第9話 第二章 『月の宮殿』 その1
ペル王女の輿入れの一行がミタンの地を出立する日の朝、空には雲一つなく、麗らかな日差しが溢れていた。
八才のペルの面差しはまだ幼く、輿の窓からその愛らしい顔を覗かせて自分に向けられる人々の歓声や別れの様子を目をまん丸く見開いて見つめていた。
ペルはミタンの王クルの孫にあたり、一行にはその両親であるバティ殿下と妃のヒナが同行していた。
幸いこの頃には、例の噂も収まり、不気味な報告も聞かれることはなくなっていた。
輿入れの一行は、行く先々で歓迎を受けながら街道沿いを進んでいた。
そして、シュメリアの領内に入ったところで待ち受けていた護衛隊の先導の許、辺り一面何もない草原地帯に建つという宮殿へと向かった。
ミタンで、その婚礼の儀が執り行われると云う宮殿のことが話題になり始めたのは、一行の出立から暫くしてのことだった。
人々は皆、一行は王都メリスに向かうのだろうと思っていた。
ところがシュメリアからの話として、『月の宮殿』という聞き慣れない名が漏れて来た。
美しいシュメリアの月夜をより満喫するため、今や〝狂王〟とさえ揶揄されるシュラ王は、そこに月見の宴のために月に届くほどの高い塔の館を建設したのだという。が、王都から離れたその宮殿には、シュラ王自身が訪れるのさえ希だという。
(・・塔のような・・月の宮殿だって?)
駐在先から都に戻ったばかりのハルは、そんな噂を耳にして驚いた。
彼は二年前の調査が表面上打ち切られてからも時折、コウの残した言葉が気になっていた。
そのコウもミタンに帰還後、記憶は回復しないまま行方が判らなくなってしまった。ダシュンはその後も一人シュメリアに留まり、その『月の塔』と呼ばれる場所を捜している。
ハルは定期的に彼の報告を受け取っていたが、その連絡がここ暫く途切れていることが気掛かりだった。
そんなハルは、カンの屋敷に行って面会を求めた。ところがカンは、急遽、今回の輿入れに同行したという。
カンの妻はカンにお似合いの凛とした美しい女性だったが、その日の表情にはどこか険しく何か秘めたようなものが感じられた。
「ところで、ハル殿。今回の殿下御夫妻の御同行に異議を唱える者がいたということはご存知・・?」
その一人だったカンが、バティ殿下に進言したところ・・。
〝・・それなのよ、カン。前にあの奇妙な噂に関する報告を受けた時から、可愛いペルの輿入れには絶対同行しようと決めていたの。・・そうだわ、カン、ついでだから貴方も一緒に来ない。心強いわ〟
カンは〝お気楽バティ様〟と異名を取る殿下のそんな親心以上に、あの奇妙な噂に対する真摯な反応に少なからず驚いた。
広大な大地遥かに姿を現したその宮殿は・・近づくに従い、その想像を絶した威容がはっきりと目に入って来る。
カンはその景観に、何か泡立つような思いを感じた。ジュメ大使の甥が言い残した言葉が・・浮かんで来たのだ。
すぐ近くまで来ると、その姿は突如、また違う様相を呈する。
それは、周りを広い池に囲まれた・・蜃気楼に浮かぶ高い城のようだ。
ミタンの一行は、その素晴らしい景観に目を見張った。
広い門前で赤い衣を纏った優雅な物腰の男達に迎えられた一行は、水上に掛かった橋を渡り正面口へと進んだ。
強い陽射しに、赤い衣の光沢が炎のように揺らめく。
広い池は一面、美しい白い蓮の花と大きな緑の葉で覆われ、その処々に白い鳥達が憩う。目に赤い縁取りを持つその珍しい種は、黒色の細く長い脚と、同じく細く長い嘴で静かに水中の餌を啄ばんでいる。
・・そういった光景の全てが、照りつける強い陽射しの中でさえ、現とは思えぬ程の奇なしき幻に思えた。
「夢の宮殿・・ですな」
宮殿前では、これまた赤い衣の男達が大きな黒い日傘を掲げて、美しい衣を纏った背の高い人物を南国の強い陽射しから守っている。
それがこの夢のような宮殿の主で、一行の滞在を預かるシャラだった。
その美しい長い銀髪と端麗な面差しの人物の出迎えに、一行も直ぐに馬車から下りて挨拶を交わした。
そして宮殿の中に通されると、不思議なことに、入り口の天井まで届きそうな大きな扉にはその開閉を預かる者の姿もなく、微かな音さえしない。
・・そう言えば、あんなに沢山いる鳥達の鳴き声も聞こえない。
「おお・・」
中に入ると、これはまた外観以上の壮麗さだ。
円形のホールの内側の壁に沿って、天空へと這い上って行くかのように階段が巡り、その壁一面にはそれまで目にしたこともないような素晴らしい浮彫が施されている。
・・他の何処に於いても、この宮殿のようなものを見ることはないだろう。
この地、この場所が夢を見ている。その夢見る間だけ存在するかのような・・幻想の館・・。
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