繙くは水平化世界

@osakanasan_kaniebi

第1話

 月曜日の朝、代わり映えしないいつもの教室に、天使が舞い降りた。天使って言っても本当は転校生、その子は今まで見たことがないくらい綺麗な顔をしていて、見たとき私の息は一瞬止まった。大きな眼、長いまつ毛、高い鼻、黒くて艶々した長い髪、すらりとした身体。そのすべてが整っていて、美しかった。

 私の頭には、ずっと昔にテレビで見た女神様の絵画が思い浮かんできた。透き通るような白い肌、ふんわり艶々とした髪の毛、恥じらうような表情。それは、小さな頃見た絵とそっくりで、まるで同じ絵に再会したみたいな感覚だった。だから目の前の転校生は、天使というよりは女神様なのかもしれない。ただし、描かれた女神が裸だったのとは違って、壇上に立つ転校生は、タイトでかわいいデザインの洋服を身につけていた。それは、普段私たちが着ているグレーのダボっとした制服とは何もかもが違っている。私は初めて、あんなにかわいいリボンと、ネイビーで金のボタンがあしらわれた上着と、チェック柄のスカートと、そこから覗く真っ白な素足と、その先を包み込む靴下と革の茶色い靴を見た。要するに、転校生の着ている服は、全部見たことのないものだった。

 転校生の美しさに圧倒されてたのは私だけじゃなかったと思う。なぜって、その子が現れた瞬間に、教室中が息を呑んでびっくりするくらい静かになってそのあと、声にもならないざわめきがあちこちから聴こえ始めたから。やっぱりみんな、綺麗だと思ったんだ。

「今日から新しいクラスメイトになります、京本愛理さんです」

 担任の先生が気の抜けたような声でそう言ったとき、私は初めて担任が教室に来ていたことに気付いた。担任の言葉で皆も我に返ったようで、がたがたと音を立てて椅子が正面に向き直る気配した。

「では、クラスのみんなにご挨拶をお願いします」

 担任に促された転校生、京本愛理は緊張した表情で挨拶をし始めた。

「みなさん、初めまして。今日から転校してきました京本愛理です。父の仕事の都合で関西からこちらに引っ越してきました。向こうとこちらでは色々と勝手が違うと聞いていて、私はもしかしたら変なことをしてしまうかもしれませんが、その時はこうするんだよとかって教えてもらえたら嬉しいです。これからよろしくお願いします」

 壇上の京本愛理は恥ずかしそうに会釈をした。教室からは小さなどよめきとぱらぱらとした拍手が送られた。

「はい、ありがとうございました。京本さんはご家族のお仕事の都合で西日本からこちらに来られました。まだこっちのルールとかスタイルに慣れていないので、皆さん、優しく接してあげてくださいね」

 挨拶を聞いて私は、身なりの奇抜さに多少納得した。京本さんは東日本の外から来たんだ。

「京本さんの出席番号は、0201-0042です。席は41番さんの隣になります」

 そう言って担任は出席番号0201-0041である私を指さした。その瞬間、私の心臓がどきっとして脈が速くなるのを感じた。京本さんが隣に座るんだ。私は緊張しながら壇上を見上げたけれど、転校生は驚いた顔で担任を見つめているところだった。

「41番さんって。お名前とか」

 壇上の京本さんが小さく呟くのが聞こえた。

「ああ、ええっと、佐藤さん。佐藤アオイさん。私はクラスメイトのみんなを番号で呼ぶようにしているから」

「そうなんですね。あとごめんなさい、席をもう一度」

 教室のざわざわからかすかに聞こえた会話はそんな風だった。私、佐藤アオイは、担任が指差す先に座る私を、一生懸命見定めようとして、首を小さく動かしている京本愛理をぼんやり眺めていた。きっとあの子は、私を指さされても、どれかわからないんだろう。

 それもそのはずで、私たちは全員が、同じデザインの制服を着ていた。同じデザインなだけならまだしも、遠目には違いが判らないほど、皆がそっくりな 格好をしていた。全員が同じグレーのビッグシルエットのシャツに、下はダボっとしたグレーのズボンかスカート。下はどっちか選べるけれど、サイズはどれもゆったりしたものしかないせいで、みんな体の大きさとかいろいろなパーツの長さがわからないようになっている。同じなのは服だけじゃない、髪の毛もそうだった。みんながベリーショートの髪型。だから私の席から黒板を見ると、前に座っている子は全員同じに見えて、見分けは付かなかった。あ、あの背中が曲がってるのがあの子だな、とかそんな感じ。

 だから壇上からこっちを見て、ほらあのショートカットでグレーの服の子だよ、なんて言い方をされても誰か分からない。多分先生は、後ろから3列目の端から何人目、とかなんとか言ってるんじゃないかな。

 でもそんな教室の中にあって京本さんは何もかもが違った。髪はすごく長いし、服は全身のサイズを隠さずにむしろ、すべてさらけ出していた。この子なら、例え私たちが1,000人並ぶ体育館の中に居ても、一瞬で見つけられると思った。

 その時、壇上の京本さんと眼が合った。その瞬間、また息が止まった。時間が止まった。満点の星空みたいな目の光が私を射止めた。京本さんはようやく41番である私を見つけるとにっこりとほほ笑んだ。

 それからのことはよく覚えていない。強烈な美しさにすっかりあてられてしまった私はほとんど無我夢中で、隣にやってきた京本さんと何かを話していたのだと思う。

「じゃあこれから職長室に行かなくちゃいけないの、またね」

「あ、うん。また」

 我に返った時、隣の席の京本さんは担任と一緒に廊下へと消えていった。短い朝礼の間の出来事は完全に頭から抜け落ちていた。京本さんににこりと笑いかけられた瞬間、頭に雷が落ちたようだったことだけを覚えている。私の頭には、京本さんの艶やかな髪と、愛嬌たっぷりの目元が浮かんで離れなかった。

「なあ、おいって」

 その時、私の肩を掴んでぐいと後ろに引っ張る奴がいた。振り返ったときそこに立っていたのは私の友だちのカオルだった。カオルは私よりも背が高くてがっしりしていて、前髪の下から覗く涼し気な目元と、凛とした薄い眉毛が印象的なクラスメイトだった。

「ああ、カオル。おはよう」

「何回も呼んだんだぞ。ぼおっとして」

「ごめんごめん。でも見たでしょ、今朝の京本さん。あんな子が隣に来てびっくりしてたの」

「確かに、あれはびっくりだった。クラスの連中、なんて思うかな」

「え、なにが」

 私の言葉にカオルは眉をひそめると、身を屈めて私の耳元に顔を寄せた。

「ほら、あいつらとか見てみろ」

 そういって小さく指さす先には、クラスの隅で固まって話をする数人のクラスメイトがいた。

「何あれ、すごく気持ち悪かった。あんなにタイトな服着て、脚まで見せて」

「ほんとに。あとあの髪も。ちょっと綺麗だからって自分は特別だと思ってるんだ」

「そうじゃない人もいるのに、失礼だと思わないのかな。生まれもっての特権に無自覚な人って嫌い」

 カオルは両手を上げて小さくため息をついた。

「多分ほとんどのクラスメイトはあんな感じで思ってると思うな」

「え、嘘。何もしてないのにいきなり嫌われちゃうなんて。どうしてなんだろう、あんなに素敵なのに」

「それ、アオイにそれを言いに来た」

 カオルが私に指を突き立てた。

「え、それって何の話のこと」

「お前、京本が来てからずっと目がハートになってた、自覚ないだろうけど」

「ええっ、嘘。恥ずかしい」

 私は思わず両手で顔を隠した。それを見てカオルは失笑する。

「どう思うかは自由だけど、多分他のクラスメイトはアオイと違ってよく思ってない。だから仲良くする時は周りの目に気をつけた方がいいと思う」

「うわ、ありがとうカオル。気をつけるね」

 ちょうどその時、1時間目の数学の教師が教壇に現れたのでカオルは自分の席に戻っていった。

 それから終礼までの間、私は一日中ぼおっとして過ごした。授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。結局京本さんはその日、クラスに戻ってくることはなかった。残念に思いながら放課後の委員会活動のため、私は図書室に向かった。私の学校では、全生徒が何らかの委員会に入ることが義務付けられている。私は学校で唯一の図書委員。ちなみにカオルはとても頭がいいので特別に委員会を免除されて、放課後の進学コースに参加している。

 職員室で鍵を借りた私は誰もいない図書室の扉を開けた。暗い室内に電気をつけて、定位置のカウンターに座る。私が図書委員になって1年と少し経つけれど、今までに本を借りに来た人は数えるぐらいしかいなかった。この時代、紙の本を読もうなんて人はほとんどいないらしい。噂によると、図書委員はもうすぐ廃止になるそうだ。それもそうか、と私は思っていた。

 私が図書委員になった理由は単純で、誰もいない図書室を独占したかったから。放課後、一人でのんびり過ごす時間は至福のひと時だった。ぼんやり窓の外を眺めたり、本を読んだり、本棚に並んだ背表紙を見たり。

 あとは保護者の影響も大きかった。私が小さい頃はよく、本を読み聞かせてもらっていたように思う。当時の記憶は朧げで、今はあまり覚えていないけど、不意に昔見た絵本の一ページが蘇ってきたり、保護者の優しい声が聞こえてくるような気がすることがあった。それはちょうど、今朝京本さんを見た時がそうだった。そんなわけで私は本が好きだった。

 でも私が幼稚園に上がる前後で、今の法律が東日本にできてからは、色々と状況が変わった。今までパパと呼んでいた人は、保護者と呼ぶようになった。自分のことをぼく、と言っていた隣の家の子は、わたしと言うようになった。これまで読み聞かせてもらっていた絵本は、読んではいけないことになった。そういう時代が来たのだった。

 このことについて私は別に何とも思わないし、むしろいいことだと思ってる。世界中の人が平等になることほど素晴らしいことはないと思うし、それはきっと正しいことだ。誰も傷つかない世の中になればいいなと思っている。

 鞄から読みかけの本を取り出した私はそのページを開いたが、すぐに閉じてため息をついた。頭の中に何かがあると、本に集中することは難しかった。その原因はわかっている。私は本を脇にどけて机に突っ伏すと、もう一度大きなため息をついて目を閉じた。頭の中には京本さんの顔と、カオルと、教室の隅で話すクラスメイトが浮かんできて、ぐるぐる回りだした。そのまま私は眠りに落ちて、天使と女神の夢を見た。

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