【短編】肚(はら)
Imbécile アンベシル
1arva
溜め息。街の喧騒と交ざり合い、複雑に溶けた感情が空に消えていく。道行く幸せそうな顔をした若者たちは、その味などまだ知るよしもない。
今日も、無気力だった。堅苦しいだけのスーツのネクタイをさらに緩め、結局外してポケットに突っ込む。何もできなかった、というより何もしなかった。
そこそこの勉強をして大学に入って、そこそこのデカい企業に入ったところまではよかった。それからは自分がいかに上辺だけの無能か知らしめられるだけの日々だった。
一日の大半をネットサーフィンで溶かし、仕事が回ってきたかと思えば立場の差にかこつけた荷物運びなんかの雑務。
それでいいやと開き直れる面の皮があったならどれだけよかったことか。ずるずると転がり落ちていった末に、今の地位がある。
来るかわからない老後とやらに備えた貯金。物欲もとうに失せた俺には、それくらいしか金の使い道がなかった。
オカルト創作記事を常日頃読み漁っておきながらビビりな性格が災いし、車もまともに運転できず。免許は意味をなさない紙切れとなって財布の隙間で窮屈そうにしている。
いっそ実家に帰ってしまおうか。いや、泣きつくほど両親は俺に優しくなかったし、俺をハリボテに変えたのはあの教育だ。
金のかかる趣味に興じれる連中が羨ましい。やれゴルフやらファッションブランドやら、始めようにも興味が湧かなきゃそれまで。
ただマウスホイールか指を動かし、誰かが心血を注いだ神憑りまでの文章を見ては人並みにゾッとする。それだけが俺の趣味だった。そうせざるを得なくなっていた。
ただ文章が並んでいるだけだから、遠目に見れば資格勉強の資料に見えなくもない。会社内でサボタージュとカモフラージュを両立した時間稼ぎにするには最適だったからだ。
そして、自炊もしていないので今日も今日とてコンビニ飯。行きつけの店舗に足を踏み入れようとした時、その側に設置されている灰皿に寄りかかる男に視線が吸い寄せられた。
もっとも、それは不快感由来のもの。煙草の煙を吸い込んではやたらめったら噎せ、がらがらと痰の絡んだ声で咳、吐瀉物か痰かわからない白い少量の液体をアスファルトへ吐き捨てている。
腹が出ているし、この距離でも見て取れるほど服装も雑。いかにも底辺って感じの。こういう差別的意識を持つのは良くないとわかってはいるが、荒んだ環境に居れば考えも歪むというもの。
誰だってあんなのは気持ち悪いと考える。スーツに袖を通してるだけ俺の方がマシ。そう考えながら、舌打ちを押し殺して自動ドアをくぐった。
いつもと同じ、甘辛い味付けの肉と炊いた米が盛られた弁当。インスタントの味噌汁、500mlペットボトルの烏龍茶。身体によくなかろうが、最低限なにか食ってる事実があれば生きられる。
それに、余分に食ったところであの男のようにブクブク肥るだけだ。栄養をつけてもそれを使い果たせるほど俺は忙しくない。間延びしたバイト店員の声を背に、キャッシュレス決済で手早く会計を済ませ退店する。
その瞬間、耳に飛び込んでくる、喉を激しく鳴らす不快な唸り声。あの野郎まだ居座ってやがった。煙草がさっき見た時より長い。二本目に火をつけてやがる。
お前なんて何処にいようが爪弾きなんだから、さっさと消えちまえ。視界の端で男を睨み付けつつ願うが早いか、男は取り出したスマホに一瞥くれると、まだ火のついた煙草を灰皿に投げ込み立ち去ろうとする。
「.....あ?」
思わず声が漏れた。一歩踏み出した時、ほんの少しあたりをキョロキョロ見回したと思えば、男は灰皿の陰になにかを落とした。
視線もしっかり観察してる。故意のポイ捨てだ。落下する赤い残像を見た。しかも落とす瞬間、男は満足げな微笑を浮かべていた。
そして、そそくさと、停めていた軽自動車に乗り込みエンジンを掛けた。後部座席の窓から、シート一面を埋め尽くす、口の縛られていないパンパンのビニール袋の山を見た。
一体何を買い込んだんだか。知ったこっちゃないが、俺の興味は奴が落としていった謎の品に惹き付けられていた。
コンビニ袋の持ち手を腕に通し、それらしくこめかみを掻きながら喫煙スペースへ近寄る。幸い他には誰もいない。
節制と健康だけは維持しようと禁煙してるってのに、旨そうにスパスパやってんじゃねえ。さながら一服しますよって面で裏を覗き込むと、そこに落ちていたのは一つの箱だった。
なにか高いチョコ菓子の入れ物だったのか。掌に収まるサイズの長方形をした深紅の箱は、布のようなものが表面に張られていた。
手に取ってみると、ビロードというやつか、滑らかな手触りが感じられる。軽く振ってみても音はしない。中身は空か。
恐る恐る蓋を開けてみれば、案の定。白く薄い木目が見えるだけ。しかしどういうことだ。退屈な日常に飽き飽きしていたのか、下らない箱に勘繰る思考が働き、ただのポイ捨てのように思えなくなってきた。
あの愛おしそうな表情は一体なんだったんだ。不要なゴミを放置するなら、なんの心も籠らない顔で構わないはず。
帰ってもやることもないし、一応隅々まで確認してみるか。そう思い、蓋を返し裏側を見ようとした、
「
蓋の裏に伸びていた右手の親指に、突如鋭い痛みが走った。邪魔になった空き箱を取り落とし痛みの源に意識を集中させると、気味悪く蠢動する吻を口から吐き出す七色の極彩をした芋虫のような生き物が、指にへばりついていた。
吻は血管のように枝分かれしていて、無数の針を刺されたかのごとき痛みを発し、既に親指の付け根あたりまで伸びている。大慌てで腕を振り回すも、しっかり食い込んでいるのか全く引き剥がせない。
唐突な苦痛に覚醒し、一気に回る頭。見たことがある、似たような生き物を、ネットの記事で。ヒモムシだとかいったか。体色は違えど気色の悪い口吻は全く同じだ。
必死に暴れ回るが、遠心力じゃどうにもならなかった。無我夢中で振るった手を店舗の壁に叩きつける。同時に、ぷちゅっ、という総毛立つ感触が伝わった。
再三確認する指。そこにはぶつけた青アザと擦り傷だけがあった。完全に噛みつかれていたはずだ。だがどこにも出血はないし、そもそも不思議なことに潰したはずの虫の死骸が全く見当たらない。
気づけば俺は固い地面に尻餅をつき、激しく息を切らし。さっきの男よりも怪訝な視線を欲しいままにする人間になっていた。落とした弁当やらをかき集めコンビニ袋へ雑に突っ込み、俺はその場から逃げ出した。
壁が薄い安アパートの一室へ駆け込み、袋をテーブルの上に放ってテレビのリモコンの電源ボタンを連打する。とにかく気晴らしになるものが欲しかった。あんな意味不明な体験をしては、平静を保ってなどいられない。
それでも、指にこびりついていたはずの痛みの残滓が消えるにつれて、呼吸も整い水を飲む余裕すら出てきた。
あれは幻覚の類いだ。そうでなきゃ説明がつかないだろ。気味悪い生き物、殺したとて見当たらない亡骸。日々に辟易した俺の精神が見せた幻なんだ。
それでも、吐き気を催す姿をしていたことに間違いはなかった。脈打ちながら指を伝い伸びてくる口吻。思い出すだけで食欲が失せた。
俺は買ってきた弁当に手をつけることなく、それを冷蔵庫に突っ込み風呂場に向かった。シャワーの冷水が湯に変わるのを待つことなく、脂汗にまみれ火照った身体に頭から浴びせる。
ようやく、文字通り冷静を取り戻す。目を閉じがしゃがしゃと髪を洗っていると、逃避の思考が膨れ上がり安心する。毎週のようにチビチビ使っていた有給休暇はもう残りわずかだ。熱でも出てくれりゃ欠勤の口実になりそうなもんだが、どうだかな。
──────────
昨日はよく眠れなかった。毎度の夜更かしから来る寝不足、仕事不足を誤魔化すために始めたネットサーフィンも捗らず、うつらうつらと睡魔が襲いかかる。
減退した食欲も据え置き。弁当は未だに冷蔵庫の奥で眠ったままだ。引っ張り出すような気も起きない。なのに空腹感がどこにもない。
頭から突っ伏しそうになっては、一際大きな音を出す右クリックの誤操作で目を覚ます。入社して一ヶ月以降はこんなこともなかった、それに昨日はいつもより早く床に就いたはず。
まあ、いいか。俺に気をかける人間なんているはずもないんだ。
「よう、ヤマグチ。」
「顔色悪いな...なんかあった?」
「...別に。夜更かしした。」
「いつもじゃんそれ...」
「あ、これ手伝ってくれないか?四階の倉庫まで運べってさ...一人じゃ往復きついんだよ。」
いた。同僚の
黒縁眼鏡に、頬や額に浮いた皮脂。二重になりかけの顎にびっしりとたくわえられた無精髭は何日剃ってないのやら。
これくらいなら眠気覚ましにはなるか。生返事で承諾し、何に使うかもわからないバインダーで一杯になった段ボール箱を一つ受け取る。
万年デスクに張り付きっぱなしの腰にずっしりと来るが、なんとか持ち上げられる重量だ。細かく呼吸をする永田と荷物を抱え、エレベーターに乗り込む。
「なあ、ヤマグチ...」
「上がったらさ、暇なら久々に飲みにでも行かないか?」
「珍しいな。お前から誘うことなんて今まであったっけ。」
「え、あったよ、何回か。」
「...そうか?まあいいや、暇だし行こうぜ。」
「おう。」
同期のよしみでなんとなく仲良くしているが、特にコイツを好いているわけではない。見た目は不潔だし、俺が言えた話じゃないが、俺より仕事もできない。
この誘いも「気が向いたから」なんだろう。適当に付き合って、しばらくは干渉しなくていいか。
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