第56話 抜けた栞

 双空橋での戦いから三日後。ここは、命音区にあるユニオンセル生物学研究所だ。


 『螺旋の囚人』の監査人である検見崎士郎けんみさきしろうは、ここ数日、研究所内で内偵調査していた。桐明育久が研究所の外へ逃げた。その手引きした者を探していたのだった。


 すでに、異能を使った聞き込みもしており、一人だけ容疑者と言える人物が浮かび上がっていた。


 紙束栞かみたばしおり。桐明の研究を手伝っていたスタッフだ。


 検見崎は、苦笑する。桐明は研究所内での人付き合いは極端に少なかったので、異能を使わずとも絞り込めたのではと、後から思ったのだ。


 ハガネたち一行とは、未だ連絡が取れない。桐明を捕まえる追跡は、どのような結果になったのか。検見崎は気になっていた。桐明を捕まえられれば、おのずと協力者がわかる可能性もあるからだった。



 検見崎は、紙束栞に会って話をしたかったが、なかなか彼女に接触する機会がなかった。研究スタッフとしては、可もなく不可もない人物の様だった。そのせいもあるのか、彼女の予定をきちんと把握している者がいなかった。


 研究所内のシステム経由で、チャットやメールで彼女に連絡しても、「すいません。返信できていませんでした」や「体調がすぐれなくて、午後から休んでまして」、果ては「ごめんなさい。寝落ちしていました」という返信だった。


 生物の研究は、細胞分裂の周期や生物の習性に合わせないといけないため、不規則になりがちではあるのだが。


 また、紙束栞の都合がよくても、検見崎が急に誰かに呼ばれて機会を失うといったことも起きていた。なかなか予定を調整して会う機会が作れないまま、丸二日が過ぎていたのだった。気にしていた満月の日も過ぎてしまった。



 ようやく今、検見崎の目の前に、白衣を着た紙束栞が座っている。ここは研究所の応接室だった。お互い革張りのソファに腰掛けている。


「紙束さん、すいません。やっとお話する機会ができましたね」


「いえいえ。こちらこそ、ご迷惑をおかけしてしまって……」


 そう言いながらの紙束栞の仕草に、検見崎はかみ合わない何かを感じる。思い浮かんだ言葉は、視線誘導。


 聞き込みした全員がほぼ共通して、「会えば紙束さんとわかるけれど、顔の印象がないのです」と言っていた。


 検見崎は、それがプロとして気になっていた。彼女は印象が薄くなるように、意図的に振る舞っているのではないかと。


 それが今、対面してはっきりした。手や身体を動かす仕草で、検見崎は視線が誘導されていると感じる。本能的な反応を利用されているのだ。強く意識して彼女の顔を見ないと、目と目がなかなか合わない。


「細胞の分裂周期に合わせて、夜中にも作業をしていまして……。ほんとにうっかり寝過ごしてしまったのは、大変申し訳ないです」


「いえいえ。仕方ないですよ。皆さんの研究を邪魔したくはありませんから、お気になさらずに」


 検見崎は、本心とは真逆のことを、社交辞令として述べた。


 もし、桐明を外へ逃す手引きをしたのが彼女であるならば、そうとう手強いはずだ。この研究所はかなりセキュリティが厳しい。それでも逃すことに成功しているのだから。


 だが、検見崎は紙束栞と対面する場を作れたことで、勝ちを確信していた。検見崎の異能は、相手の行動ログをキーワードで検索して閲覧できる。嘘は通じないのだ。事実だけを見極められる異能。


「それでは、さっそくお聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」


 検見崎は、丁寧に尋ねながら、名刺を差し出した。彼女がそれを手に取り、見たことを確認する。


 そして、異能を発動した。あとは調べたいキーワードを彼女に聴かせるだけだ。絞り込んで、追い込んで、暴いてやると意気込む。


 紙束栞は、かわらず視線誘導を仕掛けてくる。検見崎は、そんなものはこの異能の前には意味がないのにと、心の中で笑う。口元がニヤけない様に気を使う。


「検見崎さんは、今から監査を、つまりある種の戦いを始めようとされていると思うのですが……」


 その言葉を聴きながら、検見崎は彼女の視線誘導に抗う遊びでもしようかと、顔を合わせようとした。


 だが、視線誘導はもうされていなかった。簡単に目が合った。途端に、検見崎はゾッとした悪寒を感じる。蔑む視線を向ける冷たい瞳がそこにあった。


「すでに、決着は着いているのです。この席に着く前から。もう戦いは終わっています。私の勝ちです」


 検見崎は、言われている意味がわからなかった。紙束栞は続ける。


「……あなたの異能は、もう知っています。なので、あなたがこの様な場を望んでいることも。であれば、対策は簡単でしょう?」


 栞は、誰かに手を取らせるように右手を伸ばした。検見崎がその仕草に疑問を感じた瞬間だった。


 突然、目の前に日傘をさして白いワンピースを身に着けた銀髪の女性が現れた。そして、その彼女の左手は、栞の右手と繋がれた。


「…………先生を、いじめていたの、観ていたから。……許さないから」


 突如現れた銀髪で白い肌の美しい女性は、怒りに満ちた鋭い視線を検見崎に向けながら、そう言ったのだった。


 実験体No.11。検見崎がそう気づいた時だった。


「検見崎さん、研究所の皆様には大変お世話になりましたと、お伝えいただけますか?」


 栞が丁寧に言った。また視線誘導に導かれて、検見崎は栞の顔がわからないなと思った瞬間だった。


「……さぁ、帰りましょう」


 銀髪の女性がそう言うと、検見崎の目の前から二人の女性は消えてしまった。


 応接室に一人残された検見崎は、言葉を失っていた。


 そして、しだいに目の前で起きた出来事を理解して、こめかみに血管が浮かぶ。検見崎は、握りしめた拳でテーブルを強く叩いた。

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