63.緊急出動

 [5月 7日 12時 57分 横浜市 遊佐川高校]

 逸樹は体操着から制服に着替え終わり、学食へ向かおうとする。

 昼休みの学食は初動に遅れると満席状態になので、座るには早く到着しなくては。


「あ、逸樹も学食?」

「席空いてるかなあ……」


 同じく着替え終わった詩織と一緒に学食へと向かおうとすると、背後からいきなり腕を掴まれた。


「雨姫⁉」

「逸樹、ちょっと来て」


 雨姫は逸樹の手首を握り締めて、強引に引っ張る。突然のことで力を入れそびれた逸樹はされるがまま連れて行かれる。


「雨姫ちゃん⁉」

「いや、何があった。まずは説明しろ」

「ちょ、ちょっと二人共どこ行くの⁉ ねえってば!」


 雨姫は詩織の制止を振り切り、迷わず駆け出していく。

 彼女は階段を段飛ばしで走り下るが、逸樹を掴んだままだ。

 逸樹は下を俯きながら、転ばないように必死に歩調を合わせる。


「フジシマから緊急で連絡があった。キミ、ヴァーミリオン探すの得意でしょ」

「いや、今……学校だろ⁉」

「人の命がかかってるッ!」


 早退することも告げずに逸樹と雨姫は学校から抜け出した。


「ああ、どうしよう……この俺が学校を無断で早退……サボるなんて信じられん」


 逸樹はこの世の終わりのような顔で有り得ない程、狼狽する。

 それもそのはず、彼にとって規範、学則は命と同じぐらいの重みを持つ。例によって頑固スイッチが入り、場所も時間も選ばない発作となる。


「午後の授業サボっただけで大袈裟」

「初めから休んだ方がマシだ! 早退なのが余計に罪悪感を感じるんだ!」

「もう、ウジウジしてないで気を取り直してよ。今やるべきことは?」

「五月蠅い、分かってる」


 逸樹は紺色の傘を、そして雨姫も透明なビニール傘をさして、駅方面へと向かう。


「それでフジシマさんからは?」

「逃走中のヴァーミリオンが東京からこっち方面に来ている」


 雨姫は早足で道を進みながら、スマートフォンの画像を逸樹に見せた。

 粗い解像度の画像に写るのは、人相の悪い禿頭の男だった。


「豊島区で強盗殺人、強姦殺人合わせて三件。しかも豊島区担当のヴァーミリオン狩り二人殺してる。能力も分からないから苦戦するかも」

「……庇いきれない悪人か」


 一瞬、下劣な考えが逸樹の頭に浮かんでいた。仮にこの犯罪者を雨姫に殺させず、捕まえて裁かれたとしても間違いなく死刑になるだろう。

 そんな相手をここで殺すのとで、何か変わるのか、違いがあるのかと。

 だが、その考えが唾棄すべき発想だとすぐに気付き、無心に雑念を取り払う。


「最後に見たのが今日、鶴見方面」

「電車を使おう」


 横浜駅に向かい、鶴見行きの電車に乗る。

 扉側の手摺に寄りかかり、それから二人は小さな声で会話を交わす。


「俺は奴を探せばいいんだな?」

「探すだけ。戦闘は私が引き受ける」

「お前が怪我した時に備えて、せめて近くに居る」

「キミは守るのにも限度がある。キミの家族も心配するよ」


 女子に慮られるこの不甲斐なさ。暗にひ弱と断じられているのも屈辱的だった。


「それを言うなら、お前だって心配する家族が――――」


 これから雨姫が対峙するのは、女性に暴行するような外道。

 そんなものに雨姫は付き合わされる、彼女の家族が身を案じると咄嗟に思いついた。

 つい言う当たり前の台詞を言いかけたが、一つのことが思い浮かび言い淀んだ。


――雨姫の家族ってなんだ?


 ただ彼女は今こんな風に行動していることは、少なくとも今は離れ離れなのだろう。

 

「今は関係ない話しないで……」


 家族のことを話題に出した途端、雨姫は急に針で刺されたように反応した。下唇を噛み、忌々しそうにする雨姫。


「すまん」


 雨姫の触れてはならない過去の記憶を抉り出してしまった。雪下雨姫にどんな過去があろうとも、これ以上余計な詮索をするのはやめよう。

 雨脚が強くなり、電車の中はずっと無言のままだった。


「まずは最後に目撃場所に行こう」


 鶴見区に到着すると二人で傘を差して駆け足で道を行く。

 駅から数百メートル離れた所で、雨姫は耳を澄ましてその場に立ち尽くす。


「おい、聞いてるのか?」

「……多分キミの力は要らない」

「な……お前また直前で裏切るつもりか!」

「しっ」


 逸樹の唇をぴたりと指三本で押し込めると、鼻を鳴らす。

 次第に雨姫の顔は険しくなり、毛が逆立った猫のように警戒する。


「おい!」

「キミはここで待ってて」


 逸樹が呼び止めるも、雨の中ビニール傘をその場に放り投げて走り出した。

 滑空するかのような大股の跳躍を行い、雨姫は真っ直ぐ目的地へと向かう。


「ったく……こいつすぐ勝手に!」


 通常なら雨姫の絶対に追いつけないはずだが、ある地点から雨姫は周囲の安全を確認して進むようになり、逸樹はずぶ濡れになりながらも雨姫に追いつけた。


「はぁ……はぁ……! ちょ、おま……待て!」


 結局、雨姫が止まった地点は鶴見川の橋梁きょうりょうだった。

 川縁には大きな亀裂が幾つも入り、橋梁の鉄骨も歪んでいた。何かが勢い良くぶつかったような形跡がある。


「これは……酷い壊れ方をしているな」


 そして雨に流れつつあるが、血液が付着しているのが見える。

 付着した血液を指で採ると、血液の色が悪く新鮮なものとは違う、粘りのある血液であることに気が付いた。


「古い血……だが雨に流されてないな。まるで今出たばかりの」

「こういう質の悪い血液を持っているとすれば、ヴァーミリオンぐらい」

「ならここでヴァーミリオンが戦闘をしていた?」

「うん。近いかも」


 雨姫はまた走り出して先行するのを見て、逸樹も負けじと付いて行く。

 自分だけが置き去りを食らうのは冗談ではない。


「血の臭いがする……ここから異様に濃くなってる」


 雨姫は迷わず橋梁下の地下トンネルへ下っていく。ここは路線が幾つも川を跨ぎ、橋を通るための地下通路だが、雨脚が強く、人通りがはかなり少ない。

 壁が落書きだらけのトンネル内に入ると雨音は遠くなり、代わりに水の流れる音が響く。

 内部は電灯がついているが仄暗く、そして黴の臭いが全体に漂っている。

 トンネルには天窓が点々としてあるが、土塊や埃が累積しており、光は殆ど差し込まない。

 雨姫はすぐにその場の異変に気がつき、奥へ進んでいく。


「おーい、どうした……」


 雨姫が腕を差し出し制止してくるが、逸樹には意味が分からず構わず進む。


「お……い……あれ」


 薄暗いトンネルで見えるのは壁を塗り潰す血。トンネルのあちこちに散乱した肌色と赤色の肉片に目が行く。

 腸や指、髪の毛、胃の一部に歯、砕けた骨、まるで鴉に食い荒らされたかのような有様に、思わず叫びそうになった。


――こいつ、まさか……! さっき雨姫に見せられた……!


 頭部が転がっているのが見える。そしてその顔に見覚えがあった。

 雨姫に見せられた殺害対象だった。雨姫達が手を下すまでもなく既に殺されていた。

 内部からは騒々しい声が聞こえてくる。


「ゼンッゼン弱ェエエエエッ!」

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