第13話 紫式部『GAME5』

 1月20日 - オーストラリア・メルボルンの繁華街で、車が歩道を暴走し通行人をはね、5人が死亡、30人以上が負傷する事件が発生、うち死者、負傷者各1名が日本人。


 京都の喧騒から離れた一角に位置する秀吉書店。そこは時代を超えた古書と秘宝が眠る場所だった。朝倉和也は足早に店内を歩き回り、目的のカードを探していた。


 やがて彼は特別なセクションにたどり着いた。薄暗い雰囲気の中、古い本や幻のカードが静かに並んでいる。その中にある、紫式部のカードを手に入れることが朝倉の目的だった。


 しかし、カードを求める者は多い。同じくらいの情熱を持つ収集家たちが、朝倉を取り囲んでいた。熾烈な競争の中、朝倉は冷静さを保ちながらカードを探し続ける。


 ついに彼が目にしたのは、神秘的な輝きを放つ紫式部のカードだった。しかし、手に入れるには困難が伴う。他の収集家たちとの駆け引き、鋭い洞察力と判断力が試される時間がやってきた。


 朝倉は緊張感を忘れず、巧みな戦略を駆使してカードを手に入れることに成功した。その瞬間、彼の心には達成感と興奮が渦巻いた。紫式部のカードは、血と汗と情熱が交錯する闘いの結晶であり、朝倉の勝利の証だった。


 紫式部の実名や正確な生没年はわかっていない。宮中での女房名は藤式部とうのしきぶで、後に「紫式部」と呼ばれたとされるが、いずれも通称である。


 平安時代の貴族階級の女性は当時の慣習で実名を公にしない場合が多く、紫式部をはじめ清少納言や和泉式部などの名称は通称であり、実名はいずれもわかっていない。明確な通称がない場合、例えば『更級日記』の作者名は「菅原孝標女」(菅原孝標の娘)と表記されている。


 紫式部の生没年に関する近年の研究では、天禄元年(970年)から天元元年(978年)の間に生まれ、少なくとも寛仁3年(1019年)までは存命したとされ、その後の没年は誕生年と同じく、研究者ごとに様々な説が出されるがどれも確証はなく不明である。


 父の藤原為時は官位は正五位下と下級貴族ながら、花山天皇に漢学を教えた漢詩人、歌人である。紫式部は20代半ばすぎに藤原宣孝と結婚し一女(大弐三位)を産んだ。長保3年(1001年)、結婚から3年ほどで夫が死去し、長保4年(1002年)頃から『源氏物語』を書き始めた。


 寛弘2年(1005年)頃に評判を聞いた藤原道長に召し出され、その娘で、一条天皇の中宮彰子に仕える間に、藤原道長の支援のもと『源氏物語』を完成させた。なお、『紫式部集』には夫の死に伴い詠んだ和歌「見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦」が収められている。


 紫式部の墓と伝えられる古蹟が京都市北区紫野西御所田町(堀川北大路下ル西側)に残されており、小野篁の墓とされるものに隣接して建てられている(『河海抄』の記述に合致)。この場所は淳和天皇の離宮があり、紫式部が晩年に住んだと言われ、後に大徳寺の別坊となった雲林院百毫院の南にあたる。京都市の建札によれば、この場所から東北の地域はかつては小野氏の領地だったが、後に藤原氏の所有となった。この地に紫式部古くは14世紀中頃の『源氏物語』注釈書『河海抄』(四辻善成)に、「式部墓所在雲林院白毫院南 小野篁墓の西なり」と明記されており、15世紀後半の注釈書『花鳥余情』(一条兼良)、江戸時代の書物『扶桑京華志』や『山城名跡巡行志』『山州名跡志』にも記されている。この情報が長い間にわたり、両家の墓所として保たれてきた理由を示している。1989年に社団法人紫式部顕彰会によって整備された。この時、篤志家・近藤清一氏はこの計画に賛同、四国の吉野川上流で産出した大きな花崗岩(高さ1950cm、幅120cm)を碑石として寄附した。京都市北区の観光名所の一つになっている。

 

 貴族では珍しくイワシが好物であったという説話があるが、元は『猿源氏草紙』での和泉式部の話であり、後世の作話と思われる。


 和也は『BOOKQUEST』内の冒険を進めていく中で、古代の魔導書を手に入れることが目標となる。彼は古代の遺跡や謎のダンジョンを探索し、危険や難関を乗り越えながら魔導書の手掛かりを探し求める。


 ある日、リアルな鞍馬にある古本屋でゲーム内の古代の遺跡を発見し、その中に魔導書が隠されていることを知る。しかし、ゲーム内で遺跡は古代の罠や守護者によって厳重に守られており、和也は様々な難題を解決しながら魔導書を手に入れるための試練に挑むことになる。

 彼は仲間たちと協力し、謎解きや戦闘を通じて遺跡を探索していく。

 和也と仲間たちは古代の遺跡に到着し、入り口で古代の罠に遭遇する。古代の文献によると、遺跡内には4つの試練が待ち受けており、それをクリアすることで魔導書を手に入れることができるという。最初の試練は「古代の記号パズル」であることが判明する。


 和也たちは遺跡内を探索し、古代の壁画に描かれた記号を元にパズルを解く。壁画には複数の記号が描かれており、それらを正しい順序で組み合わせることで次の部屋に進むことができる。和也は仲間たちと協力してパズルを解き、障害を乗り越えて試練をクリアしていく。


 遺跡の奥深くにたどり着いた和也たちは、古代の守護者によるバトルに挑むことになる。守護者は強力な魔法を操り、和也たちに襲いかかる。和也は夢野久作の夢幻の風(敵を錯乱)、太田牛一の剣術を駆使しながら、守護者との戦いに挑む。


 バトルは激しい展開を見せ、守護者の攻撃によって和也たちは苦戦する。しかし、仲間たちとの連携や戦略を駆使して次第に守護者にダメージを与えていく。最後は和也が冒険の途中で手に入れた『魔法の栞』の力を借りて強力な攻撃を放ち、守護者を倒すことに成功する。このバトルによって、和也は魔導書を手に入れることになる。

 そして、最終的には遺跡の奥深くにある秘密の部屋で古代の魔導書を見つけ出した。この魔導書は彼の冒険に新たな展開をもたらし、物語に大きな影響を与えることになるだろう。


 織田雅樹は六甲山の奥深くで、伝説に語られる妖怪と遭遇した。その妖怪は古の呪術によって生み出されたと言われ、その姿は人間の想像を絶する恐ろしさを持っていた。


 そいつの正体は高入道たかにゅうどうだった。徳島県山城谷村(現・三好市)や香川県大川郡長尾町名和(現・さぬき市)、および兵庫県西宮市今津に主に伝わっている。大阪市には明治15年頃まで出没したといい、知らぬ者はいないほどだったという。


 兵庫では、酒造の狭い路地に現れたという。人前に不意に現れて、思わず見上げた人の目の前で、背がどんどん高くなり、天に達するほどの巨人となるものとされる。同様の特徴を持つ見越入道に類する妖怪であり、似た名前の高坊主と同一の妖怪との説もある。


 これに遭遇した際は、兵庫では物差しを持って来て1尺(約30センチメートル)、2尺、3尺と身長を測ると消えるという。香川県の名和では、上を見上げずに「負けた、見越した」と唱えてお辞儀をすると消えるといい、徳島県でも同様に「見越した、見越した」と唱えると消えるといわれる。


 江戸時代の古書『絵本小夜時雨』にある話「御幸町の怪異」によれば、天明時代末期、京都に御幸町に身長約1丈(約3メートル)の高入道が現れ、これに出遭った人が無我夢中で木片を投げつけると姿を消したという。


 正体は、兵庫ではタヌキやキツネが化けたものともいわれるほか、香川ではカワウソ、または人間の肩にとまったタヌキの仕業とされる。徳島県では、高洲の隠元(たかすのいんげん)という名のタヌキが高入道に化けて人に相撲を挑んだという。特に漁師との相撲に勝てば大漁を約束し、負ければ不漁になるので、漁師は機嫌をとっていつも相撲にわざと負けていたという。現在では徳島市沖洲町の高洲堤防上にある祠に隠元大明神として祀られている。また古書『怪談旅之曙』によれば、ある百姓がスッポンを売って生活していたところ、執念深いスッポンの怨霊が身長十丈の高入道となって現れたという。

 高入道は巨大な黒い影として現れ、邪悪な気配を放っていた。その攻撃は瞬間移動や魔力の放出など、人間の理解を超えた能力を持っていた。雅樹は初めての妖怪との戦いに臨みながらも、持ち前の勇気と技術を駆使して立ち向かった。


 戦いは激しさを増し、雅樹は高入道の攻撃に翻弄されながらも、少林寺拳法の練磨された技術を駆使して反撃した。身体の柔軟性と力強さを生かした攻撃と防御のバランスは、彼の生き残りを賭けた戦いにおいて決定的な要素となった。


 激闘の末、雅樹は高入道に打ち勝ち、その姿を消し去った。しかし、その戦いは彼にとって決して忘れられることはなく、その後も妖怪との闘いに備えて身を鍛え続けた。

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