第5話 序章 『禁断の森』 その5
上空に浮かぶシュメリアの守護神、月の光の満ちた夜・・祭壇に燃え盛る炎を浴びて、マイヤは朱色の土をその身に纏っただけの男達と交合を繰り返していた。
燃え盛る炎の熱でその赤土が溶け出したかのように・・辺り一面を染め、重なる身体が蠢いている。
その時、突然、ビシュッと何かが空を斬って唸るような音と振動が直ぐ近くで起こった。
生暖かい液体が飛び散り、男達の動きが止まった。
マイヤは身体に掛かったその固液を拭うと、暫し無言のままその掌を見詰めていた・・。それから悲鳴を抑えるようにその手で口元を抑え・・そっと辺りに目をやった。
すぐ近くに、一人の男が立っていた。
手にした剣から赤い液体が滴り落ち、周りにその鞭のような剣が一瞬にして刎ねた男達の首が転がっていた。
が、王妃が悲鳴を上げる前にその身体はその場に組み敷かれ、男の片手がその首許を抑え、耳元に囁く声が聞こえた。
「マイヤ、おまえはいったい何者だ・・」
マイヤの怯えたようすは直ぐに消え、その顔にある種の興奮の色が浮かんだ。
「婚礼の一行の中に、王宮の者と顔見知りの者は誰一人いなかった。おまえの美しさは誰も語らなかった。おまえが、おまえの一族の住むカダルからやって来たと誰が言える・・」
「せ、先祖代々の・・印の品がございますわ・・」
その目になぜか嬉々とした挑発的な色合いを浮かべ、その上品ぶった口調を発する口元は悍ましい返り血で染まっている。
「そんな物は奪えば手に入る・・」
「・・そうですわね」
「何だと・・」
「苦しいですわ・・緩めて下さらないと・・」
更に力が入り・・その掌に細い首の骨の感覚が伝わる。
「・・・」
まるで観念したかのように・・その滑らかな首を預けると、マイヤはその視線を洞窟の天井に向けた・・。篝火に照らされた壁一面の浮彫が浮き立つ。
その浮彫を見つめるマイヤの恍惚としたような表情に・・シュラの視線もゆっくりと天井に導かれ、祠の壁全体を見回した。
あの埃にぼやけてハッキリとは分からなかった浮彫が、赤い篝火を受けてクッキリと浮き出ている。
その影と光の陰影、深い曲線・・丸みを帯びた砂岩の色合い・・まるで絡み付く肉体のような造形と揺れる炎の赤味が、肉厚の掌の中に包まれていくようで・・その手の力が徐々に弛緩する。
その背に女の手の感触が伝わり・・再び力を込めたその手も束の間、既に十分な握力はなく、やがて視線が落ち・・目を閉じた女の唇の端に微かな笑みが浮かんでいるのが見えた・・。
(・・おいでなすったか)
夜の気配の中で、影のような男は素早く逃げ道を捜した。
見る事も、聞く事も、そして勿論、何も口外するつもりなぞなかったが・・仕えた王に刺客を向けられたことで、王と交わした契約の満了を知った。
その前に、王が男に「死」を命じていたなら、遂行していたかも知れない。
しかし、自由の身となった今は・・。
(こちとらだって、命は惜しいんですぜ・・)
「これはお前にだ。ノマ」
王からだと云う酒瓶を受け取ると、ノマは女官達の部屋に急いだ。
その夜の酒宴が急遽取り止めになり、用意した酒と肴が女官達に廻って来た。
たまにそんな事がある。女官達は既に部屋で車座になり、酒宴を始めていた。
最近の粗忽な振る舞いのバツとして、ノマは女官長から暫く女官達の世話をするよう言いつかっていた。
そんな失態にも関わらず王の寵を得て、酒宴の場から下げようともしないためヤキモチ半分、女官達の不満が募っていたからだ。
「あっ・・!」
ノマは思わず酒瓶を取り落とした。
しかし周りの女官達は誰も、また・・などと言って、お馴染みのギャグに付き合うこともなく、その場に倒れている。その口元から流れる・・赤い色を拭うことさえしないで・・。
「毒だ・・」
すぐ近くで声が聞こえた。
思わず振り返ったノマに、いつの間に現れたのか、女官達が可愛がっていた黒猫を膝に乗せた男が言った。
「おまえ、おれと来るか・・ノマ」
「え・・」
ノマは、見知らぬ男が自分の名前を言ったことに驚いた。
「ここにいたら、おまえもまた同じ目に合うぞ」
「え・・」
男は猫を両手から放した。猫は割れた酒瓶が散乱した床に流れ出た酒を舐めると、急に身体を震わせ、倒れた。
「へ、陛下の・・」
呆然としたまま、ノマは言葉を切った。
「いや、陛下じゃねえ。もう王はいねえ」
「え・・」
「『月の王朝』のシュラ王は、もういねえんだ」
「な、何を言っているの・・」
「禽り込まれちまったんだ・・」
「禽り・・」
男は、廊下をやって来る者達の気配を感じた。
「いつまでもここで世間話をしている訳にゃァいかねえ・・おれは行くぜ」
「あっ・・」
「来るのか・・?」
「あ・・ちょ、ちょっと、待って・・」
そう言うとノマは女官達の寝所に急ぎ、奥方からもし何か物入りがあった時には使いなさいと言って渡された形見の胸飾りと、捨て子のノマを包んでいた布地の切れ端が入った袋を衣の中に押し込んだ。
「早くしろい」
外で待っていた男は、ノマの腕を掴むと駆けだした。
「チッ・・逃げられたか・・追え!」
部屋に踏み込んだ男達は、邪魔な黒猫を足蹴にして外に飛び出した。
その弾みで部屋の隅に飛んだ猫の舌が、ノマが取り落とした酒瓶から流れる液体に触れ・・飲んだ。
・・やがて麻痺から解放されたその小さな身体は起き上がると、何事もなかったように部屋を出て行った。
「おまえの足じゃ、かえって足手まといだな・・」
迫る追っ手の気配にそう言った男は、サッとみね打ちしてノマを気絶させると、担いで先を急いだ。
月明りの夜の中、陰を捜して急ぐ男の脇を飛び道具がかすった。
(下手くそめ。ちっとも当たらねえじゃねえか・・)
ふと、ワザとか・・と思った。森の中で自分を見上げた少年の眼差しが過った。
その時、飛び道具の一つが足に当たって激痛が走った。
(まずい、まだそんな甘い事を考えてる場合じゃねえ・・)
そう思い直すと、直ぐに追っ手を撒く算段を考えた。
男は街を知り尽くしている。特に夜の街を。
・・それから暫くして、追っ手をすっかり撒いた男はノマを担いだまま知り合いの商隊の逗留する宿舎に辿り着いた。
翌早朝、その商隊と共に都の門を出立した。前途に広い草原が開けた。
髪を切り、男の身なりをしたノマの面差しは少年のようで、つい昨夜までの、風雅な月の宮廷に仕える女官の姿が想像もつかないほどだった。
二人はお互い目が合うと、無表情のまま無言の会話を交わした。
考えるのは、後だ・・。
まずは、今日これからの一日を生きよう・・。
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