人間剥離

放浪者

第1話 循環する

人間とは一体何の為に生まれ、なぜ死んでいくのだろう。僕は幼い頃から死について考える事が多かった。

 学校の帰り道、ふと目に止まった葉っぱを一枚捥ぐ。僕の手に握られたこの葉っぱは、程無くして色を無くし枯れていくだろう。しかし他の葉っぱは何事もなかったかのように風に揺れ続ける。

 人間の世界も同じでは無いだろうか。例えば今、僕がこの場で死んだとしても、何事も無かったかのように世界は回り続ける。僕という存在など初めから無かったかのように当たり前の日常が過ぎ去っていく。

 毎日誰かがこの葉っぱの様にむしり取られていく。どれだけ強く祈ろうが、抗おうがその運命を変える事は出来ない。

 運良くむしり取られる事が無かったとしても、巨大な幹に栄養を送り続けるだけの存在。いつか疲れ、枯れ果て散っていく運命。

 人とは何の為に生まれてくるのだろう?何かを成す為?子孫を繁栄させる為?それとも社会の歯車の一つとして自我を捨て、ただただこの世界を回す部品の一つとなる為だろうか……そんな人生だけは送りたくない。

 手に握られた葉っぱをグシャリと握り潰すと、葉っぱは歪に形を変え、変則的な軌道を描きながら地面へと落下していった。

 僕の家庭は決して裕福な方では無かった為、両親共に働きに出ていた。学校から帰ってきても家に誰かがいる事は無かった。

 玄関のドアの前に立つと僕はズボンのポケットを探った。

 (あれ?家の鍵が無い)

 学校を出る時にランドセルの中から取り出してポケットに入れたはずの家の鍵が見当たらなかった。

 (どこかに落とした?いや。しっかりとズボンの上から鍵の存在を手で確認しながら歩いていたからそんなはずはない)

 おかしいなと思いながらも、試しにドアノブに手を伸ばしてみると……ギィッと音を立て少しだけドアが開いた。

 最後に家を出るのは母なので鍵をかけ忘れたのか?だが今まで鍵をかけ忘れていた事など無かった。不審に思いながらもゆっくりとドアを開く。

 窓から差し込む夕日に照らし出された部屋は、いつもの見慣れた光景では無かった。どこかの部屋のリビングの様だ。

 ポタリポタリと蛇口からシンクに液体が垂れる音が響く部屋は、人が住んでいるとは思えないほど荒れ果てていた。フローリングには吐瀉物なのか排泄物なのか分からない黒いシミが点々と広がっており、付近には割れた花瓶に土、恐らく植物であったであろう枯れた塊が散らかっていた。

 水滴の音が耳に触る。蛇口を閉めようとキッチンに近付くと、シンクには血液の様なドス黒い液体が入ったマグカップが一つ置かれていた。中身が何なのか気になるが、確かめようという気にはなれない。その時、白い薄手のレースカーテンが揺れ、生暖かい風が室内に流れ込んできた。ギシギシと天井から吊るされた何かが揺れている。……これは一体何なのだろうか?

 不気味な程真っ赤に染まった部屋で僕は「それ」を見つめたまま立ち尽くしていた。

 真っ赤な世界から一転、急に視界が暗転していった。上も下も無い真っ暗闇の中で何かが鳴り響いている。闇の中に小さな光がポツリと点灯し、その音も少しずつ近付いてくるのが分かった。文字通り光の速度で、一気に闇の世界から僕を包み込んだ光に目が眩む。それと同時に耳に飛び込んでくる不愉快な爆音で僕は目を覚ました。

 (あれ?ここはどこだ?)

 目を覚ました僕の目の前に広がった光景は、先ほどのリビングでもなければ僕の家でも無かった。大人になった僕が今住んでいる部屋。マンションの寝室だった。

 ジリジリとけたたましく目覚ましが音を立てている。僕はハッとなり急いで目覚ましを止めると時刻を確認した。午前七時。いつも起きている時間だ。落ち着いてもう一度部屋を見渡すが紛れもなく僕の部屋だ。

 夢を見ていたのかと目を擦り、壁に吊されているスーツを手に取るとリビングへと向かった。寝室から出て窓のない短い廊下を抜け、リビングのドアノブに手を伸ばしリビングへと入る。

 薄ら光の漏れるカーテンを開けると朝日が目に飛び込んできた。

 今日も快晴だ。眩しさに目を細めつつ電気ケトルのスイッチを入れ、窓際に置いてあるサボテンに水を差した。

 水をやりすぎるのもよくないので、朝にほんの少しだけ水を差すようにしている。亡くなった父が大事にしていたサボテンで、今の僕にとって唯一の家族と言ってもいい大切な存在だ。

 スーツに袖を通しながらグツグツと音を立てるケトルのスイッチを押し、粉末のコーヒーをマグカップに入れ熱湯を注ぎ込む。

 マグカップの中の真っ黒な液体をクルクルとスプーンでかき混ぜながらベランダへの扉を開いた。秋特有の肌寒くもほんの少し哀愁を纏った風が頬を撫でる。

 ベランダに出てコーヒーを一口含む。僕はここから見える景色が好きだった。海沿いに遊園地でもあるのか観覧車が回っているのが見える。無機質で無感情なビルだらけのこの街で唯一華やかな、生きた感情を感じられる場所だ。

 さすがに独り身の男一人であの観覧車のある場所へ行ってみようとは思わなかったが、遠くから見ているだけでもワクワクと心が躍った。

 マンションの下の道路に目を落とすと、それとは対照的な雰囲気で駅に向かって歩いて行く人達が見える。皆同じ様に肩を窄め下を向き、駅に吸い込まれていく……何の感情も感じない。まるでロボットのようだ。毎朝同じ時間に出勤して毎日同じような業務をこなし、そして同じ時間に帰って行く。

 周りから見たら僕もこの一団と同じ様に見えているのだろうか?こんな人生だけは送りたくないと思っていたのに、僕も社会の一つの歯車として動いている。

 本当にくだらない人生だ。

 残ったコーヒーを一気に口に流し込むと、あまりの苦さに顔を歪めた。空になったマグカップを睨み付けながら、振り返り室内に戻ろうとした時だった。

 ドンッ!!腹部に強い衝撃が走った。

 小さな……小学生くらいの女の子?の様な外見をした子供が僕の腹部に突撃して来た。

(何故僕の部屋に子供が?誰だ?)

 様々な疑問が頭に流れ込んできた瞬間、激しい痛みが腹部に走った。急いで腹部を触ってみると深々と包丁が突き刺さっていた。腹に突き刺さった包丁の周りからじわりと血が滲み出し、激しい痛みに膝から崩れ落ちその場に倒れ込んだ。

 ゼェゼェと激しく呼吸を繰り返し倒れ込んだ僕を見て、その子供は僕を指差しながらカラカラと笑い声を上げている。出血と共に一気に体温が下がって行く感覚がする。

(痛い。寒い。死にたくない)

 途切れ途切れになる意識の中、子供の笑い声が響き渡る。視界が霞んでいるせいで顔がよく見えないが、白い歯を剥き出しにしてカラカラと音を立てて笑っている。

 ベランダの床に転がった飲み干したはずのマグカップからは、何故かコーヒーのような真っ黒な液体が流れ出している。

 僕の血液とマグカップから流れる真っ黒な液体が混ざり合わさった赤黒い液体で床が満たされて行き、階下にポタポタと溢れ始めていた。

 滴り落ちてくる血液の様な物に驚いているのか階下でドタバタと複数人が走り回っている様な物音が聞こえてくる

(僕は死ぬのか?まだ死にたくない……誰か助けて……)

 遠ざかる意識の中、子供の笑い声と秒針を打つ音だけが響いていた。

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