第一夜:二十三時四分発、普通、――行き。
第一幕 客人のロールケーキ
四月の新学期を迎えて、一週間ほど過ぎた頃のことだ。
日曜日の午後、祖母の久美子におやつだと呼ばれて居間に行けば、どこか難しそうな顔をした祖母がロールケーキを切っていた。見たことのない高級そうな洋菓子を前に、恐らく誰かからの貰い物なんだろうなと、ぼんやりと考える。祖母は洋菓子をあまり好まないゆえに、自分から進んでケーキ類を買うことをしない。
「午前中にお客様がいらしてね、お土産だって言って置いていったのよ」
既に用意されていた紅茶の前に胡坐をかいて座れば、そこに一切れのロールケーキが提供される。黄色い生地に、真っ白い生クリームがたっぷり入ったそれは、否が応でも美味しそうに見える。
十五センチはあろうそのロールケーキを、祖母は蓮夜と二人では食べきれないと踏んだのか、ちらりと部屋の隅を見た後、「ロクロウ、お前も食べなさい」と一声かけた。
蓮夜について居間に入り、壁に寄りかかるようにして立っていたロクロウが眉間に皺を寄せる。
「あ? なんで俺様が」
「え、嫌なの? ロクロウお前、甘い物嫌いじゃないだろ?」
「そういう意味じゃねぇよ」
ため息交じりに面倒臭そうに言われ、少しばかりムッとしてしまう。
「そういう意味じゃないなら、どういう意味なんだよ」
「お前さんも本当馬鹿だよなぁ……」
よく考えろよ、と言いながら、ロクロウが蓮夜の横に胡坐をかいて座った。それから祖母が切っているロールケーキを指さして言う。
「客が持ってきたロールケーキだぞ? ばあさんのところに来る奴なんか、大抵何かしら面倒を持ち込んでるって相場は決まってんだ」
とどのつまり賄賂だろと、ロクロウは言う。
「その客が何をお願いしてきたか知らねぇが、俺様は今回は干渉しねぇぞ」
「食べたら手伝わないといけなくなるから食べないってこと?」
「ああ、俺様にメリットなんかないからな」
「ロクロウお前なぁ……」
言いながら、思わずため息が出た。
昨年の大晦日にロクロウと再会し、年が明けてから蓮夜は改めてロクロウと契約を交わした。
七獄の年の夏――それこそ最初は、己の使命を全うするため仕方なく契約した関係だったが、いつしかお互いに切っても切り離せない縁が出来ていた。
蓮夜の宿命を肩代わりし、一度は地獄へ落ちたロクロウを呼び戻したのは、蓮夜が彼との日々で使った血の繋がりだったのだ。その繋がりと……夏越蓮夜という存在を生かそうとしてくれたロクロウを繋ぎ留めていたくて、あの冬、もう一度自らの意志で契約を行った。
最初と違い人間だった頃の記憶を取り戻したロクロウは、それこそ人当りから何から、少しは柔らかくなったのだが――
「霊の分際で生意気言ってんじゃないよ」
「うるせぇばあさんだなぁ」
……変わっていない部分もある。
「もう二人とも、喧嘩しないでよ」
二人の間に割って入るようにして言えば、ロクロウがまた面倒臭そうに鼻で息を吐いた。
「ばあちゃんも。その言い方だと、本当に何かあったってことだよね?」
何かお願いされたの?
そう問いかければ、祖母は一呼吸置いた後「やれやれ……」と眉間を揉むようにして続けた。
「人がね、消えて……帰ってこない電車があるんだとさ」
「人が消えて……帰ってこない?」
ミルクティーに砂糖を入れながらオウムのように繰り返せば、目の前で緑茶を啜りながら祖母が頷いた。
「うちにさっき来たのは、
「西叶叶……って言ったら、地下に駅が潜ってる所だったよね。決まった時間っていうのは?」
ロールケーキを頬張りながら言えば、祖母が近くに置いていた時刻表をテーブルの上に広げた。見れば、数あるダイヤグラムの内一つだけに赤のラインマーカーが引いてある。
「怪奇現象が起きているのは、この時間の一本だけらしいのよ」
――二十三時四分発、普通、広域公園前行き。
ラインマーカーが引かれている部分には、そう記されている。
「……平日だけしかないんだね。土日祝日は、二十三時四分に西叶叶駅を出発する電車はないみたいだし」
土日祝日のダイヤグラムには二十三時四分発の電車は記されていない。となると、事件は全て平日の夜間に起きているということになる。
「その通りだよ。事件は全て平日の夜に起きているそうだ」
言いながら、祖母はロールケーキをゆっくりと口に運ぶ。洋菓子特有のコクのある甘さが苦手なのか、ゆっくり咀嚼してから緑茶で流し込んだ。
「その怪異をどうにかしてもらえないかっていう、相談だったのさ」
祖母の眉間に寄った皺は解れない。
「その様子だと……難しそうなの? ばあちゃんでも」
「わからないねぇ……私はもう若くない。憑き物を落としたり、厄を除けたりする仕事はまだそれなりに達者に出来るけれど、こういう類の仕事は正直何とも言えないもんさね」
そういわれて、内心蓮夜は納得してしまう。
七獄の年を乗り切ったということもあって、近頃では蓮夜も積極的に持ち込まれた案件を請け負うようになっていた。
それこそロクロウと出会う以前の自分では考えられないことだが、今の蓮夜にはある程度の怪異ならどうにかすることが出来る。それくらいの力は制御できるようにはなってきていた。
おまけに、年齢的にも体的にも、蓮夜は祖母よりかなり若いのだ。
今までのことを考えても、ついつい祖母には楽をさせてあげたい……恩を返したいと思ってしまう自分がいた。
単純なのだろうなと思う。
「とどのつまり、だ。体力的に自信がねぇから、蓮夜に丸投げしようってんだろ?」
つまらなさそうに頬杖を付いたロクロウが言う。
「確かにこいつは俺様と契約して以降、霊能力者としてそれなりに形にはなって来てるが……ばあさん、買い被りは足元すくう事になるぜ」
どこか挑発するようにロクロウが口角を上げれば、目の前で緑茶を啜っていた祖母が静かに湯呑をテーブルの上に戻した。
てっきり怒声の一つでも飛ぶかと思えば、祖母の声は予想と反して酷く静かだった。
「ロクロウ、私はね、信頼してんのさ」
「ふん、親バカならぬ、孫バカってか」
「そうね。だけど私が信頼しているのは何も蓮夜だけじゃない……ロクロウ、お前のことも信頼しているのよ」
「――は?」
その言葉は予想外だったのか、ロクロウが驚いたように目を丸くした。意味がわからないと顔に書いてあるかのようだ。表情が困惑に満ちる。
(……あ、そっか。ロクロウは、知らないんだ)
二人の間で黙ってミルクティーを飲みながら、蓮夜は再びあの夏の光景を思い出していた。
ロクロウが蓮夜の代わりに全てを請け負い、地獄へ消えたあの日……何もかも終えて家に帰り、憔悴しきった蓮夜が事の成り行きを祖母に説明すれば、その祖母がぽつりと言った。
――ロクロウは……命の恩人ね。
悪霊なんかじゃなった。
あの時、噛みしめるような……慈しむような、何とも言えない表情でそう言った祖母を、蓮夜はいまだに忘れられない。
祖母は最初こそ、ロクロウを悪霊だと嫌厭し、蓮夜に万が一のことがあった時はと目を光らせていた。
だがその疑心はロクロウの行動により、いつの間にか解けて形を変えていたのだ。
(ばあちゃんも、素直じゃないんだよなぁ)
地獄へ行ったロクロウがせめて苦しまないようにと、毎日のようにお堂で祈りを捧げていたことを――ロクロウは知らないだろう。
(ばあちゃんは、もうとっくにお前の事も大切に思ってるんだぞ)
心の中でロクロウに言いながら、ふとカップから視線を上げる。
眉間に皺を寄せたロクロウと目が合えば、やがてどこか居心地が悪そうに口を開いた。
「……そういう甘ぇ所、そっくりだな。お前さん達」
血筋か? と言いながら首を鳴らす。
それから徐にロールケーキに手を伸ばせば、それまで薄かった存在が濃くなり、テーブルに手の影が浮かんだ。
実体化したロクロウの手が、真っ白いロールケーキを摘まみ上げる。
「まぁ、俺様がどうこう言った所で、お人よしの蓮夜は首突っ込んじまうんだ。契約者であるお前さんになんかあれば、俺様にも少なからず影響が出る」
言って、ロールケーキに一口かぶりついた。
「仕方ねぇから乗ってやるよ」
「ロクロウ……!」
「蓮夜、勘違いすんなよ。俺様は甘味のように甘ぇお前さんのおもりをしてやるって言ってんだ。それ以外深い意味はねぇよ」
再度ロールケーキにかぶりつくロクロウに、お茶でも注いでやろうと急須に手を伸ばせば、それを見越したかのように祖母が先に急須に手を掛けた。
慣れた手つきで湯呑に緑茶を注ぎ、スッとロクロウの前に差し出す。
「……私の言葉にも、深い意味はないさね」
蓮夜よりも長くこの世を見て来た瞳が、ロクロウを映した。
「何はともあれ、蓮夜を頼みますよ、ロクロウ」
真剣な口調で言う祖母に、ロクロウは何も言わなかった。
その代わり、ロールケーキを咀嚼し終えた後、何の躊躇いもなく湯呑に手を伸ばした。
こちらも素直じゃないな、と蓮夜は小さく笑った。
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