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  • 究極の姿が、イスラエルとパレスチナ。イスラエルはパレスチナの人々を人間だとは思っていない。心の底では、自分たちだけが人間だと思っているように感じる。

    異質なもの、理解できないものからの自己防衛。そこがスタートだと思っています。だから、そのコミュニティで『普通でない』ところのある人間、例えば勉強ができるというプラスの面ですらターゲットになるのではないでしょうか。

    コミュニティの色で、誰もが加害者にも被害者にも成り得る。
    私たちが、身体障碍者に思わず視線を向けることも同じなのだろうと思います。

    後は自己防衛からの集団心理。
    排除対象者に、排除しやすい名前(ゴキブリとかサル。あの人、あいつなども同じかもしれません)を付ける。追い込むのは、アドレナリン等の影響でしょう。自分の動作や発する言葉で自己暗示にかかり、強くなったように錯覚し多幸感を得る。

    ただ、私たちには知能があり理性がありました。

    排除することでコミュニティ内での平穏という小さなメリットを手に入れるかもしれないけれど、進化の抑制という大きなデメリットが潜んでいることをもっと早く認識すべきでした。

    コミュニティの平穏は変わらず脅かされています。どんなに正規分布が収束していっても、端は存在するからです。
    そして、多様性から生まれる工夫や知恵を排除してきた結果が『いま』なのだと思います。

    すみません、長くなりました。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。

    >どんなに正規分布が収束していっても、端は存在するからです。

    いついかなる時も、この一節があったし、これからもあり続けるのだと思います。

    >多様性から生まれる工夫や知恵を排除してきた結果が『いま』なのだと思います。

    知能があり、理性がある。そして残存する意志である言葉がある。

    しかし、我々は自分達に属さない、または認識していない存在を知ることが出来ません。
    知らないことはいないこと、価値のないこととイコールではないけれども、我々は自分達の持つ視野だけで生きていかなければならない。

    存在していないものを、それと知らずに踏みつけにしても、誰も気付かない。ましてや罪悪感を抱くなんてことはない。

    そして言葉という概念は、容易に他人をいない「設定」に出来る。そして我々の誇るべき知能と理性は、その設定に実体を与え、現実に出来る恐ろしさを持っているのです。

    暴力だけなら動物でも出来ますが、抹殺するのは人間だけの「特技」となるでしょう。

  • 考えさせられました。
    誰もが「いじめる側」に回る可能性があること。そのスイッチは案外身近にあるかもしれないこと。
    そして仰る通り、言葉によるレッテル貼りも大いに関係がありそうです。
    知らず知らず人を「モノ」として見ていないか、つねに自らを省みる必要がありますね。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    本文中にもありますように、言葉は実態と異なるものでも表現する(ある人を指してゴキブリと評するなど)ことが出来てしまいますし、人々は尤もらしい理由をいくらでも捻り出せてしまう能力を持っています。
    同時に、自分に関わり合いのない他人全員に対し、個性や人生を見いだせるほどの余裕があるわけでもない。不機嫌な時も含め、いついかなる時も「モノ」扱いをせずにいるのは実際は相当難しいはずなのです。

    人間関係は思ったよりも脆く、引き金はずっと簡単に引けてしまう。これは個人の性格や素質、心の強さというより、ヒトという生物、あるいは集団が持つ性質に近い。
    人と接する時はこのことを踏まえるべきだと思っています。

  • はじめまして、実に興味深い考え方ですね。
     自分は自覚のある部分ではいじめた側に回った事が無いので(逆は何度かあります)いじめる側はもはや「人間ではない」と思っているのですが、いじめられる側もそうならもう、人対人の間で起こっている事象であるって前提条件すらぶち壊れてますね。
     結局もはや「殺るか殺られるか」しかないんだなと、個人的には解釈しています。それが精神的なレベルなのか社会的にのレベルなのか物理レベルまで及ぶかはケースによるものでしかない、と。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    お互いに「相手が人間である(=理解が出来る)」という前提を捨てたら、おそらくとことんまで向かうと思います。その際は仰る通り、災害のような……つまり、仮に凌げたとしてもそれは「運が良かっただけ」、そういう現象になるのでしょう。
    そういうものだと割り切るという手もあります。大多数にとってはきっと負荷がかからずコスパが良いでしょう。
    ですが、もし、そこから外れてしまった人が、事が大きくなる前に自衛をしたり、その人の関係者が守ろうと動くのであれば、原因を見つめ、メカニズムを見つめ、言葉の魔性、暴力性に抗わなくてはならないのだと思います。

  • こんにちは。
    興味深く拝見させていただきました。

    >標的を「人間」だと思ってはいないのではないか

    なるほど。確かにそういった一面も考えられるような気がいたします。

    昨今のSNSなどの誹謗中傷につきましても、画面の向こうに一個人がいることを失念したような文面が並んでいるのを見て、上記のような印象を私も受けました。画面の向こうにいるのを人間ではなく、BOTか何かと勘違いしているのでしょう。

    おっしゃる通り、自身がいじめに関わらない保障なんてどこにもないわけで、常に我が身を振り返ることのできる謙虚さを持っていたいと思うこの頃です。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    「いじめをするような人に思いやりなんてない」という意見に引っ掛かりがあって、色々と考えてみたのがこの話です。
    仰る通り、SNS上での誹謗中傷や炎上のケースは想定と実態が大きく乖離しているように見えますね。
    「こんなはずじゃなかった」とか「ここまで大事になるとは思わなかった」という当事者のコメントを見るたびに、いじめは想像以上にいじめっ子にすら制御出来ない事象なのでは? と思ってしまうのです。

  • とても興味深く拝見し、応援しております。

    いじめについては、私個人は「確信犯型のいじめ」と「親分型のいじめ」の2種類があると考えています。

    確信犯型は、立場の上下を笠に着たパワハラなど「論理的に辻褄の合ういじめ」。嫉妬や人種差別など階級闘争の意図が見て取れる排除的なものなど。

    そして論理的な理由がどうしても見つからないいじめを「親分型」と呼ぶ。
    『「本人たちの意識とは別に、無意識の意識で、いじめる側はいじめられる側を親だと思っている」というものです。いじめる側が親ではなく、いじめられる側が親だということです。誤解なきよう』
    『無意識でそう思ってしまう理由。それは「相手の顔のデザインを見て判断している」というのが私の考えです』

    ちょっと何を言ってるのかわからないと思われたことでしょう。
    カクヨムにさえ出していない私の小説の中のネタですので、まあお忘れください・・・・・・

  • 「社会の闇」の類の言説は、間違いなく思考停止でしょう。

    いじめに限らず、イスラエル政府によるパレスチナ人に対する殺戮行為などでも、同様の心理が働いているように感じます。

    作者からの返信

    コメントありがとうございます。
    社会の闇、人間の悪意といった表現は、「自分達の私生活とはおおよそ関わり合いのない話」という安心感(無関心)を与えるのだと思うのですよね。
    元々は「あなたも(社会・人間の)一員であるのだから、気を付けなさい」という意味合いで使われていたはずが、使われ過ぎて今や真逆になってしまったのが皮肉な話です。

    「自分達とは違う、理解も和解も出来ない存在」だと認識してしまう。そこから綻びが生まれているように感じられるのです。