●魚群の巨人

 ごぼ……ごぼ。ごぼぼ。


 気泡の音だ。まるで、水中で息を吐いたときみたいな。

 鳥居のほうを見たわたしを待っていたのは、またしても非現実的な光景だった。


 鳥居によって切り取られた、台形の空間。その内側がまるで窓のように、別の景色へとつながっている。本来その向こうに見えているはずの、夕下がりの市街地はどこにもない。

 揺らめく黒い液体。浮かんでは消える無数の泡沫あぶく。どこまでもくらい、そこは暗黒の海だった。


 ごぼぼぼっ。


 鳥居の中の深海で、何かが赤くきらめく。

 魚だ。

 魚がいる。金属光沢を帯びた、真っ赤な小魚の群れだ。暗さのせいで、ディティールまではよくわからないけど、とにかく魚だ。

 はじめはほんの四、五匹だったそれは、まるでこっちの視線に引き寄せられるように、みるみるその数を増していった。十匹……百匹……千匹。

 ぎらぎら光る赤い魚が、彼方の海を埋めつくす。


「ひっ……ひかり。これって……」


 と、ひかりのほうを見て、二度驚く。

 ひかりの目が光っていた。光る目で鳥居を見つめたまま、彫像のように固まっていた。

 深海生物の発光器を思わせる、淡い燐光りんこう。銀色をしたリング状の光が、瞳の虹彩こうさい縁取ふちどっているのだ。


 わたしは、その光を知っている。

 先月の事件の最終局面クライマックス

 合わせ鏡の中に口を開けた異界を、ひかりは同じ光る目で見つめていた。そして、その光にいざなわれるようにして、異界の底から、奇妙なものが現れたのだ。


 ごぼぼ。ごぼごぼごぼごぼ。


 魚の群れが形を変える。絶えず動き続けながらも、魚群は驚くほどはっきりした凹凸おうとつを形成しつつあった。その陰影が、ピクセルアートのように何かを形作かたちづくってゆく。

 鉤状に曲がった鼻ができる。えら・・の張った頬ができる。ギザギザの歯が覗く厚いくちびる。突き出した額。腫れぼったいまぶたの下に、ぽっかり空いた暗黒の目ができる。


 それは巨大な顔だった。


 深海に浮かぶ、モザイク模様の赤い巨人。

 気がつけば首から下も組み上がり、鳥居の窓から見切れている。


 ドット画アニメのような荒い輪郭を揺らがせながら、巨人が笑った。

 そのまま、ぐん、とこっち側に迫ってくる。

 こっち側に、出てこようとしている。


 やばい・・・


 危機感にお尻を叩かれて、ようやく体が動いた。


「ひかり、しっかりして! ひかり!!」


 ひかりの横にしゃがみこみ、肩を揺さぶるけれど、石のようにびくともしない。

 透きとおった目の縁に血の玉が盛り上がり、たらたらと流れ落ちてゆく。白い顔に、たちまち赤い筋が残った。


「ひかりぃ!!」


 ひかりは答えない。いや、答えられないのか。

 全身が小刻みに震えているだけで、それ以上の大きな動きにはならない。


 鳥居に目を戻す。水の膜が、こちらに向かって膨らんでいた。

 ありありと想像できる。あの膜が破れた瞬間、黒い海水と大量の赤い魚が雪崩なだれをうって押し寄せてきて、わたしとひかりを飲みこんでしまうだろう。そして……そして……!


 そのとき。

 とん、と乾いた音がして、わたしたちのすぐ目の前に、小さなものが突き立った。

 金剛鈴こんごうれい

 フォークのような三鈷杵さんこしょ部分を土に刺し、重力に逆らって上向きにぴんと伸びた・・・・・・・・・・鈴が、けたたましく鳴った。


 ――チリリリリリリリ!!


 ひかりの肩がびくん、と跳ねる。巨人の顔が、気圧されたように後退した――次の瞬間。


 鳥居の上を乗り越えて、誰かが稲荷社の敷地内へ飛びこんできた。パルクールみたいに軽やかに着地し、立ち上がる。


「――りんぴょうとうしゃかいじんれつざいぜん――」


 夕陽で金色に輝く髪。黒いTシャツにスニーカー。

 ズカズカこちらに歩みよってくるなり、右手でひかりの頭をわしづかみにすると、


「――ぁ!」


 と、鼓膜が破れるくらいにでかい声で叫んだ。


 瞬間、ひかりがくにゃりとくずおれた。

 同時に水の膜がはじけ、バケツ一杯ほどの潮くさい水が地面にぶちまけられる。

 ……でも、それだけだった。

 暗黒の海も、ピクセルアートの巨人も、影も形もなくなっていた。伸び放題の雑草だけが、露に濡れてキラキラ輝いている。

 同時にワッとセミの声が押し寄せてきた。車の行き交うエンジン音。ガラガラとアルミサッシを引く音。不自然な静寂に変わって、ごくふつうの生活音が戻ってくる。

 気づけばとっくに、カンカンカンの陰気な合唱も聞こえなくなっていた。


「ひゅう。いやー、参った参った。いきなりとんでもねーもんびかけるもんだから、さすがのあたしもちょい焦ったぜい」


 突然現れ、ひかりを気絶させたその人物――チサティーさんはくしゃくしゃと頭をかくと、地面にへたりこんだわたしたちを、無感動な目で見下ろした。

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