一話 ⑨
「お礼なんて、そんな。妻が夫を信じるのは、当然のことですから!」
「わ、私たちはまだ正式な夫婦になったわけではありません。私たちの結婚には、乗り越えなければならない障害があります」
「……! そ、そうですね。まずは、長老に報告しないと」
シラヌイは頷く。
「アウラ殿。貴女の口から巫女様の予言を長老殿に伝えていただき、その上で、互いの里の重鎮の顔合わせをいたしましょう」
「は、はいっ。あっ」
「どうされました?」
「わたしたちは、これからお互いの里に帰るんですよね?」
「え、ええ。そうなりますね」
アウラは悲しげな表情で、シラヌイの顔に手を伸ばす。震える指先が、頬に軽く触れた。
「……離れ離れになってしまうんですね」
「……!」
シラヌイは呻いた。
(だ、抱きしめたいっ!)
衝動を、どうにか堪える。
自分で言ったように、アウラはまだ妻ではないのだ。おいそれとは触れられない。
「でもでもっ、夫婦になれば、ずっと一緒にいられますよね?」
「ずっと……そうですね。夫婦ということは、そういうことになるのでしょう」
「なら今は、涙を呑んで里に帰ります」
名残惜しげにシラヌイから身を離したアウラは、胸の前で手を合わせ、目を閉じた。
彼女の魔力が急速に練り上げられ、研ぎ澄まされていくのを感じて、シラヌイは軽くたじろいだ。
「白虎召喚」
アウラの桜色の唇が小さく言葉を紡ぐと、彼女の背後で風が巻いた。
風は氷雪を伴って、周囲の気温を急激に下げていく。
ほどなくして風がやむと、そこに一頭の虎が現れていた。白い毛並みの、屈強な虎が。
「白虎……」
シラヌイは息を呑みつつ、その虎の名を呟いた。
火の上位精霊である朱雀と対を成す存在、氷の上位精霊――白虎。
シラヌイが白虎を目の当たりにするのは初めてではない。アウラは過去の戦いで、幾度も白虎を召喚してきた。その度に、シラヌイも朱雀を召喚して応戦したものだ。
アウラの手が白虎の頭を撫でる。白虎は甘える子猫のように目を細めつつ姿勢を下げた。
アウラは白虎の横腹に足を掛け、その背中に跨がった。
「長老と副頭を連れて朱雀の里に参じます。五日……いえ、三日お待ちを!」
アウラが言いつつ白虎の背中を軽く叩くと、白虎は振り返って走り出した。
白虎の駆ける速さは、どんな駿馬にも勝る。疾風の如く、その白い姿は地平の向こうに消えていった。
シラヌイは舌を巻く。
アウラには白虎を召喚するだけの余力が残っていたのだ。
今のシラヌイに、朱雀の召喚は無理だ。アウラを取り押さえて勝利宣言をしたが、実際のところ、アウラに抵抗されていたら、負けていたのはシラヌイのほうだっただろう。
(よく、勝てたものだ……)
もう一度アウラと戦って勝てと言われても、まったく勝てる気がしない。つくづく、薄氷の勝利だった。
(しかし、アウラ殿は何故、求婚を受けてくれたのだろう)
アウラが求婚に応じたのは、巫女の予言を伝え得る前だ。
(私のことを憎からず思っていてくれたようだが……)
果たして、十年、戦い続けた宿敵を、憎からず思えるものだろうか。
自分はどうか、とシラヌイは自問する。
(彼女を憎いと思ったことは、ないな)
負けたくない。勝ちたい。その一心で修行に励んできた十年は、過酷でありつつも充実していた時間だったように思う。
憎むどころか、シラヌイがアウラに対し、尊敬と感謝の念を抱いていた。
「……次に会えるのは、三日後か」
たった今別れたばかりだというのに、次に会える時が楽しみでたまらない。
(この三日を無為に過ごすわけにはいかない。改めて、学んで蓄えておかなければな。子作りの知識を……!)
シラヌイは上りゆく朝陽に向かって拳を固め、誓う。
「私は必ず、立派な子をなしてみせる!」
決闘の夜から数えて二日後。
夜の闇も深まりつつある頃、朱雀の里に、冷たい風が吹いた。
「シラヌイさん! わたし、きました!」
その時、シラヌイが里の入り口にいたのは偶然ではない。凄まじく強い魔力の接近を感じて、慌ててやってきたのだ。
氷晶が舞うほどの冷たい風を纏った巨大な虎が、シラヌイを見下ろしている。その背には、三つの人影。
そのうちの一人――黒髪の美女が颯爽と飛び降り、シラヌイに笑顔を向けてきた。
「ア、アウラ殿……」
「ごめんなさい。三日後に……というお約束でしたけれど、シラヌイさんに早く会いたくて、二日できちゃいました」
言いつつ、アウラは巨大な虎――白虎の首を撫でた。
白虎の里から朱雀の里までは、山を四つ越えなければならない。道は険しく、馬も使えない。
しかし、白虎なら、道なき道を駆けることも可能だ。とはいえ、氷の上位精霊である白虎を召喚し、顕現状態を維持し続けるのは、並の魔術師どころか熟練の魔術師にさえできることではない。冰眼を持つアウラ以外には不可能だろう。
「いくらなんでも飛ばしすぎだよ、姉さん」
白虎の背の上にいた人物の一人が、アウラの隣に降り立った。
「何度振り落とされそうになったことか」
白い髪に白い装束の青年。顔立ちは美しく線も細いが、装束の下の身体は相当に鍛え込まれているだろうことは、着地の所作だけでわかった。
「弟さんですか?」
シラヌイの問いに、アウラはぽんと掌を合わせた。
「はいっ。紹介しますね。この子は弟の」
「ブランです。副頭として、姉を支えております」
アウラの言葉の途中で青年は名乗り、恭しく頭を下げた。
「私は朱雀の頭領シラヌイ。ブラン殿、よしなに」
シラヌイの握手の求めに、ブランはやわらかな笑みを浮かべて応じる。
「よろしくお願い致します。シラヌイ様」
ブランの手は白く、指も細いが、たしかな握力を感じる。
その手に、不意に力がこもった。
「……っ」
痛みに、シラヌイは奥歯を噛んだ。
ミシミシと骨が軋んでいるのがわかる。
「ブラン殿……?」
「おっと、これは失礼を。シラヌイ様にお目にかかれた喜びと緊張で、思わず力が入ってしまいました」
ふふっ、と邪気なく笑って、ブランは手を離した。
(……やはり、見た目どおりの若者ではないということか)
彼は白虎の副頭であり、アウラの弟だ。アウラと修行を共に積んできたであろうことを鑑みれば、並の魔術師であるはずがない。
白虎の副頭として、朱雀の頭領に良い感情を抱いていないのも当然だった。
「叔母様も、下りてきてください」
アウラの呼びかけに、白虎に乗っていた最後の人物が動いた。おもむろに立ち上がり、アウラとシラヌイの間に、音もなく舞い降りた。
その身のこなしから、こちらはブラン以上の手練れだとわかる。
女だ。アウラに勝るとも劣らない美貌の持ち主だが、目許にも口許にも感情の色が滲んでおらず、どこか作り物めいた印象を受ける。長い髪は新雪のように真白い。ブランが言っていたように、山道を駆ける際に白虎は相当激しく動いたはずだが、藍色の装束には一切の乱れがない。
年は三十路手前のように見えるが、実際にはそれより十ほど上であることを、シラヌイは知っていた。彼女の名前も。
「ご息災のようでなによりです、フロロ殿」
白虎の里の先代頭領にして現長老であるフロロに、シラヌイは一度だけだが会っていた。
「十年ぶりか、少年。いや、今はもう立派な朱雀の頭領だったな。逞しくなった」
シラヌイの挨拶に、フロロはそう応じた。声音には、表情と同様、感情の色がない。
(まったく老けていないな、この御仁は)
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