甚だ遺憾ながら、ぼくたちは彼の地へ飛ばされることに相成りました
鬼居かます
第1話 「序章」 そしてぼくたちは彼の地へと飛ばされる。
夏の日差しは強い。
それは影の濃さからでもわかる。
窓の外の校舎を囲う樹木にたかるたくさんのセミたちの声がここにまで聞こえてくる。
人気のない廊下に見覚えのある女の子の後ろ姿が見えた。
ぼくと同じ五年二組の
場所は中央棟。
彼女は職員室の廊下に設置してある電子掲示板を見ていたのだ。
「なに見てるの?」
ぼく、
今は休み時間なのにここには他に誰もいない。
当たり前のことだ。好きで職員室に来る生徒なんかいるはずがない。
「うん……。夏期研修。
行かないと私たち単位あぶないかもしれないから」
「どうして? テスト良かったじゃない?」
不思議に思った。
ほのかちゃんはクラスでも一、二を争う優等生だ。
さっき返ってきた国語のテストは九十八点で二位だったはずだから、間違いなく合格ラインは突破してるし、それどころか他教科で万が一落としたときへの十分な貯金となるからだ。
ちなみにぼくは七十点だった。
これでも合格ラインを十点ほど超えている。
「……私、彩音ちゃんとパートナーだから巻き添えくらっちゃうのよね」
ほのかちゃんは口を押さえて笑う。
あ、そうか。ぼくは納得した。
今、名前が出た
「巻き添えか……。ぼくの場合もパートナーがカズキだからなあ」
ぼくは遠い目になる。
ちなみに彼の国語は四十点。
間違いなくラインを切っているのだけど、体育と図工がずば抜けていいのでその分は相殺できているはずだ。
だが……。待て。
こころの中に暗い影がよぎった。
ぼくは考え顔になる。
「マナツくん、気がついた?」
「うん……。やばいかも」
「そうなの。
私の計算ではあと一回、あのふたりがもめごとを起こしたら夏休み前までの必須単位を落としそうなの」
「……それはまずいね」
「そうなの。だから不本意だけど下見をしてたってこと」
「うーん。
できれば研修は避けたいけど……」
「あのふたりよ?
万が一は考えていた方が賢明でしょ?」
「そだね」
ため息ひとつ。
そしてぼくもほのかちゃんに見習ってモニターを見た。
掲示板のモニターにはびっしりと夏期研修の一覧表が並んでいた。
家から通える近所のものもあるけど、ほとんどは宿泊が必要な遠くのものばかりで特急や飛行機でなければ行かれない研修が目立つ。
でも、そういう研修は旅行気分も味わえるので、それなりに人気も高くてほとんどは締め切られていた。
つまり残っているのは人気のないものばかりなのだ。
その中のひとつがぼくの目を引いた。
人気ある遠距離ものにも関わらず、募集人員に余裕があり過ぎだったのだ。
「この『山村のふるさと研修』って人気ないね」
ぼくは指さした。
『 体験学習夏期研修物件 第二十七号
『山村のふるさと研修』
会場:N県N郡双主村大字双主字水神四番地
期間:二○××年七月二十八日から六泊七日。
作業内容:二十世紀のままの里にて農作業及び宿泊先での家事雑務一般。休暇時間やや多し。
募集人数:一○名(最低実施人数:四名)
注:他の研修同様、途中棄権の場合は単位得点は一切加算されない。
昨年度実績:研修満了者○名(途中棄権六名)
現在の応募人数:○名 』
それは数ある不人気研修の中でもダントツの不人気で、まったく応募者がいないものだった。
「ああそれは駄目。やめた方がいいわ」
ほのかちゃんが首を振る。
「毎年欠員が出るんだって。良くない噂話があるのよね」
「噂? どんな?」
ぼくは興味をそそられた。
「出る。
……らしいの」
ほのかちゃんがボソッと言う。
背筋がぞぞっと来た。
その声に良からぬ雰囲気がありありとこもっていたからだ。
「……な、なにが?」
念のため訊いてみた。
声が少し枯れてしまった。
「……お、お化け」
……やっぱり。
ごくり……。ぼくはつばを飲む。
「今まで研修に行った先輩たちがみんな途中でリタイアしちゃったって噂よ」
「リタイア?」
ほのかちゃんは深くうなずいた。
ぼくたちは単位を取るために研修に行くのだ。取れなければ意味はない。
「そうなの。だから誰も行きたがらないの」
ほのかちゃんはつづけた。
「……それだけじゃないの。
この研修に行った先輩たちは決まってこの研修になにがあったか口にしないらしいの」
「口にしない? どうして?」
「……わからないの。
しかもそのあとパートナーを解消してしまったらしいの」
にわかに信じられない話だ。
なにがあっても助け合うのがパートナーだからだ。
だが、それを話すほのかちゃんの顔には真実があった。
「……なにがあったのかな?」
「一切は謎なの。真相は闇の中。
ただ想像するに……」
「想像するに?」
「よっぽど怖い目にあってしまったか、それとも互いのパートナーを信用できなくなった、か、ね」
「……あるいはふたつの条件が重なったからかもしれないね」
ぼくは考え考え言う。
「そうね」
ほのかちゃんは真っ直ぐにぼくを見ている。
「……だからそれは駄目なの」
「うん」
ぼくは力強くうなずいた。
「他にはなにがあるの?」
ぐるりとモニターを見た。
「残ってるのだと『絶海の孤島での漁業研修』ってのがおすすめかも」
ぼくは、ほのかちゃんが指さすモニターを見た。
人口はわずか三百人の小さな島だけど連絡船がちゃんと運航されていて、真っ白な砂浜があって温泉がわき出るホテルなんかもあるらしい。
おまけにテニスコートやサイクリングコースまで完備している。
「へえ、これってまるでリゾートじゃない」
ぼくが感心して言うと、ほのかちゃんはうなずく。
「そうなの。
ちょっと遠いから応募者が少ないみたいだけで研修としてはいい条件だと思うわ。
それにここなら旅行気分よね」
確かにここなら悪くない。
『山村のふるさと研修』と比べたら月とすっぽんだ。
「もし研修になってもここなら悪くはないね」
「そうなの。ここなら、ま、別にいいか、って気になるわね」
「早いとこ見つけてカズキに相談しなきゃ」
「うん。
私も彩音ちゃんに万が一の研修先を探してきてって言われてるの」
ぼくたちはしばらく無言になった。
想像していたのだ。
「あくまでの話だけど」
ぼくは真剣に切り出した。
「ええ」
「……研修場所、重なんなきゃいいね。お互い」
「……そうね。同じとこは絶対に避けたいわね」
「うん……。そこで大ゲンカになって問題になって、それが原因で棄権させられたら」
「そう……。最悪ね」
ぼくとほのかちゃんは妙な意気投合をした。
だが「あくまでも」と言うのは希望的観測であり、ぼくには嫌な予感がしっかりあって、それは残念ながらも当たってしまった。
まもなく休み時間が終わる頃だった。
廊下の角に差しかかったとき教室の入り口に人だかりができているのが見えた。
みんなわいわいしている。
なんだか興奮するような楽しい見せ物が始まっているように見えた。
「どうしたんだろう?」
陽気に話しかけたぼくだが、ほのかちゃんの真剣な顔を見て足を止めた。
「私……。なんだか悪い予感がする」
後ろから来た何人かがぼくたちを追い越した。
彼らの会話が聞こえてくる。
「なにが始まったんだ?」
「あの高飛車お嬢さまの
「ひえー、そんな剛胆なヤツがいるのか?」
「いるんだよ。あの
「ああ、ヤツならな。さもありなん」
ぼくとほのかちゃんは互いにうなずいた。
「マナツくん、どうしよう?」
「と、とにかく止めよう」
まだ間に合うかもしれない。
ぼくたちの学校ではケンカは御法度だった。
ばれれば進級に差し支えるのだ。
だけどケンカがない世界なんてあり得ない。
そして幸いにもクラスにはご注進をする野暮なやつなんて誰もいない。
要は見つからなければいいのだ。
先生が来る前に止めてしまえば問題はない。
「すまん通してくれ」
ぼくは幾重にも並ぶ人たちをかき分けかき分け前へと進もうとするがなかなかたどり着けない。
そして……。彩音ちゃんの声が聞こえてきた。
「ちょっとどういう了見かしら?
私が私のために開けたドアなのに、なんでよりによってあなたが先に通ろうとするの?」
弱冠十一歳ながらすでに色香漂う抜群のプロポーションを持つのが彩音ちゃんだ。
すらりとした容姿はすでに完成されていて背後からオーラがかもしだされていると言っても過言ではない。
「お前がもたもたしてるからだろ?
俺はてっきりわざわざ開けてくれたんだと思ったぜ」
五分刈り頭のカズキが胸を張る。
身長は五年生にして、すでに一八○センチ近い異常に大柄なやつだ。
もはや学年で知らない者はいない名物行事だった。
すでに他クラスからもわらわらとギャラリーたちが集まっていた。
いや……、今日は上級生たちの姿も混じっている。名札と上履きの色でそれはわかる。
「もたもたしてるって? 私はあわてるのが嫌なの。
あなたみたいにすっ飛んで走らないだけ」
「こっちは急いでるんだ。緊急事態なんだよ」
ぼくはようやく人垣の先頭に出た。
気がつけばほのかちゃんが隣にいた。
まずいな……。
ぼくはこころの中で舌打ちした。
「マナツくん、止めないの?」
「うん。これだけのギャラリーの前だから、ふたりともすっかり興奮している」
「そうね。無理に止めると逆効果ね」
ぼくはうなずいた。
彩音ちゃんの声はつづく。
「急ぐのはあなただけの勝手ね。
でもお願いだから、あなたの個人的都合に他人を巻き込まないで。
それに廊下は走らない決まりになっているはずだったわ……」
彩音ちゃんはずばりと指さした。
「残念だったな。ここはまだ廊下じゃなくて教室だ」
どっと笑いが広がる。
肩をすくめてアピールするカズキの決めのポーズだ。
「同じことね。変な理屈並べないで」
「まあ、いい。でも俺はとにかく急いでんだ。悪いがどいてくれ」
カズキが軽く彩音ちゃんの肩を押す。
だがその腕を彩音ちゃんが掴む。
「じゃあ私が通ったあと、ゆっくり廊下に出るって約束してくださる?
紳士じゃないあなたには無理な注文かしら?」
カズキがじりじりし始めた。
「おい、お前。間に合わなかったら、どうするつもりなんだ?
お前が責任取ってくれるのか?」
「なにかしら? 責任って?」
「俺が漏らしたらお前下着洗ってくれるのか、ってことだっ!!」
強烈な一撃だった!
彩音ちゃんの顔は一瞬で真っ赤になり、そして次は怒りで真っ青になる。まるで信号機だ。
「……バカ! 変態! 不潔! 信じられない」
ギャラリーたちはすでに腹を抱えて笑っていた。
「洗濯機ってのはなしだぜ。
ちゃんと石けんつけて手でごしごしやさしく洗ってくれ。俺の下着はデリケートなんだ」
カズキは人差し指を立ててチッチッチとその指を振る。
「どうしてこの私があなたの下着を洗う必要があるのかしら?
漏らすのはあなたご自身でしょ?」
ふたりを煽るヤジが飛び交う。
「まだ漏らしてねえぞ。それに洗濯は本来女の仕事だ」
彩音ちゃんは鼻で笑った。
「ふん。
この時代になってなに言ってんの? 言ってて自分で恥ずかしくないのかしら?」
「まったく恥ずかしくないね。
こんな時代になってもパンツを洗えない男は恥ずかしくないけど、パンツもまともに洗えない女は恥ずかしいぜ」
「あら、そうかしら?
私がちゃんと洗えることをみなさんに証明して見せるから、今ここで漏らしてくださらない?」
「な、なんだと!」
「なによ! やる気?」
ふたりは同時に手を振り上げた。まるで鏡だ。
沈黙が辺りを支配した。
どちらが先に手を出すか……。ギャラリーたちは固唾をのんで見守っていた。
今だ。
ぼくは飛び出した。
「そこまでだカズキ」
ぼくは大きく振り上げているカズキの右腕をつかむ。
「彩音ちゃん、よしなさいよ」
ほのかちゃんも彩音ちゃんが振り上げた教科書を押さえる。
「マナツ止めるな!
今日こそはこの生意気女に制裁を加えるんだ!」
「止めないで、ほのか。
今日こそはこの時代錯誤男を張り飛ばすんだから」
「カズキ、トイレ行かないの? ホントに漏らすよ」
馬鹿力のカズキを押さえるのは一苦労だ。
ぼくは腕がしびれてきた。
「ああ! そうだった! やべえ行ってくる!」
カズキが人垣をかき分けかき分け廊下に飛び出した。
「あー! 待て! 逃げる気っ!?」
彩音ちゃんも続いて飛びだそうとする。
「やめなさいよ。
もうチャイムが鳴るわ。先生来るわよ」
そこで計算外のことが起きた。
担任の先生が来るにはまだ時間が残っているはずなのだが、このいざこざが予定になかった臨時巡回の先生に見つかってしまったのだ。
授業開始と同時にぼくと彩音ちゃんとほのかちゃんは廊下に立たされていた。
そして遅れたカズキもばつが悪そうにその列に加わった。
「……マナツ。ごめん。お前にまで責任取らせちまって」
「あなたが原因なのよ」
彩音ちゃんがカズキをにらむ。
「またケンカするの?
ちょっとは彩音ちゃんも反省して」
ほのかちゃんが遠い目でつぶやいた。
「……そうね。ごめんなさい」
窓の外にはプールが見えた。
はしゃぐ声がここまで聞こえてくる。跳ね上がる水しぶき。青い空。白い雲……。
「このままじゃ単位落とすよ」
ぼくの言葉に全員がうなずいた。
夏期研修は絶対に落とせない。
そのとき決意した。
ぼくたちは
桜佐久学園は小学部から大学部まである一貫校だから一年生から十六年生までが通う巨大校である。
入学さえしてしまえば一般の受験生ほど苦労しなくても高校、大学と進学できるので親たちの評判はいい。
だけど通学するぼくたちは世間が見るほど楽じゃない。
この学校の特色として進級を左右する単位制度と責任を分かち合うパートナー制度があるからだ。
単位制度は一般の大学で行われているものと同じだ。
単位を落としてもさすがに義務教育である九年生までは留年させられる生徒はいない。
だけど学年が上がっても去年と同じ授業を受けさせられる。
しかも上がった学年の授業も同時に受けなくちゃ駄目なのだから授業数はその分だけ増える仕組みだ。
そして九年生までに単位を取れなければ高等部には進学はできないことになっている。
単位の取得方法は当たり前だが学力テストの得点だ。
だからぼくたちは例え嫌でもそれなりに努力をする習慣ができている。
そしてもうひとつのパートナー制度とは学年、学級、班、と言った区割りの中の最小単位で通常ふたりで構成される。
ぼくの場合はカズキ、ほのかちゃんの場合は彩音ちゃんがそれだ。
学級研修や宿題、さまざまな当番を共同で行う相棒のことで模範的な行動をしたときなどはパートナー単位の連座制で表彰される。
だが、いいことばかりじゃない。
もめごとなどの各種トラブルもすべて連座制なので、今回のように相棒が問題を起こせば否応なしに罰せられてしまうのだ。
だから成績が良くても安心とは言えない。
テストが良くても単位を落とすこともあるのだ。
でも、逃げ道もちゃんと用意されていた。
それは体験研修制度だ。
体験研修制度とは泊まりがけでいろんな地域での生活や仕事をするもので、単位取得がボーダーラインになっている生徒に対する一種の救済策だった。
そして明日から始まる夏休みにもぼくたちみたいな生徒のために夏期研修が準備されていた。
――放課後。
「夏期研修?
悪い、すっかりさっぱりきれいに忘れてたよ」
ようやく見つけたカズキはプールで泳いでいた。
のんきなものだ。
肩から上だけを水から出してプールサイドのぼくを見上げている。
真っ青な空には大きな入道雲があちこちにもくもくと浮かんでいる。
ぼくの気持ちとは別に空だけは気持ちのいい夏日だ。
「期限今日までなんだ。
早いとこ決めて先生に提出しなきゃ」
「めんどくせえな。
とぼけてさぼっちまおうか?」
「駄目だよ。さぼらせない」
泳ぎ去ろうとしたカズキの腕をぼくは強く掴んだ。
「いつになくはっきり言うな、お前」
「ああ、はっきりと言わせてもらう。
だって単位落としたら来年の夏休みに二回研修を終わらせなきゃ中学に行かせてくれないよ。
カズキは来年後輩といっしょになって研修に行きたい?」
「う……」
カズキはうろたえた。
そして観念して水から上がった。
白く乾いたプールサイドにカズキからしたたり落ちた水が黒い染みを作る。
「でしょ?」
「……わかったわかった。
で、どんな研修が残ってるんだ?」
ぼくはタオルを放り投げる。
受け取ったカズキはタオルを肩にかける。
そしてぼくたちは更衣室へと向かう。
「もうほとんど残ってないよ。
残ってるのは絶海の孤島の漁業研修と山村のふるさと研修」
「その絶海の孤島っていいな。なにするんだ?」
「うん。漁師さんの船に乗せてもらって漁の手伝いをするんだ」
「いいね。
うまいサカナが食えそうだし海で泳ぐこともできるもんな」
「うん。ぼくもそう思う」
「で、もうひとつの山村ってのは?」
「……できれば避けたい」
ぼくは歩みを止めた。
二、三歩先に歩いていたカズキも足を止めた。
「なぜだ?」
ぼくの表情を見たカズキは怪訝そうに尋ねる。
「うん……。
いわく付きらしいんだ。
お化けが出るって噂があるんだ」
「お化け?
夏向きとは言えるけど、わざわざ選択するほど魅力はないな」
カズキは両肩をすくませた。
「うん。
それにそこに以前行った先輩たちはみんな怖がってリタイアしちゃったらしいんだ」
「リタイア? じゃ単位は?」
「取れないよ。
だからたぶんぼくたち五年生と今年いっしょに研修する先輩たちもいるはずだ」
カズキは首を振る。
「……来年の俺たちはそれにはなりたくないな」
「でしょ? だから急ごう」
裸のままでの校舎の立ち入りは堅く禁じられていた。
だからぼくはTシャツを放り投げた。
受け取ったカズキは歩きながら首と両腕を通す。そして急ぎ足で掲示板に向かったのだった。
「漁業研修、お、まだ間に合うぞ」
モニターを見るとまだ締め切られていなかった。
「ぎりぎりセーフだね。募集人員はあとふたりだ」
ぼくたちは安堵のため息をつく。
「じゃ、さっそく……」
ぼくたちは職員室に入ろうとした。
そのときだった。
「駄目よ!」
背後からいきなりよく通る澄んだ声が響いた。
振り返ると彩音ちゃんとほのかちゃんが立っていた。
彩音ちゃんは真っ白な肢体がまぶしいテニスウェアだった。
そして手にしたラケットのガットをなんども叩いている。
その姿はまるでぼくたちを威嚇しているようにも見えた。
「な、なんでだよ!」
「漁業研修は私たちが行くの」
そう言って彩音ちゃんはぼくとカズキの間をすり抜けて職員室に入ろうとした。
だが、それをカズキがさえぎった。
「ふざけんな! そこには俺たちが行く。
それにお前たち女が行ったって無理だ。漁船は力仕事なんだぞ」
「あら、女子生徒の場合は網の手入れとかサカナや海草を干したりする仕事があるのよ」
「駄目だ。海が俺たちを呼んでいるんだ。荒波にもまれて泳ぐんだ」
水着姿のカズキが言う。
「駄目よ。
そこはテニスコート完備なのよ。それに真っ白なビーチが私たちを呼んでるの」
彩音ちゃんも負けてない。
「駄目だ。
フトモモ全開で俺たちを誘惑しようったってそうはいかない」
「なによ。
あなたなんかすね毛全開じゃない。露出狂じゃないんだから」
ほのかちゃんを見ると困り顔だ。
きっとぼくもそうなのだろう。
「マナツくんたち、まだ決めてなかったの?」
「うん。カズキを探してたんだ」
「私もそう。彩音ちゃんすっかり忘れてテニスしてたの」
ぼくたちはため息をついた。
「じゃんけんで決めればいいのに」
「そうね。
それだったらお互いうらみっこなしだしフェアよね?」
だが、にらみ合うふたりにはぼくたちの言葉はまったく聞こえていないようだった。
互いに一歩も引かない構えだ。
そのとき視界の隅に隣のクラスのやつがふたり歩いてくるのが見えた。
彼らが手を振ったのでぼくも返事を返す。
そしてぼくの脇をすり抜けたふたりは職員室へと姿を消した。
「ははあ、わかった。
……お前ふるさと研修で単位を落とすのが怖いんだろ?」
カズキが意地悪そうに笑う。
「なによ!
あなただって噂が怖くて尻込みしてるんでしょ?」
彩音ちゃんが負けじと応酬する。
「こ、怖い? 俺が? 怖いのはお前だろ!」
「わ、私は怖くなんかないわ」
「じゃ、山村に行けばいいだろ!
そしてリタイアして来年二回研修に行けよ」
「そっちこそふるさと研修に行きなさいよ。
そして怖くて逃げ帰って笑い者になればいいのよ」
ほのかちゃんがぼくの肩をつついた。
そしてモニターを指さす。
……なんてことだ。
ランプが明滅していた。
それは満員御礼を意味していた。
「あのさー。もう争っても仕方ないんじゃない」
ぼくはしぶしぶ発言した。
とたんにカズキと彩音ちゃんがこちらを見る。
「なんだって?」
「どういう意味よ?」
ほのかちゃんが両肩を落として言う。
「もう『山村のふるさと研修』しか残ってないわよ」
ぼくたちがもめている隙にいつの間にか漁業研修は締め切られていた。
さっきのふたり連れにまんまとさらわれてしまったのだ。
漁業研修だけにまさに漁夫の利だ。
茫然自失とはこういうことを言うんだろう。
険しい顔をしていたふたりの顔が見る見る惚けた顔へと変化した。
それからカズキと彩音ちゃんが先頭になって研修担当の先生になんとか他の研修に回してもらえないかとねばったが後の祭りだった。
悪い噂が絶えない研修だとは先生も見聞きしていたが、実際問題として事件が起こった訳ではないので公式見解としては問題なしとのことで申請は却下されたのだ。
「仕方ないわね」
ほのかちゃんの言葉にぼくはうなずいた。
もしぼくとほのかちゃんに共通する考え方を表すとしたらそれは諦観だと思う。
世の中には規模の大小こそあれ振り回す側と振り回される側しかいないもので、ぼくとほのかちゃんがいつも振り回される側だということだ。
だからこういう展開になることにどこか慣れていた。
だけどこのときばかりは振り回す側であるカズキも彩音ちゃんもがっくりと肩を落としていた。
「ケンカしないで、と、までは望みません。
でもリタイアだけは勘弁して欲しいの」
ほのかちゃんが諭すように言う。
「善処するわ。……自信ないけど」
「努力するよ。……わかんないけど」
明日から始まる夏休みを前にみんなが笑顔で帰宅する中、ぼくたちは長い影を引いてとぼとぼ歩いている。
「行ってみなきゃわかんないよ。
お化けが出るってのも嘘かもしれないし……それにカズキは山育ちなんでしょ?
田舎の方がこっちよりも気が楽だっていつも言ってんじゃないか」
「ああ、そうだな。そう考えれば確かにそうだ」
カズキはつぶやく。
「そうよ。
彩音ちゃんだってたまには高原の避暑地でのんびり過ごしたいって言ってたじゃない」
「……高原というにはちょっと語弊があるわね。
でもそう前向きに考えることにしましょう」
ぼくたちは少し笑った。
西の空に黒い雲がかかった。一雨来そうだった。
……こうしてぼくたちの研修は山村に行くことになったのだった。
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