相馬①

「ほら、あの人よ」

 時刻は夜の九時を回っている。一家で外食をして帰ってきて、三階建ての自宅に入る間際だった、幼い二人の子ども連れの夫婦の妻のほうが夫に、通りに視線を向けてそう話しかけた。

「え?」

 夫が妻と同じ方向に目をやると、少し離れた細い道を、酒に酔っているようで軽くふらつきながら、三十代の半ばくらいとみられる男性が歩いている。

「この前、言ったじゃない。そこのマンションに住んでる人。平日の昼間にほっつき歩いている姿をよく見かけるし、多分働いてないのよ。子どもたちに変なことをしやしないかって、ほんと気になるのよね」

「でも、実際に子どもに声をかけたり、怪しい行動をして、問題になっているわけじゃないんだろ?」

「うん」

 夫に訊かれて、妻はうなずいた。

「じゃあ、しょうがないよ。心配な気持ちもわかるけど、そういう目で見てると向こうがそれに気づいて、そのせいで腹を立てて何かやられちゃうかもしれないしさ。いざとなったら僕がちゃんと警察に相談にいったりするから、あんまり気にしないようにしたほうがいいよ」

「……そうね。わかった」

 そして一家四人は家の中に入っていった。

「うー、気持ちわりー。飲み過ぎたー」

 相変わらずふらついていた歩道の男性はつぶやくと、立ち止まって近くの電柱に手をついた。

 服装など、彼の身なりは至って普通だ。しかし陰気な印象が強く、たとえきちんとスーツを着たとしても会社員には見えないであろう社会性のなさがにじみでている。だからこそ、今しがたの妻である女性のように、他人に警戒心を抱かれたりもしてしまうのだ。

 男性は再び歩きだしたものの、やはりおぼつかない足取りで、道幅が狭いこともあって、向かいからやってきた男に軽く接触してしまった。

「ああ? 何だ、てめえ、いてーじゃねえか。どうしてくれるんだ? コラあ」

 男は四十歳くらいのチンピラふうで、ぶつかった男性以上に酔っ払っていた。細身ではあるけれども百八十センチはあるだろう背が高く、腕っぷしは強そうだ。

「すみません。ちょっと酒に酔って、ふらついちゃいまして」

 まずいと感じた男性は心底申し訳ないといった態度で深く頭を下げて立ち去ろうとしたが、男は引き下がらなかった。

「待てよ。それで済むと思ってんのかあ? 治療代よこせや」

 チッ、面倒くせーな——と男性は思った。

「はい。じゃあ、これで許してもらえますね?」

 そう口にして、ズボンの右の前のポケットから雑に二つ折りにされた十枚ほどの一万円札を取りだし、男の目の前に突きだした。

 まさかそんな何枚もの万札が出てくるとは思わず、男が驚いて動きが止まると、男性は「おっと」と少々大げさに手が滑ったように振る舞って、わざとそのお金を地面にばらまいた。

「言っときますけど、今回だけですよ。もしまたカネが手に入ると考えてやってきたりしたら、すぐに警察に助けを求めますからね」

 男は散らばったお金をすべて拾おうと必死で、男性がしゃべっていることすら気づいていない様子だ。男性はそれを見て、現在出せる限りのスピードで、男の視界から外れる別の通りへ移動した。

 男性はほっとしたが、それもつかの間、背後から別の人間のこんな声が聞こえてきた。

「うわー、いいな。あの人、うらやましい」

 振り返ると、今まで関わっていたのほど悪人っぽくないとはいえ、黒と茶が交ざった髪などチャラチャラした感じで、真面目という言葉からはかけ離れた印象の男が、ニヤリとした笑みを浮かべて立っていた。二人による一連の出来事を目にしていたのだろう。歳は男性と同じくらいに思われた。

 何だよ。今日、ツイてねえな。

 その男もタチが悪そうで、何をしてくるかわかったものではない。男性は再度ポケットに手を入れ、中にまだ残っていた五、六枚の一万円札をつかんで出した。

「ほら。これで勘弁してくださいよ」

「え? 何すか? 受け取れませんよ、こんなカネ。ま、ほんとは、もらえるもんならもらいたいですけどね」

 男は馴れ馴れしいしゃべり方で、やはり真面目なタイプではなさそうだが、思ったほど悪い人間でもないようで、男性は安堵した。

「あなた、服部さんですよね? 天才ギャンブラーの」

 男に問いかけられ、男性は表情を曇らせた。

「は? いいえ、人違いです」

 首を横に振って答えると、一気に酒が抜けたようになって、足早にその場から去っていったのだった。

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