昭和のショートショート 弟

阿賀沢 周子

第1話

 出窓の辺りがすっと明るくなった気がして、野原美代子は弟の欽二に折って見せていた折り紙の『奴さん』を床に置いた。窓辺に立つと半月が雲の合間から顔を見せ、雪原に雲の影を作っていた。

 先刻父の巌が、鶏卵の行商に出ていた母の和をバス停まで迎えに行ったときは、粉雪が強風に舞って前が見えなくなるほどだったが、吹雪がおさまり山里は丸みを増して穏やかだ。

 欽二は『奴さん』を引っ張って裂きはじめた。音が面白いのか形が崩れるのが面白いのか、笑い声をあげて夢中になっていた。

 窓辺で両親を待つている美代子が、二人を見つけたのは電信柱が立つ小道の曲がり角だった。母の背負子しょいこを担いだ巌の後ろを、小豆色の角巻を深く巻いた母がついてくる。

 帰ってくる二人の足跡が、電柱の下をゆるく曲がってバス停までの下り坂へ続いているのが見渡せる。足跡は降り積もった雪の影で青くぼんやりとしている。


 帰ってきてまもなく、和にむろから野菜を掘って来るように頼まれて外へ出ていた巌が、玄関へ戻ってくる音がした。欽二が聞きつけて、色とりどりの破れた紙の上を玄関へ這っていく。美代子が引き戸を開けると一陣の風でくせ毛の前髪が持ち上がる。戸につかまって立ち上がろうとする欽二の腰をを支えた。

 巌は室から出したばかりの山葵やまわさびと大根をカゴごと上がりかまちに置き、頭から被っていた母の角巻を土間の作業台の上にフワッと広げた。巌の長靴にくっついた雪に月の光が射して煌めく。

「また降ってきた。今夜は積もるぞ」

 欽二が居間へ入ってきた巌へ両手を伸ばして「とーたん」と呼ぶ。

「とーたんは手が冷たいからあとでな」と頭を撫でた。

 巌は、野菜を和に渡しストーブの前に胡坐をかいた。デレッキでストーブの口を開け、火をつついてから十能じゅうのうで砕いた塊炭を入れた。赤々と起きていた炎が暗くなった。父の背につかまって立ち上がっていた欽二が火を指差して声をあげた。

「よし欽二、抱っこか」

 巌の胡坐の中で欽二は父と同じように足を組みストーブの扉の風窓の火をじっと見つめる。幼い顔には、巌の細く高い鼻梁と濃い眉が映されていて、ストーブで暖まり赤くなった頬の模様までそっくりだった。

「美代子、卓袱台出して。お父ちゃん、クジラの刺身だから日本酒かい」

 商売から帰って、立ちっぱなしで流しで働いていた和の鼻は、まだ寒さで赤くなったままだ。白い額に張り付いていたくせ毛は乾いて跳ね上がっていた。

「クジラか。いいな。少し飲むか」

 巌は嬉しそうに欽二の少ない髪をくしゃくしゃにした。

 美代子が茶碗や箸を並べていると、母が大皿を卓の真ん中に置いた。短冊に切られた霜を振ったような鯨と、真っ白な大根のツマがきれいに並んでいる。

「おばあちゃんの納豆もね」

 和に言われて美代子は台所の瓶から、本家の祖母チヨエ手作りの藁に包まれた納豆を二本出した。瀬戸焼きの丼に納豆を移し、かき混ぜて醤油を垂らす。母が味噌汁の鍋をかまどからストーブへ移した。和は味噌汁を注ぎ、美代子が炊飯釜のご飯をよそう。

 いつも兄の欽一が坐っていた席にもご飯と箸が置かれる。欽二は「おーに」と兄を呼び、手を叩く。自分が生まれる前に事故で無くなった兄を拝んでいるつもりだ。

「美代子。欽二にご飯作ってやって」

 頷いてご飯に納豆を乗せてよく混ぜて、巌の胡坐の中の欽二に渡し、スプーンを持たせた。

「いただきます」

 全員が手を合わせて食べ始めるころには、クジラは半解凍になって大根を赤く染め始めていた。和の頬は薄い桜色に戻り艶やかになっている。

 巌は湯飲みの日本酒を啜り、クジラをつまむ。和がすり下ろした山葵の香りが鼻をくすぐる。

「欽二にクジラを食べさせてもいいか」

 和に聞く。

「いいよ。少し噛み砕いてからね」

 父は生のクジラを少し噛んで欽二の口に入れたが、欽二は吐き出して指で巌の醤油と山葵の小皿に入れようとした。

「こら、辛いんだぞ」

 しかし欽二は諦めずに手を伸ばす。美代子は自分の小皿に醤油を少しばかり垂らして欽二の前に置いた。欽二は握った鯨を醤油につけて頬張った。

「なんだ。醤油をつけたかったのか」

 欽二は鯨を指差してまたくれと催促する。

「こいつ、酒飲みになるぞ」

 嬉しそうに噛み砕いた鯨に醤油を付けて欽二に食べさせた。酒が入ると父は機嫌がよくなり、いつもよりよくしゃべる。横に座っている和に湯呑の酒を手渡すと、一口飲んで「辛いね」と顔をしかめてもう一口飲んで笑った。後ろの茶箪笥から小ぶりの湯飲みを出して、嬉しそうに新たに注いでもらう。

 美代子も食べる。兄の影膳を見て窓へ目をやる。再び雲間から出た月が、裸電球の灯りが届かない壁に窓枠の影を映した。

 クジラが欽一の膳にも置かれている。欽一は、クジラが大好物だった。買ってきた日の刺身も、次の日の竜田揚げも、更に余れば佃煮となったものも。

 卓袱台は、兄が生きていたころと同じように、いつもある。


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