丹を抱えて怪物から逃げ続けていた。

 どうしてあんな生物がいるのか? 事態を好転させる為ではなく不安を払拭したくて発せられたその無駄口に、窮地に立たされて切羽詰っていた朝陽の神経が逆撫でられる。

『そんなの俺にだってわかるわけないだろ!』

 思っていた以上に苛立ちを含んだきつい言い方になってしまう。腕の中で牡丹が身を縮ませたのがわかった。

 ただでさえ怯えている相手を更に畏縮させるのは本意ではない。たとえ気休めであっても優しい言葉をかけて少しでも安心させてあげたいところではあったが、今の朝陽にそんな心の余裕はなかった。

 そもそもどうしてこんな事態に陥っているのか。

 原因として思い当たるのは、所属している神話研究部の活動で行った『儀式』くらいだ。

 その儀式中に足元が黒い沼みたいになって沈み込み、気がついた時にはこの山に居た。『儀式』に一緒に参加していた牡丹と手を繋いだ状態で横たわっていたのだ。

 そうして、ここはどこだと探索しているうちにあの怪物と遭遇して今に至る。

『あいつの正体はわからない……けど、打開策と、ある程度の憶測くらいは立ててある』

 口頭ではなく意識でそう伝える。

『……どんな?』

 縋るように聞き返された。

 逃げる事から気を抜かず、考えを教える。

『あの外見を見て頭を過ぎったものが二つある。一つはクトゥルフの神、ショゴス。もう一つが西洋の都市伝説に登場するスライムだ。今からデータを送る』

 ショゴス。クトゥルフ神話において宇宙生物『古きもの』達によって合成された漆黒の粘液状生物。非常に高い可塑性と延性で自在に形態を変化させ、様々な器官を発生させる事が可能。

 スライム。粘液状の怪物で不定形の魔物。主に洞窟の天井などに張り付いて待って、獲物が下を通過する際に覆いかぶさってそのまま消化する。斬撃はもちろん中途半端な打撃も通じない凶悪なモンスター。

『う、うん。それで? それってお話の中のもの……だよね?』

 神話研究部で得た知識を突然披露し始めた朝陽に、牡丹は疑問符の付いた反応を返した。

『ああ。神話は世界最古の同人誌群と言って差し支えないくらい胡散臭いよ。クトゥルフ神話なんてはっきりと創作物だってわかってるし、スライムはただの噂話だ』

 神話は本当だったのかもなんて夢見がちな事が言いたいのではなかった。

『だったら、それがどうあの生き物に繋がるの……?』

 わけがわからないといった様子だ。

『逆に訊くけど、あの生物、牡丹はなんだって思うんだ?』

『……知らない化け物』

 シンプルな回答だった。何も考えてなさそうだ。

『まぁそうだけど……ならアレはどこからきたんだよ? 今や宇宙だって地球の近辺は人類の庭同然、謎の宇宙生命体が気付かれずにやってくる、なんて事はまず起こらない』

『それは――』

『つまり誰かが造った。こう考えるのが妥当じゃないか?』

 何かを言いかけた牡丹の言葉を食って、そう結論付ける。

『――そうかもしれないけど』

『だったら、ショゴスとスライムの情報を持ってるのは貴重なんじゃないかと思う。それらを連想させる生物を造った連中がいた場合、そいつらの特徴を持たせてるかもしれないだろ。想定しておけばあいつがそうだった時、必要以上に驚かなくて済むし対応もしやすい』

 下手な先入観は足を引っ張るだろう。そうだと思い込むのは良くない。けれどあらゆる可能性は考えておきたい。生きる為に。

『……うん、それはまぁ……あるかも?』

 歯切れの悪い同意。一部は認めつつも腑に落ちていないようだ。

『でもそれって、ここが地球だった場合の話……だよね?』

『…………まぁね』

 推論の致命的な欠陥を指摘されて、認めずにはいられなかった。

 だからといって、科学が隆盛を極めた現代に遊び半分で行った魔術的な行いが本当に異常現象を起こしてどこか遠くへ――例えば異世界へ送られたなんて結論を容認する事も、また難しかった。だからここが地球という前提で思考を進めていたのだが。

『どこなんだろうな、ここ。まさか異世界なんてこと……ないよな?』

『どう……なのかな』

 改めての疑問。目を覚ました時にもやったやりとりをもう一度繰り返す。

 互いに言葉が見つからず、しばしの沈黙。

 怪物から逃れる為にひたすら足を動かす。まだ息が上がる様子はない。大丈夫だ。

『で、打開策の方だけど』

 考えても答えの出ない問題は一旦棚に上げておく。

『心配しないで欲しいのは、俺は別に、あいつに立ち向かおうなんて思ってない。こうして逃げられてるうちは下手な事をするつもりはないよ』

『……じゃあどうするの?』

『あいつの目的はおそらく俺達の捕食だ』

『うん』

『つまり腹が減ってる』

『あ……』

 そこまで言ってこちらの考えている解決策に辿り着いたのだろう、声が希望を帯びる。

『他にもっとお腹が膨れそうな生き物を探して擦り付ければいい……?』

『そういうこと』

 朝陽はただ闇雲に駆けずり回っていた訳ではなかった。怪物に他の餌を用意してやろうと、野生動物を探していたのだ。

(でも……)

 一向に動物と出くわさない。自然の山にはそれなりに生息していると思っていたが、勘違いなのだろうか。それとも怪物が派手に騒音を立てているから遠ざかってしまっているのか。

『ていうか、いい加減諦めてくれないかな、あいつ』

 牡丹が言う。不満げな声に、ちらりと顔を見る。

 会話で落ち着きを取り戻したらしく、切れ長の目を更に細めて後方を睨みつけている。

『それは期待しない方がいいかも。だいぶしつこい』

『……ごめんね、持って貰っちゃって』

 申し訳なさそうに言ってくる。

『こんなのたいしたことない。見捨てられるわけないし、気なんか使わなくていい』

『ありがとう……私、まだ死にたくない』

『だったら着物脱いで自分で走れるか? その方が生存率上がりそうだけど』

『着物の時は下着付けてないから……』

 恥ずかしそうに、消え入りそうな声を出す。

『よし、じゃあやっぱり下ろそう』

『……えっち!』

 虚勢を張って軽口を叩くが、汗が頬を伝う。

 全裸で走らせるのは酷だろう。このまま行くしかなさそうだ。

(現状維持はいずれ詰む。本格的にまずいかもしれない。早く何とかしないと――)

 その焦りが、朝陽の判断を鈍らせた。

 いや、仮に焦燥感に塗り潰されていない正常な精神状態で決断を下してもそれが最良の結果を招くとは限らないだろうし、この状況に正解があったのかどうかもわからない。

 ともかく。

 少しでも距離を稼ぎたくて、最短ルートを通ろうと足場が目視で確認できない茂みを踏みつけた。脚力で撒けるならそれでもいいだろうと頭の片隅で考えたからだ。

「――――ッッ!?」

 それが、誤りだった。

 踏みしめた茂みの中、想像していたよりも高い位置に固い感触があった。

 石や岩ではない。おそらくは木の根。予想外の出来事にバランスを崩す。咄嗟に体勢を立て直そうとするも走っていた勢いも相当なもので、どうにもならず盛大に転んでしまった。その拍子に抱えていた牡丹を放り出してしまう。

「ごめ、牡丹、だいじょう――っ!?」

 少しでも早く駆け寄ろうと、立ち上がろうとして足が何かに引っ張られた。

 ぞっとして、右足を見る。植物の蔦に絡みつかれていた。

(嘘だろ……!?)

 慌てて引き抜こうと足を暴れさせる。蔦はしつこく頑丈で、なかなか開放してくれない。

 藻掻いていたその数秒は、怪物が距離を詰めるのに十分なものだった。

 視界に影が差す。見上げると、無機質な異形の瞳と目が合った。

 息を呑む。そこには、なんの感情もなかった。歓喜も、達成感も、何も含有しない空虚な視線。目は見る為の器官だから見る為に使っているだけの、単純な行為。全身から生えた触手がうねうねと動いている様に怖気が走った。

 追い付いた怪物は動きを止め、無数にある触手の一部をゆっくりと伸ばしてくる。

 食われる。死んだ。そう思った。

「――――ああああッ!」

 裂帛の叫びと共に、紫の何かが背後から飛び出して怪物に肉薄した。

 視界の中に、紫陽花色が鮮やかに舞う。牡丹の着ていた着物の色だ。

 たまたま近くにあったものを拾ったのであろう、牡丹は木の棒を両手で握り締めて、自身の何倍もある怪物に立ち向かった。体表を覆う眼球の内、少女の背丈でも届く位置にあるもの目掛けて先端を突き出す。

 容赦なく、体重を乗せて繰り出された渾身の一撃。尖った切っ先が柔らかな眼球を穿ち、血飛沫を舞わせる――かと思いきや。

 バキッ、と。木の枝はあっさりと半ば程から折れ、弾き返された。弓道での懐中のように直撃させたはずなのに、かすり傷一つすら付けられないままだ。

 それでも驚かせて怯ませる事は出来たようで、怪物は瞼を閉じて身を強張らせた。

 直後、血走った眼球が零れ落ちそうな程に大きく瞳が見開かれる。反撃に激怒したのか、怪物の体がぶわっと一回り膨張した。それは、凶兆を予感させるには十分な変化だった。

「…………ぁ……」

 牡丹が漏らした淡白なその吐息は、自身の無残な結末を悟った響きを宿していた。

 怪物の触手が数本捻れて絡み合い、太い縄の形状を取る。力を溜めるように後ろへ引かれた。

 鞭のようにしなりながら振るわれた触手が、朝陽の目の前から牡丹を攫い、すっ飛ばした。数メートルでは到底足りない大きな距離を弾かれ、転がってゆく。

 呆けていたのも一瞬の事、硬直していた身体が弾かれたように動いた。片足に絡まっていた蔓は靴を脱いでどうにか解く。立ち上がり、牡丹の元へと駆け寄るともう一度抱き上げて再び怪物から逃げ出した。

「ハァッ……ハッ……!」

 荒く息を吐く。それは、疲労からくる息切れではなかった。恐怖で呼吸が、動悸が加速する。目尻に涙が滲み、しゃがみ込んで泣き出したい気持ちと逃げなければという思いだけが際限なく増大していく。

「牡丹……聞こえるか、牡丹!?」

 肉声で名前を呼んでみるが、返事はない。どうやら気を失ってしまっているようだ。

 背後から届く怪物の気配に追い立てられ、無策に、がむしゃらに山中を駆けずり回る。

「…………!?」

 不意に微かな爆発音が耳朶を打ち、遅れて仄かな衝撃波が空気や地面から肌を痺れさせた。かなり、遠い。決して近くではない。音はおよそ人の耳に届くとは思えない距離感で発生しておきながら、遠雷のようにはっきりと、断続的に聞こえてきた。

 それは縋るに足る、一縷の希望に思えた。

 なにより、

(早く……少しでも早く、牡丹を治療しないと……頼む、誰か……!)

 音の響いてくる方へ、進行方向を変える。ぐったりと脱力している牡丹を抱える腕に力を込めた。茂みを抜けて、山肌が剥き出しになった山岳地帯へ辿り着く。そこで目に飛び込んできた光景は――

(人……! が、空を飛んでる……!?)

 尾根が稜線となった連峰がどこまでも続く雄大な景観の中、二点、目を引くものがあった。

 遮るものがなくなった開けた視界の中、遠方に人の姿が確認できた。まだかなり距離はあるが明瞭に視認できる。けれど朝陽は、本当にそれが人だと確信を持てずにいた。

 一人は、背中から猛禽の茶けた翼が生えていて空を舞っている。

 また、地に足を着けてそれと対峙しているもう一人は身体の周囲に炎を舞わしているからだ。炎は支えもなく滞空し、中心にある人物が動けば追従して蠢き空間を焦がした。

 翼の生えている方は男のようで、炎を纏うのは少女ようだった。

 少女が跳躍し――驚くべき事に、足に履いた金属質の長靴から白い火花のような光を噴射しながら――空を舞う男との距離を一瞬で削り取ると手に持つ大剣で斬りつけた。少女の身長ほどもある、紅い幅広の剣。切っ先はなく、平たくなっている。少女はそれを踏ん張りの利かない空の上で軽々と扱い、目で追い切れない速度による斬撃で猛攻を仕掛ける。躱しきった翼の男が空を飛んで間合いから逃れれば、空中を蹴る仕草と同時に靴底から白い光を迸らせ、少女は華奢な身体を再度突進させる。

 初撃合わせて三度繰り返し、攻撃全てが捌ききられた少女は追撃を断念したのか逆さを向くと頭を地上に向けたまま空を蹴りつけた。白光が放たれる。落下する途中で体勢を反転させて猛然といった速度で足場の悪い山の斜面に着地すると、長靴で山肌を傷付けて滑りながら姿勢を殆ど崩さずに、停止するまで間、空を仰ぎ翼の男を見続けていた。

 一連の流れは、僅か数秒というごく短い間になされたものだった。

「誰か…………」

 壮大な景色の中で行われる人知を超えた者達の戦い。普段であれば言葉を失い魅入る事もあったのだろう。だが腕の中には沈黙を守る牡丹がいた。それが朝陽の忘我を押し止めた。

「誰かこの子を助けてくれぇぇぇぇ!!」

 叫ぶ。たった一声で、喉が嗄れそうな程に。彼我の距離は、まだある。どんな大音声を出そうとも、人間の声量で素直に届くとも思えない程の絶望的な距離が。だとしても叫ばずにはいられなかった。腕に感じる確かな重みを、万が一にも失いたくなかったからだ。

 それが、功を奏した。

 超人的な戦闘を繰り広げていた両者はほぼ同時に朝陽のいる方向を一瞥した。

 翼の男は無表情だったが、少女の方が驚愕に近い調子で目を剥いた。その瞳が映すのは、牡丹を抱える朝陽ともう一つ。

 背後に迫る怪物の気配が膨れ上がる。木々から抜け出して、怪物との間に障害物を失い容易く追い付かれてしまったのだろう。もう吐く息すら感じられそうなほど近くまで迫っている。意味がないとわかっていながら、首を回して後ろを見る。

 再び、どうにもならない近距離に怪物がいた。怪物の巨躯を前に、おぞましさから目を引き剥がすと腕の中の少女を抱き締めて観念するように瞼を閉じると――


 ズドンッ! と。背後から聞こえたけたたましい音と共に大地が揺れた。


 衝撃に、たたらを踏んで足を止める。中腰になって、耐えられずに片膝を着く。

 何が起きたのかと背後を振り向く。

「…………!?」

 翼の男が立っていた。羽の生えた背を向けて、怪物の身体に右手を差し込んでいる。

 そこを中心に、地面には盛大にヒビが入っていた。

 怪物の不気味な体表がビクビクと痙攣する。

 死んだのか、動かなくなったところで翼の男が右手を引き抜く。

 怪物は支えを失いあっけなく崩れ落ちた。

 ゆっくりと、翼の男が振り向く。

 右手を血で真っ赤に染めて、全身のそこかしこに返り血を浴びている。

 でかい。身長は二メートル程あり、美貌と評して差し支えない鋭い顔付きに、筋肉質な体格。背中に翼がある為か上半身は裸で、腰に布を巻いていた。

 ネコ科を思わせる縦長の瞳孔が印象的だった。一切の気兼ねなく見詰められる。深い知性を感じさせる金色に魅入られるようだ。

 ――いつ、ここまできたのだろうか? 今の一瞬で……? 

 数秒前まで遥か彼方にいた翼の男は、当然のようにそこに立っている。

「あの」

 けれど、そんな疑問はどうでもよかった。

 話しかけるのに恐れはなかった。個性的な外見であっても翼の男は窮地から救ってくれた命の恩人なのだし、血塗れなのは自分達の代わりに手を血で染めてくれたに過ぎないからだ。

「この子を」

 謝辞も謝罪も礼も、何もかもを差し置いてまず治療を受けられるように手配して貰おうと口を開いていると、


 轟ッ! と熱い突風が吹き抜けた。


 驚いて目を細める。

 風が止み、瞼を上げる。いつの間にか目の前の状態が一変していた。

 翼の男と入れ替わるように、巨大な剣を持った少女が背を向け立っている。纏う炎は空気を焼き、熱が肌を炙ってくる。

 少女は空を見上げていた。視線を追えば、空には地上を鳥瞰する翼の男。

 事態の急転に混乱する。牡丹の容体は一刻を争うにも関わらず、身動きが取れずに両者の動向を見守ってしまう。

「貴様の要求通り、ここはおとなしく引き下がろう。だからそちらも今すぐ失せろ」

 少女が言った。幼さは残るものの、落ち着いた雰囲気の凛とした声音であり、それはどう聞いても日本語だった。

「…………」

 翼の男はしばし黙考すると、無言で背を向け飛び去った。

 はぁ、と溜息を吐きながら、今度は少女がゆっくりと振り返る。

「それで、あなたはどうしてこんなところにいるんです……か……」

 険のある言い方で気だるそうに問いかけてきていた少女の言葉尻が、こちらと目を合わせた途端、急に消え入る。

 まっすぐに見つめ合う。

 初対面のはずだが、思う所がありそうというか、様子が変だ。

 呼吸も思考も、全部忘れるくらい驚いている。そんな風に感じた。

 だが、取り合っていられる場合ではない。「どうしてここにいるのか」という質問には答えず、牡丹を差し出して口を開いた。

「この子、大怪我して気を失ってるんだ。どこか治療が出来る場所まで案内して欲しい」

 予定は少々狂ったが、聞き慣れた言語を話すのであれば問題なく要求が伝わるはずだと話を切り出す。目的さえ達成出来るなら過程にこだわりはない。

 声をかけられ、ハッとして自分を取り戻したらしい少女は、訝しげに眉を顰める。朝陽の腕の中の牡丹へ僅かに目線を落とし、

「残念ですが、その人はもう……」

 故人を悼むように、目を伏せた。

 ――いや、ように、ではないのだろう。これは寸分の違いなくそのままの意味で受け取るものであり、朝陽の幼馴染である水上牡丹(みなかみぼたん)の死を暗示していた。

 足元が、揺らいでいくような錯覚。

「そ、そんなわけ……っ!」

 覚束ない足取りでよろめきながら、まとまらない思考でぼやく。

 少女の口が微かに開かれ、かけるべき言葉を探すように瞳がさまよい、結局何も見つけられずに唇が引き結ばれた。

(目を覚ましてくれ……!)

 声のない叫びは、風に消えた。弛緩しきった牡丹に変化はない。

 ……どうしてこうなった?

 牡丹が何か悪い事でもしたか? 死ななきゃならないような事、何かやったか?

 やってないだろ?

 つまり――

「牡丹は……死んでない。悪い事なんてなんにもしてないのに、死ぬはずなんてない」

 そう呟く朝陽へ、少女は痛ましいものを見る目を向けて厳しい口調で言う。

「なら……どうしてあなたはこれまで一度もその人の方を見ないんですか?」

「…………!!」

「本当はもう、わかっているんじゃないですか?」

 どうして一度も見ないのかなんて、そんなのは決まっている。

 目を向けてしまったら、きっとわかってしまうから。認めなくてはいけなくなってしまうから。非情な事実を、受け入れなければならなくなってしまうから。

「ちゃんと、見ておいてあげてください」

 間違いを正すような、あるいは叱りつけるような落ち着いた声。

「その人が死んで欲しくない人なら、なおさら、ちゃん、と……?」

 淀みなかった少女の言葉が唐突に途切れ、怪訝な目を牡丹へと向ける。

 え、と思い、やっぱり牡丹は死んでなんていなくて目を覚ましたんだと期待して目を落とす。それくらいしか今この場で少女が驚きを示す状況を思いつけなかったからだ。

「あ……」

 牡丹の口から、ぶよぶよとした赤黒い、血の色をした液体が蠢きながら這い出てきていた。

 その正体に心当たりがあった。学校の授業やネットワーク上で何度か目にしている。

 実物を見るのはこれが初めてだったが、すぐにわかった。

 液状コンピュータで製造された『思考操作式寄生型人体補助端末(パラサイトユニット)』。

 通称、P‐ユニットである。

 P‐ユニットは胎児の時から全人類の体内に注入されている。身体能力の強化、脳機能の上昇、他者との思考による意思疎通など様々な機能と用途を兼ね揃えた性能を持つ人類の英知の結晶であり、宿主に益するように志向された思考能力と生存本能を持つ擬似生命体であり、健康管理など宿主の生命活動を補佐する役割も与えられている。

 それが、体外に排出される理由は一つしかない。

 絶命時だ。P‐ユニットは宿主の生命活動が終わりを迎えると、口腔から体外に這い出して球体となり、硬化する。それは宿主のあらゆる情報を然るべき施設へ劣化なく届ける為に組み込んである習性だ。硬化したP‐ユニットを保存する事により、人類はP‐ユニットが普及して以降の全人類のデータを保管している。それを使用した死者の蘇生は人類史の中で未だ一度も実行されていないが、肉体も問題なく用意でき、技術的には可能であるとされている。

(そうだ……なら……)

 天啓にも似た閃きが脳を満たす。

(やっぱり、牡丹はまだ死んじゃいない……!)

 なぜなら、まだ続けられるから。

 さっきまで牡丹が入っていた肉体が壊れるまでのデータはここにある。P‐ユニットに記録されている。これを待ち帰る事さえ出来れば、牡丹の人生を欠落なく続行できる。

 肉体は着脱可能な魂の入れ物だ。今はまだ死者の蘇生は禁止されているが、そうなっているのはこれまで人類が死者の蘇生を実行に移す機会がなかったからで、必要に迫られれば法なんて変えられるはずだ。P‐ユニットが完全普及して以降の人類史に、寿命以外の死因は無い。現存する病に不治はなく、ありとあらゆる災害は克服され、事故発生率は理想値である0%まで低下した。死亡率が一パーセントでもあればP‐ユニットに抑制されて出来ないという、自由と引き換えに叩き出している数字ではあるけれども。

 今の地球を、人々はこう呼ぶ。

 正真正銘の理想郷――『悲劇の終わった世界』と。

 人は誰も科学で延長された天寿を全うして死に身を委ねる。P‐ユニットに閉じ込められた『情報化された人生』を利用して復活し、目覚める時がくるのだろうかと夢想しながら。

 けれど、牡丹の肉体が致命的に損壊してしまったのは紛れもない『悲劇』だ。

 そうなると、牡丹は『悲劇の終わった日』以来始めての理不尽による死者になる。

 排出されたP‐ユニットを持ち帰りさえすれば、世界はその死を哀れんで蘇生措置をとってくれるかもしれないのだ。

(…………いや)

 きっとそうなる。そうしてみせる。

 こんなのは耐えられない。認められない。絶対に、許容できない。

 牡丹がここで死んでしまう運命なんて、なにがなんでも否定してやる――!

 壊れてしまった幼馴染の体を地面に横たえて、球体となった赤黒いP‐ユニットを両手で優しく掬い上げた。

 人工物の魂は、まだほんの少しだけ生暖かい、金属の手触りだった。

「あの……」

 声をかけられ、顔を起こして立ち上がる。

 改めて少女を見る。着ているのは軍服だろうか。全体的に白を基調としており、ショートパンツ付きのスカートもニーソックスも腰のベルトも、特注品のような高貴さだ。

 似合っているとは言い難かった。少女の頭の天辺は、朝陽の胸までしかない。軍服なんて、矮躯の少女と釣り合わない。なによりも噛み合っていないと感じるのは、手に持つ大剣だが。

「…………」

 少女を中心にのたうつ炎の火影が、女の子の輪郭をくっきりと浮かして白い肌を縁取るようにして紅く染めていた。

 鋭く細められた青い瞳と目線がぶつかる。光を強引に押し込めているかのような眼光。比喩ではなく、少女の瞳は実際に発光していた。後ろで纏められた腰まである小波のような赤い髪も、同じように輝いていた。

 幼さの抜けない顔立ちを見る限り、少し年下のように見えた。

 ぱっと見は美少女と評して差し支えない容姿だ。

 しかし、女の子の表情は彼女の魅力を無碍にしていた。

 仏頂面。愛らしい大きな目に燈る光彩は、冷え切ったように濁り、鈍い。

「…………あなたは誰なんですか」

 形の良い小さな唇が割れて、声をかけてくる。容貌通りの幼さ残る声音なのに、無邪気さとはかけ離れた、年不相応な大人の響きを宿していた。

「えー……と」

 答えようとして言い淀む。自分は誰か。存外答えに窮する問いかけだった。

「竜胆朝陽(りんどうあさひ)……だけど」

 苛立たしげな少女の気迫に押され、名前だけ告げる。

「名前だけ答えられても困ります。所属と目的は?」

 可愛らしい見た目に反して、やけに事務的な口調だ。

「……地球人。帰る」

 朝陽の返答に、女の子は不愉快そうに表情を歪ませて大袈裟に溜息を吐く。

「真面目に答える気はありませんか。あの男の仲間とも思えませんが……何か不都合があって素性は明かせませんか?」

「そういうわけじゃない。俺自身、なんでここにいるのか分かってなくて……」

「はぁ……? その球体はなんですか?」

「これは…………」

 見てわからない人間に、牡丹の魂だと言って理解してもらえるのだろうか。

「……まぁいいです。遺体は疫病の原因となりかねないので……魔物のものだけ、焼いておきます。その方をあなたの前で燃やすのは忍びないですし」

 言うが否や、少女の周囲を取り巻いていた炎が魔物の死体へと取り付き、炎上する。

「あなたには私について来て貰います」

 ここに居続けるのは論外なので異存はなかった。少女はおそらく力ずくで事を運べるだろうに、暴力で屈服させるつもりもないようなので、信用できるのではないだろうか。

「……わかった」

 だからもう、思考停止で頷いた。そして続ける。

「こっちからも訊いていい?」

 承諾を得て、踵を返しかけていた少女が振り返る。同時に、少女の周囲を取り巻いていた炎が虚空へと消える。

「構いませんが、悠長にしている時間はありません。なんですか?」

「君は、だれ?」

 自分がされた質問をそのまま返す。

「……これは失礼しました。私は、アデイル軍の末席に名を連ねるフレイア・ラズヴェルナです」

 身長が低くて上目遣いになっている少女、フレイアは姿勢を正してそう名乗る。警戒されている、ということはなんとなく分かるのだが、殆ど無表情なのであまり感情が読み取れない。

 アデイル軍。聞いた事はない。こう言えばわかるだろうといった態度に、認識のギャップを感じる。

「へー、そうなんだ。フレイア……ね」

 名を呼んだ瞬間、眉を潜められた。不快そうだ。気安く名前を呼ばれるのを好まないのかもしれない。

「で、さ」

 歯切れ悪く、核心に迫る疑問を投じる。

「さっき君の周りにあった炎は、なに?」

「私の魔力を炎に変換したものですが」

「魔力を……変換」

 そういった言葉には、多少馴染みがある。神話研究部で良く耳にするワードだ。

「それは……魔法、なのかな?」

「魔法です」

 当然、とでも言わんばかりの断言だった。

 魔法。そんなものの存在を、異世界なんてものの実在を、認めろとでも言うのか。

「君、日本語喋ってるよね?」

 フレイアが小首を傾げる。

「…………? ニホンゴとはなんでしょうか」

「知らない? じゃあなんで言葉が通じてるの?」

「……それは、私がセンだからでしょう」

「…………っ」

 相手がセンという言葉に含まれる概念を既知している前提の発言。そういう答えを求めているのではないのに。自分の常識が通用しない。苛立つ。

「戯れていられる状況ではないので、もう切り上げてもいいですか」

 怪訝な顔をしたフレイアが冷たい声で言う。

「…………ああ、うん」

 了承して、そうだと、ふと気付く。

(これ、持って行ってあげないと……)

 散漫となった頭でそう考え、足元に転がっている牡丹の抜け殻から髪飾りを外す。

 促されるまま、フレイアに追従した。

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