Welcome to PENGUIN LAND!

七名菜々

第1話

 ペンギンが、空から降ってきた。

 なんて言ったら、頭がおかしくなったと思われてしまうだろう。この国には野生のペンギンは生息していないし、何よりペンギンは空を飛べない。

 でも、これは事実なのだから、そう言うしかないだろう。

 ペンギンが、空から降ってきた。


 アカリは慌てて上着を脱ぎ捨て、プールに飛び込んだ。真冬の水は氷のように冷たく、心臓がひゅっと縮むような感触があった。

 季節外れに使うあてのないプールの掃除をたった一人でやらされているのは嫌がらせ以外の何ものでもなかったが、こんなことならもっと真面目に取り組んでおくんだった。大量に浮かんだ枯葉のせいで水中は暗く、そこに沈んでいるはずのものをなかなか見つけることができない。

 なんとか手探りで探し当て、そのものを引き上げると、腕の中にあったのは、水を吸って萎んだ毛の塊だった。

「え、何これ」

 空からそれが落ちてきたのが視界の端に映った時は、てっきり猫か何かだと思ったのに。

「ペンギン?」

 グレーの身体、白い顔にヘルメットを被ったような黒い頭、その真ん中には、小さく尖った嘴が生えている。

「エンペラーペンギンの赤ちゃんだ」

 ペンギンが、空から降ってきた。

 どうしてこんなところにペンギンが? そんなこと、考えても分からないことくらいは分かっていた。ならば今するべきことは、たった一つだ。

 アカリはプールから這い上がり、濡れて弱ったペンギンの雛を、脱ぎ捨ててあった上着で包んだ。掃除用具をほっぽり出したまま、一目散にアカリは駆け出す。


 鍵を開けて家に転がり込んだ。今更になって教室にランドセルを置いてきたことに気付いたが、今はそんなことどうでもいい。

 アカリは乾いたタオルを取り出し、雛の身体を拭いてやった。べっとりと身体に張り付くほどに水を吸った羽毛はすぐにタオルをびしょ濡れにし、二枚、三枚、とタオルを使って、ようやく雛は本来のふわふわの姿になった。

「ふふ、可愛い」

 雛は元気を取り戻したのか、キュピィ、キュピィ、と愛らしく鳴いた。それがご飯を催促しているように聞こえて、「ちょっと待ってね」と雛に告げた。

 冷蔵庫を開けてみると、すぐ正面にイワシがあるのを見つけた。たくさんあるみたいだから、二、三匹なら拝借してもばれないだろう。

 ミキサーを取り出し、イワシを放り込む。それから、牛乳と水も少しずつ入れた。ガーッと騒々しい音を立ててミキサーを回すと、とろりとしたペースト状のものが出来上がる。ペンギンの雛にどんなご飯をあげればいいのかなんて正確には知らないが、以前観た水族館の飼育員の動画でこんな感じの餌を作っていたと思う。

 イワシのペーストをポリ袋に詰め、袋の角に小さく切り込みを入れる。キュピィ、キュピィ、と鳴く雛の口の中に目掛けてペーストを絞り出してやると、雛は喜んでそれを飲み込んだ。

「よかった」

 勢いよく食いつく雛の姿を見て、ほっと息を吐いた。これだけ食べられるなら、きっと大丈夫だろう。


 雛の食事を終え、アカリもシャワーを浴びて、服を着替えた。

 さて、この子はどうしたものだろうか。と、ふわふわの雛の背中を撫でる。

 近所の水族館では、エンペラーペンギンは飼っていなかったはずだ。するとこの子は、密輸された後に脱走したのだろうか。それとも、遠い南極から迷子になって?

 アカリが考え込んでいると、コンコン、と、硬いものを叩くような音がどこかで鳴った。

 なんの音だろう。辺りを見回すと、もう一度、コンコン、と鳴る。玄関の方向だ。恐る恐る、音の方へ歩く。

 コンコン。

 やっぱり。誰かが玄関のドアをノックしている。

 どうしてチャイムを鳴らさないんだろう。

 疑問に思いながら覗き穴から外の様子を窺ってみるが、そこには誰もいない。

 コンコン。

 アカリは深呼吸をし、思い切ってドアを開けた。

 しかし、やはりそこには誰もいない。なんだ、悪戯か。と視線を落とした瞬間、アカリは飛び退き、尻餅をついた。

「こんにちは」

 それは、漫画で紳士がやるようなやり方で、丁寧にお辞儀をした。

「しゃ、喋った」掠れ声が喉を揺らす。

 今日はなんて奇妙な日なんだろう。そんなこと、あるわけないのに。

 ぽってりとした流線型の身体。白いお腹に黒い背中、両目をつなぐ帯のような、特徴的なヘアバンド模様。そして、鮮やかな黄色の足。今私の目の前にいるのは。

「ジェンツーペンギンだ」

 そのペンギンは嬉しそうに、腕のようなフリッパーをぱたぱたと動かした。

「おや。種類まで言えるとは、詳しいんだね。僕はジェンツーペンギンのロイだよ」

「ろ、ロイ」

「そして、その子はエンペラーペンギンのリラ」

「リラ」

「キュピィ」と返事をするように雛が鳴いた。

「君は?」

「あ、アカリ」

「アカリ。リラを助けてくれてありがとう」ロイは再び、深々とお辞儀をした。「その子、勝手に親の元を抜け出して、オオトウゾクカモメに攫われてしまってね。奴の飛んで行った方を探し回ってたら、この家からリラの声が聞こえて、迎えに来たんだ」

「オオトウゾクカモメなんて、この辺りにいるの?」

 あっはっはっ、と、ロイは愉快そうに声を立てて笑った。

「奴らはペンギンがいる所にはどこにだって現れるんだよ。だから君が問うべきは、どうしてペンギンがこんな所にいるのか、だね」

「じゃあ、どうして、ペンギンがこんな所に?」

 それを言うなら、どうしてペンギンが喋るのか、の方が気になるが。

「この町に、ペンギン王国があるんだよ」

「ペンギン、王国?」

「人間にはペンギンランドという遊園地として知られている場所だよ」

「ああ!」

 それなら知っている。ペンギンランドは地元の人しか行かないような小規模な遊園地だが、園のそこかしこに散りばめられたペンギンのモチーフが可愛らしくて、アカリは大好きだった。そして、アカリがペンギンが大好きになったのも、ペンギンランドがきっかけだった。

「え? でも、ペンギンランドに本物のペンギンはいないよ」

 ペンギンランドのペンギンはあくまでもモチーフやキャラクターであり、水族館のようにペンギンを飼育しているわけではない。

「ふふ。気になるなら一緒に来てみるかい?」

「え、いいの?」

「リラを歩かせると一日がかりになるからね。君が抱えてくれるなら助かる」

「ほんとに? 行く!」

 正直、何がなんだか分からないままだったが、ペンギンたちの暮らす場所が本当にあるなら、行ってみたいと思った。

「あ、そうそう」早速玄関を出て、振り返りながらロイが言った。「できれば、自転車の方がいいな。リラは籠に入れてさ」

「え、いいけど。それじゃあロイが追いつけないでしょ」

「大丈夫だよ。ほら、準備して」

 言われた通りに駐輪場から自転車を運び出し、リラを籠に乗せた。

「さあ。行こうか」

 ロイはそう言うと、ペタペタと足音を鳴らして駆け出した。左右に身体を揺すりながら走る、まるでよちよち歩きのようなフォームとは裏腹に、そのスピードは信じられないほど速く、アカリは慌ててペダルを踏み込んだ。

 黄色い足の裏が、アカリを誘うように楽しげに、ぴょこぴょこと跳ね上がる。


 息も絶え絶えになりながらやっとのことで辿り着いた海辺の遊園地は、アカリの記憶の中のそれと明らかに様子が違った。

「何、これ」

 アカリの目に映っているのは、まるで南極のドキュメンタリー番組のような光景だ。

 キングペンギンやイワトビペンギンならアカリも水族館で見たことがあるが、この国ではお目にかかれないはずの、ロイヤルペンギンやシュレーターペンギンまでいる。

「ふふ。素敵な所だろ?」

 誇らしげに笑うロイの呼吸は、少しも乱れてはいない。ペンギンがあんなに軽快に、自転車と同じような速度で走ることができるなんて、アカリは知らなかった。

「ここは表向きには遊園地だけど、真の姿は、僕たちペンギンにとっての楽園、ペンギン王国なんだ」

「へえ」と嘆息を漏らしながら、アカリは自転車を駐めた。「夢みたい」

 こんな場所で大好きなペンギンに囲まれて生きることができたら、どんなに幸せだろう。

「さあ。エラさんが心配してるから、早く行こう」

「エラさんって?」リラを籠から抱え上げながら、アカリは聞き返した。

「リラのお母さんだよ。そして」

「きゃ!」

 ロイが何かを言いかけた瞬間、リラがアカリの手をすり抜け、ぴょこんと地面に飛び降りてしまった。

「キュピィ! キュピィ!」

 リラは何かを叫びながら、ちょこまかとどこかへ走って行ってしまう。その方向に視線を向けると、巨大なペンギンが、ずりずりと尻を引き摺るようにこちらに向かって歩いて来ているのだの分かった。

「エラさん!」同じ方を見ていたロイが、そのペンギンに駆け寄った。「家で待っててくれてよかったのに!」

「ロイ、どうしたの?」

 ロイに追いつき、間近でエラと呼ばれたペンギンを見て、改めて大きいな、と思った。

 アカリの肩ほどもある身長に、丸々とした身体、そして、首周りを彩るスタイのような黄色い模様。世界最大のペンギン、エンペラーペンギンだ。

 リラは彼女に飛びつき、彼女も慈しむように嘴でリラを撫でている。

「アカリ、彼女がエラさんだよ。エンペラーペンギンだからエラ。分かりやすいだろ」

「あら、そう言うあなたは、ロイなのにロイヤルペンギンじゃないんだから、紛らわしいわよね」エラが言った。彼女もまた、当然のように人語を喋る。

「それ、よく言われるよ」ぱたぱたとフリッパーを羽ばたかせ、ロイは笑った。「エラさんはリラのお母さんで、このペンギン王国の女王なんだ」

「じ、女王様! こんにちは!」

 女王という厳かな響きに慄き、アカリはぺこりと勢いよく頭を下げた。

「エラさん。こちらはアカリ。彼女がリラを助けてくれたんだ」

「まあ、あなたが。どうもありがとう」

「いえ。たまたま、近くに降ってきただけで」

「キュルルイ、キュルルイ、キュルルピィ!」リラがエラに向かって、何かを訴えた。

「まあ!」とエラが、まるで人間が手のひらでそうするようにフリッパーを口元に当てた。「アカリさん。あなた、この子がプールに落ちたところを、飛び込んで助けてくださったんですってね」

「いや。ほんとに、たまたま、たまたまですから」

 ペンギン相手に恐縮しているのもおかしなことだと思いながらも、アカリは恐縮してしまっていた。エラの物腰は穏やかながら、その佇まいには隠し切れない気品があり、不思議と緊張してしまうのだ。

「いいえ。あなたはリラの命の恩人よ。ちゃんとお礼をしなくちゃね」

 そう言うとエラはアカリに歩み寄り、その手を取った。

「こんな物しかあげられないけど」

 そっと握らされた物を見ると、それは美しい金色をした、細長い一枚の羽根だった。

「これは?」アカリは尋ねる。

「ロイヤルペンギンの冠羽よ。それを持っていれば、いつでもこの王国に来ることができるわ」

「え! ほんとに?」

 喜びで心臓が高鳴る。夢のようなペンギンの世界に、また来ることが許されるなんて。

「ただし、一枚きりしかあげることはできないから、気をつけてね。なくしてしまったら、ここはただの遊園地。二度と王国に足を踏み入れることはできなくなるわ」

「はい!」自分でも驚くほど、アカリは大きな声で返事をした。

「いつでもいらしてね。あなたなら大歓迎よ。ペンギンには、人の心を癒す不思議な力があるから」

 エラのその言葉に、ぎゅっと胸が締まるような感触があった。これは、さっきの高鳴りとは全く別のものだ。

 分かっていながら、気付かない振りをして力いっぱいの笑顔を作った。

「はい。絶対にまた来ます!」

 なんで? どうしてエラには分かったのだろう。

 ひらひらと揺れるフリッパーに背を向けながら自転車に跨ったアカリからは、既に笑顔は消えていた。

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