霊々、夜。-再宵-
城之内 綾人
序幕 桜、咲く。桜、散る。
ひんやりとした夜の空気に、時折花の香りが混ざる。
誰しもが眠りにつく丑三つ時――彼は、街灯の光に背を向けて立っていた。
……だが、不思議なことに彼の体は光は透かし、足元に影は伸びない。ただそこにじっと立ち、目をつぶって何かに耳を澄ませる。黒いスーツに黒いネクタイ、黒髪のその姿は、まるで彼自身が夜闇であるかと錯覚させるように溶け込んでいる。
車の音も、人の話し声すら聞こえない、無音の闇。
ざぁっと風が吹いて、街灯のそばにある桜の木が一斉に鳴いた。
「…………――」
スッと目を開いた男――ロクロウが走り出す。
左手に日本刀を携え、誰もいない大通りを横切り、高架橋の上に一気に飛び上がる。橋縁を蹴り、反対側に飛び降りながら手に持った日本刀を一気に鞘から抜いた。
月光を透かしていた体が、その光を背後に受けるように実体化する――。
瞬間。
何匹もの黒く大きな妖がけたたましい叫び声と共に地面から溢れ出て、飛び降りてくるロクロウを食らわんかと大きな口を開けた。
だがロクロウはそれを待ち望んでいたかのように、ニッと口角を上げて刃を下に向け、何の躊躇いもなく妖のもとへと落下する。構えていた刃で最初の一匹の目を突き刺し、そのまま押し込んで妖もろとも地面に突き刺し、頭を潰す。血とも取れそうな勢いで瘴気が噴出し、ロクロウの視界を塞いだ。
見えない位置から別の個体が襲い掛かるも、それを地面から抜き取った刀で薙ぐ。胴と頭を二つに裂かれたそれが、ギャアと声をあげて地面に崩れ落ちると同時に、反対から一回り大きな別個体がロクロウに突進してきた。
サッと身を翻して攻撃をかわし、そのまま後ろに宙返りをして飛び下がる。妖は執拗にロクロウを追い回し、鋭い鎌のような手を振り回した。
ガチン、と鈍い音が響いて、ロクロウの刀がその手を受け止める。交わった刃越しにまたニッと口角を上げれば、目の前の妖がぶるぶると震えて奇声を上げた。
「――鈍らが、出直しな」
眼光が妖を射抜いた瞬間、押し切った刃が妖の首を両断した。断末魔と共に地面に転がった首が、やがて砂のようにぼろぼろに崩れ、桜を散らす夜風に攫われていく。
「……雑魚が」
刃をスーツの腕部分で挟むようにして拭っていると、ふと風に人の匂いが混ざりこんだ。気だるそうに振り向けば、肩で息をした青年がロクロウのそばに走り寄ってくる。
「……ロクロウ! 倒したのか?」
「おう、蓮夜。遅かったな」
ロクロウの言葉に、青年――蓮夜が少しばかりムッとした表情をした。
「遅かったな、じゃないよ! お前は上をひょいひょいだけど、僕は地面を走るんだからな! 無理言うなよ」
それに僕の方が出発地点が遠かったし、と蓮夜が次々と不満を漏らす。三月下旬の夜とはいえ、走ればもうそれなりに暑い。蓮夜のシャツにはじっとりと汗が滲んでいた。
「あー……はいはい、お前さんの言いたいことはよーくわかった。まぁ、とりあえず無差別人齧り妖怪ズは俺様が倒してやったんだから、それでいいじゃねぇか」
「なんなんだよその変な名前……」
ため息を吐く蓮夜を尻目に、ロクロウがつまらなさそうに空を見上げる。夜空を覆い隠す様に枝を伸ばした桜の木は、どこも今まさに満開になっていた。
風が吹く度、視界にその花びらが幾重にも舞い散る。
「もうすぐ四月かぁ……」横に並んだ蓮夜が呟く。
「四月だと、なんかあんのか」
何気なしに言えば、蓮夜がふとロクロウを見上げた。
「あるよ、新学期だぞ。クラス替えとかさ」
二年生になるんだよ、僕。そういった言葉に、ついロクロウは目を見開いた。
「……そうか、お前さん。進級すんのか」
少し前のことを、ロクロウは思い出した。十六歳までしか生きられない運命を背負っていたこの青年は、己の宿命を乗り越えてその先の人生を手に入れた。
自己犠牲も甚だしい。常に何かを諦め、自信を無くし、後ろ向きだったあの夏越蓮夜が……今こうしてこの場に立ち、来月には次の学年へと進級するという。
運命が変わるとは、こういう事かもしれない。
「……まぁ、それなりに楽しめばいいんじゃねぇか?」
そう言って見下ろせば、蓮夜はどこか驚いた顔をしていた。何なんだよその顔は、と思いつつ、手を伸ばして頬をつねってやる。痛い痛いと言いながらジタバタした蓮夜の髪を、どこからともなく吹いてきた夜風がまた、少し揺らした。
ロクロウは手を離すと、その実体化をさりげなく解除する。
影が一人分になり、月の光がロクロウの背中を通過した。
風に吹かれていた髪が、揺れなくなる。
「――…………」
虫の声も、車の音も聞こえない。
ざぁっと風の音だけが通り過ぎる世界に、降って湧くのは――、
「ロクロウ?」
名を呼ばれて視線を下げる。
「お前さんも、飽きねぇよなぁ……」
静寂の中で、気が付けばそばにいるのが当たり前になった彼を見て、ロクロウはふっと目を細めた。
桜は、夜でもその身を風に散らす。
それはきっと、人とて同じだ。
だからこそ、血が結んだこの縁だけは、少なくとも守ってやるつもりでいるのだ。
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