鈴鳴に桃の供え



 古き世の神子売りのお糸のある様、こと細かに記したるもの、今ここに。さあさあ物語のはじまりで御座います。








 ――――ああ、どうか聞いてくださいませ。あの人を生かしておいてはいけません。わたくしはほんとうは彼女を疑っていたのです。そんな仏様のような非凡な才など持ち合わせているはずがないと、それでもあの人が将軍様に背こうなどとんでもないことを考えるなんて思いもしなかったのです。ですからどうか、わたくしだけはお助けください。周りの皆は彼女に既に取り入られていてだめなのです。わたくししか正気な者はいないのです――――






 私は孤児であった。困窮していく暮らしの中、泣く泣く手放された子供だった。男であれば農作業もできたであろう、だが女ではだめだ。稼ぎにならない。どんどん貧しくなっていくばかりだ。だからといってただ捨てるのでは罰が当たってしまうだろう、ああそうだ寺に引き取ってもらおう。そうすればきっとこの子も幸せに暮らしていけるはずだ……。そんな事情から私は幼くして寺の子となったのであった。


 両親の思った通り、私は生活において全く不自由することはなかった。ただ少し周囲と馴染むのが下手なだけで、私はすくすくとごく普通の少女に育った。両親の決断は正しかったのであろう。ただそれ――両親の心情について――は聞いた話によると、というものなので本当の話かは知れない。




 そんな暮らしの中、一人の少女がお供を連れて寺にやってきた。預けられたというわけでも捨てられたというわけでもないらしい。まだ幼さの残る容貌は人のものとは思えぬほどの美しさであった。この姿でこんな山奥の寺までよく無事でたどり着けたことだ。お供は五人、それぞれ年齢も性別も異なる者たちだった。彼らがこの少女の付き人らしい、というのは見てわかった。少女がこの者たちについてきたというほうが信憑性があるのだが、どう見てもそれではなかった。少女は凛として先頭を歩き、その横に二人、後ろに三人がつくという明らかな護衛であったからだ。とはいっても聞いたところ裕福な生まれというわけではないそうだ。お供の五人はどうやら彼女に救われたことがあるらしく、恩を感じるとともに少女を尊敬し敬愛してやまないという。彼女について聞けば聞くほど謎が深まっていくばかりであったが、やはり誰が見てもその美貌は人間離れしており、それに加え心優しい人物であるということだけはより明らかになっていった。




 私はしばらく寺に居座るらしいお鈴という名前のその少女に話しかける気はなかった。何よりお供たちの言う救済劇は胡散臭かったからだ。魚の消えた魚港に大量の魚を呼び込むことで村を救った、不治の病を治した――――あり得るものではない。だがしかし、彼女が多くの人間に慕われていることは確かなようだ。それを証明するかのように彼女は寺の人間たちを虜にしていった。非暴力や平等を重んじ、その温厚な性格は誰からも好かれる。寺の少年は怪我を治してもらい、彼女に身の程知らずの恋をした。すべては噂で聞いただけだが、そこまで彼女の評判が広がっていてはもう疑うという問題ではないと思った。皆が騙されていると考えるより、私が知らないだけだと考えたほうが簡単だ。だからといって関わろうとは思わない。私は寺での平穏な生活を気に入っていたし、このまま出家でもして尼としてこれからもゆっくりと暮らしていこうかと思っていた。


 だがそれは彼女に声をかけられるまでの話であった。ある日私が寺の境内の清掃を行っていると、いつの間にかそばに少女が近寄っていた。


「貴女が糸?」


 彼女はお鈴という名前の通り美しい鈴のような声を持っていた。周囲からは神の子、神子様、お鈴様などと言われもてはやされているらしい。


「はい、何か御用ですか」


 私はあくまで事務的に答えた。視界の端でいくつかの枯れ葉がちらちらと動いており、正直この少女よりもそちらの方に意識が向いていた。竹箒の柄をぎゅっと握る。


「いいえ、少し話したかっただけなの。……仕事が丁寧なのね」


 そう言って彼女はその場から去っていった。ほんの少しの会話だった。最後の一言も普通であれば皮肉だと取られてもおかしくないのに、彼女の口から発されたからか全く悪意を感じなかった。皆が好意的に接するのもわかる。初めて話したのに、これほどまでに違和感を抱く、というか嫌な気持ちにならなかったのは初めてだった。


 その日から私は気がつけば彼女を目で追うようになっていた。彼女の洗練された振る舞い、その年齢からは想像もできないほど落ち着いた受け答え、大人びた思考にいつしか私は魅入られていったのだ。彼女は時折私に話しかけてくることもあった。私はその度に心臓の鼓動が早まるのを感じつつそっけない態度を貫いていた。




 そんな日々が続いていたのであったが、それは突然に終わりを告げた。仕事の休憩として縁側に座り、外の景色を眺めていたときであった。彼女は何も言わず私の隣に座り、告げた。


「そろそろここを発つことになったの」


 まだ寒い日の朝であった。春を待つ木々は涙を流すかのように雪を払い落とし、蕾を携えている。私はその言葉をなんの驚きもなく受け止めた。ああ、そうか、と。


 私はここで一生を終えるのだという一種の諦念があり、むしろこうして彼女に別れの挨拶をしてもらえるなんて思ってもみなかった。彼女はいつの間にやってきていつの間に去っていくものだと考えていたからだ。だからか、私を驚かせたのはその後の言葉の方であった。


「ねえ、私と一緒に行かない?」


 は、と声が出そうになるのをなんとか抑えた。彼女が私と共に? 何を言っているのだろうと思ったが、それ以上に私の胸には喜びが広がっていった。彼女は私を選んだ。多くいるこの寺の人物の中で、ただ私だけを。その事実は春の陽光のごとく私の心を溶かした。


 しかし私の中にはそれと同時に慣性が働いていた。彼女と共に行くか、それともここでこのまま安寧な暮らしを続けていくのか。私の臆病な思考は揺れ、しかしながらやはり安定を選んだ。


「私はこの暮らしが好きなんです」


 この言葉に間違いはなかった。実際私は毎日の掃除、修行などの見学を好んでいた。毎日欠かすことなく同じように動き、同じように仕事をこなし、同じように生きた。私には旅など向いていないのだと改めて自身を納得させ、もう一度彼女に言う。


「ここから、離れたくはありません」


 やはり、この言葉に間違いはなかった。はずだったのに、なぜか声が震えた。私の中の興味が目覚め、諦念が眠ろうとしていた。変化を恐れ押さえつけた自身の思考に呑まれそうになるのを必死に耐えていた。彼女が答えさえすれば私の日常は元通りなのだ。さあ、答えてくれ。諦めてくれ、と願い続ける。


「……そう」


 彼女は若干憂いたように目を伏せ――――ああ、それは紛れもなく聖女、女神、そういった類のものであったのだ! 彼女のその神聖さ、純粋さはもはや人のものではない。いやだが違う、私は彼女がそんなものだと思っているわけではなく、ただ、彼女はただの人間で、それで私を救ってほしいと思うのだ。何から? 分からない、分からないのだがとにかく救ってほしいのだ。私の中の躊躇やら故郷愛やら諦念はもうすべて吹き飛んで、彼女への忠誠でいっぱいになった。忠誠なのか、執着なのか、それさえ分からないが。とにかく、私は負けたのだ。彼女という人に、お鈴に負けたのだ。だがちっとも悔しくはなかった。ただそこには清々しさだけが残っていた。


「いえ、やはり、考え直しました、私は貴女について行こうと思います」


 私がそう答え直した瞬間彼女はぱっと顔を上げた。いかにもそれは花火であった。真夏の一刹那の美、儚くも散っていくその炎に人々は魅了されるのであろう、彼女にもその部分があった。そうして彼女はどこか複雑そうに、というよりは申し訳なさそうに言ったのである。


「――――ありがとう」






 その後しばらくして皆に別れの挨拶を済ませ、私達は寺を発った。弟子たちはあまりにすんなりと私を受け入れ歓迎した。最も驚くべきものは思っていたよりも寺暮らしへの執着をなくしていた自分だった。それほどまで彼女の神聖には力があったということだろうか。とにかく私は何の問題もなく彼女たちに加わったのだ。


 それからの日々はあっという間に過ぎていった。寺では得られなかった新鮮な刺激、そして世間一般の人々の生活に触れるという経験。私には痛いほどに新しく、そして切実な現実であった。時には知らないものに対する混乱、困惑が心を占めることもあったが戸惑いつつも仕事はやり通した。お鈴はそんな私を暖かく見守ってくれた。


 しかし私の悩みはただお鈴が私と接することがないということだった。旅が始まってからというもの、私は予算管理などの業務を任されていたのだが、それについての話しかしなくなっていた。彼女は事務的な話しかしてくれないのだ。たとえそこに優しい微笑みがあったとしてもどうして喜べようか。




 だんだんと悩みが頭の中を支配し業務が手につかないほどになってきた時、そんな私を見かねてかお鈴は私を息抜きにと砂浜に誘った。なんだか自身の非を遠回しに責められているのではないかという気もしたが、お鈴はそういうことをするような人間ではないと分かっていた。……分かっていたからこそ彼女が今まで私を労うことも、外出に誘うようなこともなかったことが辛かったのだろうか。私自身ですら分からなかった。


 夏は海の季節と言っても過言ではないだろう。潮風が吹いている。この旅を始めて、私は人生で初めて海というものを見た。話には聞いたことがあったが、私はずっと山の中にいたのだ。このみずみずしい色、光を導くその大きな流れは圧倒されるようなものだった。お鈴のあとをついて砂浜を歩いていると、彼女は急に振り返った。


「ごめんね、糸」


 彼女の鈴のような声の音色に私は息が詰まった。久しぶりに業務以外で私の名を呼ばれたような気がした。耳の中に波の音が押しては引いて、揺れていた。


「最近忙しくてあまり話せていないけれど、貴女には今までずっと助けられてきた」


 背景になるのは淡い夕焼けだった。光のなすままにこのまま彼女と融和してしまえればいいと思ったけれど、そんなことは無理だって分かっている。分かっているから、何も言えないままでいる。彼女は砂を踏みしめながら私に近寄り、そして微笑んだ。神子の笑みではなく、それは、明らかにお鈴自身のものだった。


「だけれどそんなにむすっとしていてはいけないわ――――せっかく綺麗なんだから、ね? いつも微笑んでいるのがいいのよ」


 そう言ってお鈴が私を抱きしめてくれたとき、私は涙が止まらなくなり、彼女に縋りついて涙を溢し続けた。神様に分かってもらえなくていい。仏様にだって知られなくていい。彼女だけが分かっていてくれればもうそれだけでいい。ああ、私は彼女を愛しているんだ。誰よりも愛しているんだ。どの弟子よりも、この世界中の誰よりも、私は貴女を愛している。貴女がいなくなってしまったら私はどうやって生きていけばいいかわからない。貴女が死んでしまうのだったら私だって死ぬ。貴女が神子なんかじゃないことは分かってる。そんな奇跡だって偶然の産物に決まってる。それを信じてついてきている弟子たちと私とは違うんだ。私は貴女を、お鈴様を愛している。だけどお鈴様、私は貴女と今ここで死にたい。貴女がこれからより多くの人に出会ってより多くの人を愛すると考えると私は耐えられない。私は貴女の博愛を愛している。だけれどもその博愛が私を傷つけるのだ。


 ああ、どうかこんな旅なんてやめて、私と共に暮らしてくれやしないだろうか。あの寺に帰って質素でゆったりとした生活をもう一度貴女と送りたい。そんなことは声にも出せず、まとまらない思考の中を漂い続けるだけだった。






 とある日、彼女はまた一つの救済劇を創り出した。一度死んだはずの少女を生き返らせたのだ。質素な造りの民家の中、彼女は祈り、そして生命を戻した。


 その少女の兄は号泣して喜び、なんと救世主様にお礼がしたいと言い出した。彼は家の奥の方から何か入った小瓶を持ってきて、お鈴様の前に跪いた。何をするのかと思えば、小瓶の蓋を開け中身を彼女に撒いたのだ。彼女は安らかに目を閉じてそれを受け入れていた。私は驚きと憤りのあまり声も出なくなった。


「塩ですね」


 彼女はどこか嬉しそうに男に微笑みかけた。私はどうしても反発しなければ、この男を否定しなければならないと思った。そうしないと彼女は穢れてしまう、彼女の持つ神聖さが失われてしまうという危機感が私の脳裏に浮かんできたのだ。


「塩だなんて、山奥の人々には高級品ですよ!? その分のお金を貧しい民に分け与えることもできる、それをそんなにも安易に――――」


 彼女が手を上げ私を制止する。私はまるで躾けられた犬のように動くことができなくなる。お鈴様はそんな私に呆れたようにため息をつき、口を開いた。


「そんなことを言ってはなりませんよ、糸。そんなことはあなたたちにはいくらでもできることでしょう。彼は私の身体を清めようとしてくれたのですから……」


 そう言って男に微笑みを向けた。私には見たこともない笑みだった。私は心の中がぐちゃぐちゃになっていくのを感じながら、せめてもの反抗を試みた。


「――――っでも、」


 彼女は続きを言わせぬ瞳で私を見た。こんな風にたしなめられるのは初めてだった。彼女はいつだって思慮深く、私達が過ちを犯してしまったとしても優しく丁寧に導いてくれる。それなのに、どうしてそんなことをするのですか。私が言ったことはそんなに貴女を不快にさせるものだったでしょうか。それとも、それほどまでにこの男がしたことは素晴らしいことだったのですか? だからといってそんなにも厳しくせずともいいではないですか。私の中には抑えきれぬ嫉妬の炎が宿っていた。


「このような事しかできず申し訳ありませんが……」


 男はそう言って頭をかく。申し訳ないなんて思ってすらいないだろう、こいつは。ただの平民だ。これ以上に何もできることはないと分かっていて、それを社交辞令として申し訳ないなんて言うのだ。それだけだ。それなのに彼女はこんな男のどこがいいと言うんだ。貴女がもしこんな男を選ぶのであれば、もう、それは、想像したくもない。


「いえ……ありがとう」


 まるで恥じるような笑み。なんてことだ。彼女は頬を赤らめ、それは、それはまるで――――ああ、やめてくれ。神子が、そのあたりの男に、恋を、だなんて。ありえない。穢らわしい。彼女は誰をも愛し誰にも愛された、博愛主義者ではなかったのか。私は人の感情を読み取るのが得意な方だ。彼女との旅の中でも何度もこの特性が役に立ったことは間違いない。だが、これは、いや、彼女がこの男に感情を動かしたことは確かであろう。それがなんと呼ばれるものであろうとも、彼女はこの男に、この、卑しい男に特別な感情を向けたのだ。そう、私ではなく! 今まで共に過ごしてきた、そして誰よりも貴女のことを愛してきた私ではなく、この町の男を貴女は愛するというのか。ひどい人だ。神子を名乗るのに相応しくない。思っていた通りだった。彼女が神子なわけない。こんな人が、神様だなんて讃えられていいわけがない。ああ、だめだ。どうしてそんなみっともないことになったんだ。


 私は寺で礼儀正しく育った淑女だ。自分で言うのも何だが顔は悪い方ではない。私は彼女のため、彼女と共に歩むために寺の穏やかな暮らしを捨てた。それなのに彼女はほんの少し救っただけの男に頬を染めるのか? その白い肌を火照らせるのか? なんということだ、ひどい、ひどいにもほどがある。私は心の奥底を渦巻くどす黒い感情を抑えることができなかった。




 彼女はその家に一泊した。私達弟子はその近くの宿に泊まった。翌朝お鈴様を迎えに尋ねた。戸を開くと男が出迎え、妹を救ってくれた恩人との話はとても弾んだ、素晴らしい日になったと言って微笑んだ。反吐が出そうだった。その後ろからお鈴様がひょこりと顔を出した。その時私は今まで感じたことのない感覚を覚えた。そのまだ幼い仕草、表情、そしてその割に大人びた言動、思考、それが全て、この瞬間に崩れた気がした。


 その証拠なのか、彼女はこの家を去る時手を振ったのだ。「素晴らしい日になったわ」なんて言って。私は最悪な日だった。






 ああ、もう何も聞かなければよかったのだろうか。信じなければよかったのだろうか。町の中、私が買い出しに出かけたときのことであった。その日は春としてはやけに冷える日であり、私は何枚も着物を重ねていた。少々動きづらく足を痛めたために道の脇に立ち止まり、しばらく休んでいこうかと思っていた。そうしていると、役人たちが道の隅に集まり、何やらこそこそとうわさ話のようなものをしているのが目に入った。


 それはお鈴様が謀反を企てているとの噂であった。どうやら既に将軍様のところにまで話は伝わってしまっているらしい。その家臣によると、しかし人気の多いところで神子を捕らえれば民衆の反乱が起こりかねない。どうしたものか、彼女と弟子だけのときにどうにか捕らえたい、という話であった。


 私はそれを知らなかった。私以外には知らされていた話なのであろうか。彼女は私を見放した? それともこの噂は嘘なのか? 私には彼女が信じられなくなっていた。あの人はいつも私の思いどおりにはなってくれない。私抜きにそんな話を進めているとしても納得がいく。


 そんな考察とともに浮かぶのはどこか恍惚とした気分であった。彼女は悪人であった。謀反を企てるなど、もし表沙汰になれば極刑に処されてもおかしくない。つまり、もしも捕まれば彼女は死ぬのだ。そしてきっと地獄に堕ちるだろう。それほどまでに彼女の計画していることはとてつもないことなのだ。そう、もしそうなるとしたら、私と彼女が唯一永遠に共にいる方法があるではないだろうか。


 共に地獄に堕ちればいい。私が地獄に堕ちるのは他愛ない。これまでに彼女に、そして彼女の周囲に対して抱き続けたこの負の感情を持ってすればもはや地獄行きは免れないのではないか、いやそうであってほしい。――――もし私がお鈴様を密告すれば? そうすれば私は主を裏切った極悪人で、彼女も謀反を企てた罪で大罪人となる。現世で咎められるどころか地獄に堕ちることは間違いない。


 もうそれしかない。私と彼女が共にいるためには、そして、私を彼女に刻みつけるには、これしかないのだ。私の頭の中はそのことで一杯になり、何を買うべきだったかを忘れて帰った。お鈴様はそれを責めることもせず、ただ優しく微笑むだけであった。






 その町に滞在して長い時間が経った。お鈴様がこの町を気に入ったからなのか、それとも何かしらの理由があってか、私達は今までにないほど長く一つの町に滞在し続けていたのであった。普段は何かしらの救済を施して数ヶ月もすればその町を離れる。


 弟子たちも不思議がってはいたが言及するでもなく、ただ居心地のいい宿にしばらく泊まっているのみであった。毎日近くの丘で祈りを捧げ、どこかに困っている人がいれば助ける。そんな形式がだんだんと固まっていき、いつの間にかそれは私が寺にいたときと同じ、毎日同じように生きているだけになっていたのだ。


 私が彼女と共に来た理由はなんだったのか、もう、あの寺で二人で穏やかに暮らせばよかったんじゃないか。だんだんと心の中を後悔、いや、疑心が渦巻いていった。




 そんな最中、彼女は弟子達を夕食に招いた。普段彼女は一人で食事を摂ることがほとんどで、しかもその場で弟子が全員揃うなど今までになかったことであった。宿の大部屋で私達は向き合って座った。


 弟子達は皆同じ器を手に持ち、同じ食事を目の前にし、皆同じように同じ釜の飯を食った。それは彼女も例外ではなく、庶民の食う質素な食事を前に何も言わなかった。ただ私だけが何も食べる気にはなれなかった。彼女の企てに関する噂で頭が一杯で、食欲も何も湧いては来なかったからだ。


「なぜこのようなことをなさるのですか、私どもとこのような質素な食事を摂るなどと……」


 弟子の一人が言った。そこにはいかにも恐れ多い、といった感情があった。私も同じような考えであった。だが彼女にも何かしらの思いがあるのだろうと思っていたため触れなかった。


「私達は、共に救われるための旅の仲間です。いえ、さらに言うのであれば家族です。これだけの期間共にいたのですから、私達の中には強い絆が、縁があると言えるでしょう」


 彼女は一旦箸を置き、話を続ける姿勢を見せた。弟子達も同じように、話を聞くため箸を置く。私はそもそも箸をとっていなかったため置くも何もなかった。


「食は、命です。命を共にするということは、運命を共にするということです。私達は今、今後の運命を共にすると誓っているのですよ」


 その言葉に弟子は皆声を漏らし、その感動を各々言葉にした。声は出なかったが、私も同じであった。自らの疑念を恥じた。私だけが省かれているなんて考えたのが馬鹿だった。彼女がそんなことをするだろうか。いや、するわけがない。慈愛に満ちた清廉潔白な彼女が、私ただ一人を省いて内密的に話を進めるようなことなどあってはならない。ありえない。なぜ疑ってしまったのだろうか、という後悔の念に駆られている時、彼女は立ち上がった。彼女は桃の枝を持っていた。かすかな恋の色だった。その長い睫毛が、美しい黒髪が、この部屋を柔い色に染め上げていくようだった。桃の香りが侵食していく。皆の視線は彼女に集まり、崇拝の姿勢は崩れることなどない。


「ただ、皆がそうであればいいのだけれど」


 その場は沈黙で満たされた。屋敷の壁に吹き付ける風の音、どこか遠くの部屋でわいわいと騒ぐ声。それはどういうことだろうと考える前に私の心中に自然と答えが出たのだ。そしてその瞬間彼女も同じように言葉を発した。


「……この中に私を裏切る者がいます」


 彼女は急に改まって言う。弟子たちがざわつく。それは私ですか。自分ですか。そう言っては喚いて、焦って、ああ、なんてことだ。彼女は私の謀反心を見抜いていた。私のこの抱え続けた疑心を、恨みを、愛の裏返しとなったこの裏切りを知っていた。けれど違う。違った。これからもずっと私は彼女とともにいよう、裏切りなどやめようとついさっき考えを改め心を新たにしたところだったのだ。彼女はそれに気づいていないのか? それとも、気づいていて、わざとこうしているのか? わからない、彼女は、私を連れ出してくれた彼女は、もう、何を考えているのか分からない。


「それは私がこの桃の枝を与えるものです――――その者も、きっと辛いのです。ああ、どうか彼女に救いを――――」


 彼女は憂いを帯びた瞳でその手の枝を見つめ、そして祈る。私のためだけに祈る。その姿は神話の女神達にも劣らないであろうというほどに美しく、しかし、もう穢れてしまっているのだ。ああ、もう、だめだ。この人はもう、少女じゃない。私の知る無邪気で清廉なお鈴様はいなかった。彼女は私に歩み寄る。言われなくても、こんな晒し上げるようなことをしなくても、ここまできたら皆分かっているはずだ。なぜこのようなことを――――


「糸」


 私の目の前に淡く色づいた桃の花が置かれ、食器と重なってころんと小さな鳴き声を上げた。最も美しい時期を失い、これからは衰えてゆくばかりの……そう、それは彼女と同じ。完全無欠の美しさでさえも、衰えゆく時の流れには逆らえないのだろう。彼女は衰えるというほどの歳ではない。むしろ歳を重ねてさらに大人らしい魅力を身につけていくのだろう。けれど私はそれを美しいとは言えない。無垢な少女のまま、博愛を抱えた神子のままでいてほしかった。ああ、売ろう。彼女を売ろう。美しいままに迎える人生の終幕はきっと彼女にとっても幸福なことだろう――――そして私も彼女と死のう。そうすれば二人で幸せになれる。


 私は目の前のその手を払って走り出した。木々の中を掻き分けて、沈みゆく陽の熱さに身を焼きながら。枝が着物の裾を切るのも気にせずに。中には桃の木らしきものもあった。枯れゆく花びらを踏み散らかした。生まれる実のことなど知らない。たとえそれがいかに甘く、みずみずしく、かわいらしい実であろうとも、衰えの先の産物であることに変わりはないのだ。そうして私は彼女を否定しながら走り続けた。日をまたぐのも気にせず走り続けて、ようやく、ようやく将軍様の屋敷にたどり着いたのである。そこからは必死に訴え続けた。あの人がどれだけひどい人で、そして私があの人を慕っていたのにどれだけ裏切られ傷つけられたか――――






 ――――はあ、はあ! 彼女はそういう人だったのです、偽善を振り回し誰にでも優しく接して、わたくしのことはちっとも見てくれなくなった。そんな彼女にみな夢中なのです。それがわたくしは許せない。憎くて仕方がないのです。なぜあのような男に惚れてしまったのでしょうか、ああ、なんと穢らわしいことでしょう。あの方には不釣り合いだ。だからといってわたくしがふさわしいとは申しません、ただ、あの人はすべてを愛し誰かを愛さぬ博愛主義を貫いているべきであったのでございます。いえ、それはやはり違う、はてわたくしは何を望んでいるのか――――ああ、そんなことは問題ではありませんね、ええ。分かっております。わたくしが接吻をするのが神子様でございます。囲んで逃さないでくださいませ。あの方はきっと逃げやしないでしょうが。それがきっと神子様の幸せでしょう。あの方はわかっておられる。そしてそれを受け入れてわたくしと堕ちてくださるのだ。それが幸せだと言ってくださるのだ。だからこそあの方はわたくしを摘発しても追放はしなかったのです。つらそうなお顔をされたのはわたくしが逃げ出すとわかっておられたからだ。ええ、早く殺して差し上げるのがよろしい。わたくしもそれについてゆくつもりです。……わたくしも、取り入られているのではないか――――と? いえ、いえいえとんでもない。そんなわけがありません。少なくともわたくしはあの人が将軍様に背こうなどしたことについては反対だったのです。あのようなことをするのは愚かな人間だけだと思いますよ、ええ。ですからすぐに捕まえてしまいましょう。居場所は分かっております。放っておけば何をしでかすか分かりませんものでね、急いだほうがよろしいでしょう。今頃は弟子とともにお祈りをしている時間でしょうから。毎日お祈りを捧げる丘がありますのでご一緒に参りましょう。今ならきっと簡単に捕まえられます――――






 密告には成功した。よくもまあ、お役人様もこんな支離滅裂な訴えを聞いてくださったものだ――――と冷静になって思うが、とにかく、うまくいったからにはそれでいい。それでいいのだ。私は、私達はそれでいい。それくらいがふさわしい。支離滅裂で、継ぎ接ぎの、古着のような、そんなみすぼらしい関係でいい。それくらいでいい。


 彼女は今日もいつものようにあの丘で祈っているだろう。あの場所で弟子たちに囲まれ、その艶のある黒髪を風になびかせるのだ。見たものすべてが魅了されるような、女神のような、悪魔のような、そんな彼女を私が殺す。そう考えると不思議と笑みが溢れた。彼女は私の恩人だ。私を連れ出して、外の世界を見せてくれた。限りない博愛を見せてくれた。彼女が悪魔なら私は悪魔に命を売った女だ。ああ、もうそれでいい。私は悪魔に命を売った! 悪魔と契約を交わし、主を殺す呪いにかけられたのだ! そう、私こそが裏切り者だ。誰よりも貴女を愛したがゆえ、それなのに貴女が私を見てくれなかったがゆえの悲劇、ああ、ああ、私だけが貴女の特別でありたいと願うのだ。




 役人を連れ一歩、一歩とあの丘に、彼女の死に近づいて行くたびに脳の奥底から焼け溶けていくような快楽に苛まれていく心地がした。自身がどれだけの罪を犯そうとしているのか、弟子たちは一体私をどんな目で見るのか、そんなことはなにひとつ問題ではない。私が彼女を殺し、そして私も死ぬ。その恍惚に浸っているだけなのだ。早朝のまだ何にも侵されぬ空気を切り裂いて彼女のもとへ向かう。


 弟子たちのささやく声が風に乗って聞こえてきたような気がした。その方角を向くと、やはり思っていた通り遠くにお鈴様と弟子たちがいるのであった。合図などする意味もないほどに彼女は主らしく神聖で高潔であった。役人たちを待機させ静かに近づく。触れられる位置まで来た時、彼女は振り向いてこちらを見た。


「こんにちは、お鈴様」


 今まで通りに挨拶をする。彼女は白装束をまとっていた。ああ、やっぱり貴女は何だって分かっている、分かっていてあんなひどいことをしたんだ。それでも構わない。ここからは私の夢の幕開けなのだ。私の希望が叶い、お鈴様と共に絶望に至ることができるんだから。


 驚きもせずこちらを見る彼女に私は口吻をした。話に聞くような甘い味はしなかった。それを合図に兵士たちが彼女を取り囲む。これが私の愛だった。恨みだった。執着だった。私の愛が貴女を殺すんだ、お鈴様。あんな男のことなんて忘れて、最期に私のことだけを考えていて。彼女は私のことを恨んだりはしないだろう。貴女は聖女だから。それならせめて貴女の記憶に私を鮮明に刻みつけさせて――――






 処刑の日取りはあまりにも早く決まった。異例の事態だとは言われていたが、それほどまでに彼女の影響を恐れていたのであろう。彼女が捕らえられてから数日ほどしか経っていないうちに罪が確定したのだ。本当にそんな計画を進めていたのか、とも思ったが今更そんなことを知ったとしても何の意味もなかった。


「……これも運命だった」


 小さく呟いた。彼女は町の中心で磔にされている。しかしその美しさが霞むことなどない。そうして見せしめにされてもなお彼女は神聖さを保ったままである。周囲に警備の役人たちがついている。信者たちが騒ぐ。


「ねえ、きっとそうですよね?お鈴様」


 喧騒の中、私の声なんて聞こえやしないだろう。


「私は貴女に救われて、貴女を殺すために生まれてきたんです」


 磔の神子は何も言わない。ただまっすぐに前を見据え、己の運命を受け止めている。私はやはり彼女が好きだと思った。その凛とした表情、既にこの世を悟ったかのような考え方、そしてその瞬間ふと彼女が私を見た気がした。咄嗟に手ぬぐいで顔を隠した。けれど意味はない。私を見る彼女の目からは何の思いも感じられない。すぐに目線はどこか遠くへと切り替わった。貴女にとって私はその程度でしょうね。でも私は違う。私は、本当に貴女を想っていた。


「どうか来世では共に居られますように」


 空に炎が紅く上がる景色。心に浮かぶうっすらとした絶望を感じながら、私は微笑んだ。もう取り返しがつかない。けれどそれでいい。


「……私は地獄行きでしょうけれど――――貴女に堕ちていただけるなら、幸せですから」


 焼死する彼女もどこか笑っているような気がした。けれどきっと気のせいだろう。彼女は私との絶望に満ちた未来を喜んだりしない。私の頭がおかしくなったのだろう。死体がうねって笑って見えるだけかもしれない。けれど、もし、本当に笑っていたのなら――――






 ――――ええ、そうです、わたくしが神子売りのお糸です。神子様を裏切ったことは天にでも何にでも詫びましょう。ですがそんなもの今となっては価値などないのです。意味だってないのです。そう、此処にある銀貨も同じでございます。こんなものはもう必要ありません。どうかお受け取りください。もういいのです。それは貧しい人々のためにお使いください。……関係ない、ですか。分かりました。ではここに置いてゆきます。わたくしには必要ありません。冥土の土産に銀など要りませんでしょう。わたくしはただ、あの方と共に堕ちたいのです――――






 彼女の最期、そのそばには、まだ青い桃が転がっていたということです。


 さて、その後のお糸の話はするまでもないで御座いましょう。これにて神子売りのお糸の物語、終幕で御座います。



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