第八話『憑りついた家-Haunt,sweet home-』

 鬱蒼うっそうとした、霧のかかった雑木林ぞうきばやしの中を歩く。一歩一歩歩く毎にジャブジャブと水音が立ち、重くなった足を通して体力を奪われる感覚がする。

(逃げなくては……)

 おれは胃の底から湧き上がる感情を杖に、雑木林の中を走っていた。焦燥感しょうそうかんと言うべきか、それとも得体の知れない恐怖か、それとも義務感に対する嫌悪かも知れない。

 水分を多大に含んだ草を踏んでジャブジャブと音を立てて歩く感触は、まるで水中を歩いているかの様だ。はっきり言って体力の消耗の面から言っても、泳ぐのと大差が無い気がする。

 

 事の経緯はこうだ。俺はバイト先の店長の使いとして、この雑木林の中にあるらしい家に届け物をする事になっていた。

 雑木林の中にある家と聞き、俺は道無き道の先にポツンと小さなバンガローが建っているのを想像した。おとぎ話に登場する、木こりや狩人が森の中で完結する生活をする様な山小屋と言ってもいい。

 店長から手渡された地図は簡素な物で、店長は行けば分かると、いい加減に聞こえる言葉で説明になってない説明をした。

 俺は店長の事をファジーで遊びのある人間だと思っているが、いい加減な人間だと思った事は無い。つまり、店長の発言は説明を放棄した物ではなく、的を射た物な筈だ。

「ダメだ、霧で一寸先もまるでよく見えない」

 俺は俺が置かれている状況がうまく呑み込めてなかった。霧さえ無ければ、店長が言う通り道が分かるのだろうか?

 それとも、この雑木林は常にこんな感じで、しかしそれでも歩いていれば家とやらに着くのだろうか?

 仮にそうだとしたら、その家とやらはものすごく高いたたずまいだったり、周囲には木が生えていないのだろうか?

 俺は正に五里霧中だったが、服が水分を吸って体が冷えるのを感じ、動き続けなくてはいけないと思い、がむしゃらに歩く。霧の中でこんな動きをしたら遭難すると思ったが、このままでは凍死してしまうのだから仕方ない。

 そう考えて前へ前へと歩いていると、視界に妙なものが映った。霧に巨大なものの影が映って見えたのだ。

 それは、前方に見上げ入道か何かが立っていたらこうなるだろうという光景で、俺はこれが前方に巨大な塔がそびえているのかと一瞬思い、そして霧の中では人影が巨人のそれの様に映ると言う話を聞いた事があるのを思い出した。

 しかし、現実は当たらずとも遠からずと言ったところだった。影のある方へと歩くと、木々の開けた場所へと出て、そこには立派な豪邸ごうていが建っていた。超高層ビルなどでは決してないが、ただっ広い敷地面積しきちめんせきほこる三階建ての豪邸。

 当初想像していたログハウス風のほったて小屋等ではなく、どことなくベルサイユを連想する様なフランス調で淡くて温かみのある豪奢ごうしゃなマンションだ。

「なるほど。近づけば森が開けているから分かるし、霧に覆われていても映るから存在を感知出来る。店長の言っていた、行けば分かるってのはこう言う事か」

 俺はそう一人合点すると、店長から言われていた荷物を届けんと豪邸の扉を開けた。カギはかかってなかった。本来ならノックして開けてもらうべきだろうが、あの霧で体が重いのだから、大目に見てもらおう。

「ごめんください、大神おおがみ愛音アイネさんの使いで来ました」

 扉を開けると、そこは質実剛健な印象を覚えるロビーで、カウンター奥の棚には今時珍しい古風な棒鍵が対応した部屋の数だけ用意されていた。

 しかしロビーは無人、呼び鈴を叩くも音が反響するだけ反応が無い。

 こうなっては仕方が無いと、俺はロビーに設置してあるソファーに座る事にした。好都合な事に、暖炉には火が点いており、低体温症寸前だった体を休める事が出来そうだ。

 暖炉の火は暖かく俺の体を温めてくれ、俺は自分が酷く疲れていた事に気が付いた。あの様な悪環境を無理矢理行軍していたのだから、当然だろう。

 俺はソファーに座ったまま、人待ちがてら暖炉の暖房がもたらしてくれる安息を楽しむ事にした。


 気が付くと目の前に人が居た。どうやら暖炉で温まりながらソファーに座っている最中に眠ってしまったらしい。

 どれくらいの時間眠っていたのだろうか? しかし俺は霧の雑木林をどれくらいの間歩いていたか、よく覚えてない。つまり、時刻を見てもどれだけ時間が経ったかは分からない。

「ようこそいらっしゃい、あなたが新しい入居者ですね!」

 目の間に居た人は、俺が目を覚ましたや否やそう言った。陶磁器とうじきの様に白い肌、ウェーブが効いた編みこまれたボリュームのある赤毛、胸と背中が大きく開いたイブニングドレスに、たおやかで優しげな印象のまつげ、フラットでスマートな体系をした女性だ。

 俺はこの女性に、どことなく店長と似た印象を覚えた。しかし、それでいて外見は似ていない。目の前の女性は赤毛で肌は白く眼は青系だが、店長は肌が青白目の黄色で黒髪だし眼も焦げ茶色だ。

 俺は一瞬自分自身の意見に困惑を覚えたが、すぐに先入観の正体を理解した。この二人は服のセンスが似ているんだ。

「えっと、俺は入居者じゃなくて大神愛音さんからの使いでして……」

 俺はロビーのテーブルに置いておいた小包を赤毛の女性に渡す。

「あら、あの人から? 嬉しい! 何かな、何かな? それよりあなたお疲れみたいだけど、今日はよかったらうちで休んでいかない? うちは空き部屋がまだたくさんあるし、あの人が人を寄越すなんて滅多な事じゃあ無いから」

 赤毛の女性はそれを受けとったが、それはそれとして関心は小包ではなく俺と店長にある様だ。

 俺は疲労と腹ペコにさいなまれており、二つ返事でこれを了承した。すると赤毛の女性は俺に棒鍵を握らせて、そして手首を掴んでリードし歩く。

「良かった! そうそう、ちょっとこちらへどうぞ。あなた本当に疲れて見えたからね! この姿見を見てみて?」

 そう言って、三メートルはありそうな立派な姿見鏡の前に俺は立たされた。

 なるほど、彼女が言う様にくたびれていた様だ。鏡に映った俺の姿は、仮に題名を付けるならば『ザ・疲労困憊ひろうこんぱいした人間』と言ったところだろう。

「あれ、おかしい。あなたアイネ様からつかわされたんだよね? 鏡がおかしくなったのかな?」

「鏡がおかしくなった……ですか?」

 俺は赤毛の女性が何を言っているのか理解出来ず、振り向いて疑問を口にした。

「いいえ、こっちの話。そっかー、君がアイネ様が話していたカナエって人か。もっとギラギラした大人の男を想像してた……」

 赤毛の女性の様子からして、どうやら俺は店長から高く買われているらしい。そう考えると、俺は自分の頬が緩むのを感じた。

「もしダメそうなら、うちで預かって研修する事になってたんだけどね……それじゃあ外の霧は晴れてるから、もう君帰っていいよ」

 赤毛の女性が言う様に、窓から見える外は明るく霧も無かった。そして何より、奥が見えない雑木林だと思っていたが、霧さえ無ければ深くも暗くも何とも無い!

「さっきまであんな酷い霧で、まるで迷いの森だったのに! さっきまでの悪天候は何だったんだ……」

「あ、それね、私。それじゃあネタ晴らしするね。鏡もう一度見てくれる?」

 赤毛の女性の言うままに姿見を見ると、そこには赤毛の女性の姿が半透明になって映っていた。映画に出て来る幽霊の様に半透明で、向こう側が透けて見えるではないか!

「これは、あなたは幽霊なのですか?」

「ちょっと惜しい、全然違う。名乗り遅れました、私の名前はヴァイオレット・エルキング。エルキングって知ってる? 魔王と和訳される事もあるんだけど」

「魔王?」

「そうそう、魔王。別に魔物の王とかって訳じゃなく、ただの誤訳なんだけどね。霧とか幻を見せる、旅人とか子供をって喰うドイツの森の妖怪。それで今は、アイネ様に雇われて雑木林に迷い込んで帰れなくなった人間を預かって立派なイモータルとして育てる仕事をしてるの。その鏡に完璧に真っ当に映らなかったら卒業なんだけど……カナエ君、君は真っ当な人間過ぎてダメね!」

 もの凄い身の上話をされた上で、意味の分からないダメ出しをされた。そしてどうやら、人喰いのバケモノにバケモノになる勧誘をされかけていたらしい。

「えっと、その、俺は帰っていいのですか?」

「いいよ、いいよ。君みたいに、イモータルの適性が全然無い人間を見つけ出したアイネ様は果報者なの。アイネ様のところに帰って、甘えさせてあげなさい。これ、魔王様のちょく! 別に私は魔王じゃないし、ただの誤訳だけど」

 赤毛の女性は嬉しそうに、羨ましそうに、悔しそうに店長に言及し、俺に対してあっち行けしっし! と、ハンドサインをして見せた。


「あらおかえりなさい。思ったより早いお帰りね」

 あれから俺は雑木林を何でも無しの普通に歩いて帰って、バイト先に報告しに戻った。あの魔王を名乗る女性の言った事は本当だったのだろう、霧が無い雑木林は拍子抜けするほど簡単に通り抜ける事が出来た。

「アイネさん、ヴァイオレットさんから聞きましたよ。あの雑木林と館は何だったんですか? あとヴァイオレットさんの言ってた仕事って、あれは一体何なのですか?」

 禍根かこんが残る様な自体にはおちいってないし、店長は俺を見込んで使いに出し、相手方への連絡も若干怪しいながらもちゃんとしていた。

 しかし、俺の心にはしこりが残っていたので、俺は店長に疑問をぶつけずにはいられなかった。

 すると、店長は嬉しいのか楽しいのか目を細めつつ、からかう様にクスクスと笑う。

「あの雑木林はただの雑木林よ、本命はあの館。あの館はいわゆる一種の迷い家マヨイガ、あの館がお化けで、あの館に魅入みいられた人間にりついて人ならざる存在にしてるの」

「館がお化けなんですか?」

「ええ、そうなの。あの館へは、人生とか人の世から逃げ出したい人が訪れる様に設計されていて、あの館に滞在するとどんどん人間じゃなくなるの。だからあの館に相応ふさわしいスタッフを派遣して、人間を辞めたい人専用のホテルにしたんだけど、困った事にちょっとでも変身願望や破滅願望がある人が近寄ると魅入られてしまうの」

 ぞっとする話だ。店長は俺ならば大丈夫だと吹聴していた様だが、普通ならばあの館に足を踏み入れたが最後、あの館そのものに人間じゃなくされていた事になる。

「アイネさんはそんな物件に人材を送って、何をする積もりなんですか? 元人間からお金を取るって訳でもないんですよね?」

「何だと思う? あれは私の慈善事業なのです」

 慈善事業? 人間を人ならざる存在にする事を慈善事業と言ったのか? 俺は頭がクラクラした。

「疑ってらっしゃる? でも本当の事よ。あの館に受け入れられた人間はイモータルと呼ばれる存在になるの、イモータルってのはつまり非人間とか不死身って意味ね」

「不死身の非人間ですか」

「そう、人間は死ぬ事が出来るから人間なの。逆に言うと、何をしても死なないなら、それは人間じゃないの」

 俺は店長の言う事が理解出来て来たのを感じた。

 あの館は人生から逃げたい人をイモータルにする、イモータルになれば不老不死になるから人界から切り離された存在になる。

 俺は自殺願望者であったり不老不死を求める様な人間の群が生きている館に取り込まれ、館の中で終わらない一生を過ごし、人類が死に絶え化石になっても館の中で生活をしているのを想像し、背中が凍える様な感覚に陥るのを感じた。

 それこそ、魔王を名乗る女性が操る霧の中、どこにあるか分からない館を探してさ迷う中に感じた寒気なんて比べ物にならない程に肝が冷えた。


 * * * 


 鬱蒼とした、霧のかかった雑木林の中を歩く。一歩一歩歩く毎にジャブジャブと水音が立ち、重くなった足を通して体力を奪われる感覚がする。

(逃げなくては……)

 は胃の底から湧き上がる感情を杖に、雑木林の中を走っていた。焦燥感と言うべきか、それとも得体の知れない恐怖か、それとも義務感に対する嫌悪かも知れない。

 水分を多大に含んだ草を踏んでジャブジャブと音を立てて歩く感触は、まるで水中を歩いているかの様だ。はっきり言って体力の消耗の面から言っても、泳ぐのと大差が無い気がする。

(逃げなくては……)

 最早自分が何から逃げたがっているのかも分からない。心臓を締めつける様な嫌悪感、将来への不安、吐き気をもよおす様な緊張感……それがおれにとって人生だ。

(逃げなくては……)

 そう考えながら雑木林を歩いていると、木々が開かれた場が現れ、その奥に暖かな灯りを備えた大きな館が見えた。

 しめた! 天の助けだ、今日はあの館に泊めてもらおう。明日の事は明日考えればいい。とにかく今は、熱いシャワーと暖かなベッドが欲しい。

 おれはそう結論付け、館の扉を叩いた。

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