第7話

 天童真理雄は大手玩具メーカーで商品開発を手掛けている。製作しているのは主に手品グッズだ。


 真理雄の父、照久てるひさはプロのマジシャンである。祖父、寿限無じゅげむの代から続くマジシャン一家で育った真理雄も、当然その道を志した。しかし17歳の頃、マジックショーの最中に起きた不慮の事故で、真理雄は右手の親指を損傷する大怪我を負った。以来、真理雄はプロのマジシャンへの夢はすっぱり諦め、新しいマジックを考案することに情熱を注ぐことになる。


 綺羅から真理雄の携帯電話に連絡が来たのは、午後15時40分を過ぎた頃だった。

 真理雄はちょうど会議を終えたところだった。


「どうした?」


「あなた、大変なの、落ち着いて聞いて。花が誘拐されたのよ」


「…………」


 真理雄は世界から色が失われていくのを感じていた。頭の中が真っ白になって、何も考えられなくなる。


「もしもし、もしもし、聞いてる?」


「……ああ」

 そう答えるのが精いっぱいだった。


 ――花が誘拐された?

 ――何かの冗談だろう?


「今どこにいるの?」


「会社だ。警察には知らせたのか?」


「ええ、これから。それより今すぐ帰ってきて。17時にもう一度犯人から連絡があるから、それまでには戻ってきて欲しいの。いい?」


「……ああ、わかった」


 通話を終え、真理雄はすぐさま会社を出て家路を急いだ。真理雄は自宅から東京の会社まで電車で通勤している。必要がない為、自動車は所有していない。


 山手線の暗い車窓を真理雄はただぼんやりと眺めていた。娘の危機だということは頭では理解できていても、それを受け入れる心の余裕がなかった。何かの間違いであって欲しかった。


 家に着いたのは16時50分だった。真理雄の帰宅を綺羅と夏目が玄関で出迎える。


「花が誘拐されたというのは本当なのか?」


「そういう電話があったことは事実よ」

 綺羅が答える。


「ということは、ただの悪戯電話という可能性もあるんだな?」


「ええ。ですので付近を捜査員に巡回させて調べさせているところです」

 夏目が二人の会話に入る。


「もうすぐ約束の17時です。電話には私が出ます。天童さん、宜しいですね?」


「…………」


 夏目の有無を言わせぬ迫力に、真理雄は頷くことしかできなかった。


 かくして、17時ちょうどに電話がかかってきた。


「もしもし」

 1コール目で夏目が受話器を取る。


「警察か。五千万円は用意できただろうな?」


「ちょっと待て。何故私が警察だとわかった?」


「……つまらない駆け引きには付き合わない」


「わかった。だが一つだけ確認させてくれ。本当にそこに花ちゃんがいるんだな? それが確認できなければ、こちらは交渉に応じない」


「ママー!!」


「……花ッ!?」

 綺羅がその場に泣き崩れる。


「金はバッグに入れて天童真理雄に運ばせろ。JR山手線高田馬場駅から十七時三十分の新宿・渋谷方面の電車に乗れ。いいな」

 そこで通話が切れた。


「……うーん。妙ですね」


 そこで初めて真理雄は湖南の存在に気が付いた。パーカーにジーンズというラフな格好に、冗談のような瓶底眼鏡。とても警察官には見えない。


「湖南君、何が妙だと言うんだ?」


「何って、犯人が身代金の運搬にわざわざご主人を指名してきたことですよ」

 湖南は逆に不思議そうに夏目の顔を見ている。


「何もおかしなことはないだろう? ご主人、真理雄さんは花ちゃんの父親だ。身代金を渡して娘を助けることを優先させると考えたのだろう。その為に最初の電話で家に戻すよう念を押してきたんだ」


「いいえ。そこからして妙だったんですよ。何故わざわざ犯人はご主人を家に戻せなどと指示したのでしょう? 身代金の運搬なら不在のご主人でなくても、確実に身動きの取れる奥さんでも良いではありませんか」


 確かにそうだ。

 犯人が真理雄を家に戻した理由がわからない。


「女性に身代金を運ばせることに抵抗があったのではないか?」


「まさか。犯人は子どもをさらうような冷血漢ですよ」


「…………」


 湖南は夏目から真理雄に視線を移す。


「天童さん、失礼ですが誰かに恨まれるような覚えはありませんか?」


 その言葉に真理雄は少なからずショックを受けた。花が誘拐されたのは自分の所為だと言われている気がした。

 しかし、真理雄にその心当たりはなかった。それは自分が聖人君主だという意味ではなく、誰かに恨まれる程の人間ではないということだ。誘拐事件など起こさずとも、真理雄を破滅に追い込むことくらい容易いだろう。


「……わかりません」


「そうですか」

 湖南は残念そうに溜息をついた。

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