第10話

 彩矢は真剣な面持ちでゴクリと唾を飲み、身に着けたエプロンのリボンをぎゅっと握って結ぶ。

 今日は火曜日だ。

 先週は店長に頼み込んで、彼に会わないようにさせてもらったけれど、今日からはそうもいかない。

 それに、トイの挙動に慣れるという意味では、木曜や土曜のバイトの時間、それに日常生活を過ごしてきて、多少なりとも慣れてきた……はず。

 彩矢の肩の上に乗ってにこにこと笑う小さな存在をちらりと見やる。どうやら彼女は肩の上を定位置と定めているらしい。特にどこかへ飛んでいくでもない時は、彩矢のどちらかの肩の上に座っていることが多かった。

 そんなトイと過ごす日常に慣れてきて、彩矢は友里恵が言っていた、ある程度放っておく、を実践出来てきたように思う。

 いつも通り過ぎる美味しそうなパン屋さんのウィンドウに張り付く勢いで覗き込む様子や、彩矢の好きな雑貨屋さんの前で服を引っ張られたりしたけど、何も見なかったつもりでスルーしたり、苦笑しつつ5回に1回はお店に入ったり。

 友里恵のトイと遊んでいたと思ったら、飛んできた綺麗なちょうちょに惹かれたのかふらふらと飛んでついていこうとしたのを捕まえたり。

 そっと近寄ってきたからどうしたのかと思ったら、道の向こうに小田の姿が見えて、自分も体の向きを変えて気付かれないように過ごしたり。

 なんとなく、本当になんとなくだけれど、この子との付き合い方が分かってきたような気がする。


 それらを乗り越えたという妙な自信もあって、今日この後の自分のトイの挙動を、先週の時点で彼らがイチャイチャしていたのはもう見たのだし、あとは自分がそれをきちんと店員としてスルー出来さえすれば、別にどうってことない、はずよね!とロッカーの前で握りこぶしを作って気合を入れる。

「おはよう彩矢ちゃん、それなぁに?」

「あ、美弥子さんおはようございます。イエ、ちょっと気合を……あはは。」

 集中しすぎて休憩部屋の扉が開いたのに気付かなかったらしい。後ろから声をかけられて振り向くと、出勤してきた美弥子が彩矢の握りこぶしを見て、若干怪訝そうに聞いてきた。

 彩矢はすぐに両手を開いて、ひらひらと振って見せる。気合を入れている状態を見られるのはちょっと恥ずかしくてぱぱっと全身をはたいた。

「ふぅん……、今日は大丈夫そう?」

「……はい、頑張ります。先週はすみませんでした。」

「いいのよ、気にしないで。ゆっくり慣れてくしかないから、頑張ってね。」

 にっこりと優しく笑いかけてくれる美弥子は、今の彩矢にとって一番頼れる素敵なお姉さんだ。彩矢が彼女へ向ける信頼と好意がさらに跳ねあがるのを自覚しつつ、かけてくれた言葉に素直に頷いた。



 バイトを始める前までは、来たらどうしよう、いやいや大丈夫、でもでも、なんて頭の中で色々と考えてしまっていたけれど、いざランチタイムとなりお客さんが来始めれば、忙しさで細かい事は思考の片隅に追いやられていく。自分のトイがあちらのお客様、こちらのお客様のトイへとふらふらと誘われていく様子も気になるし。何か粗相をしやしないかと、気にかけるだけだけれどそれでも都度視線を投げていると、それはそれで少々疲れが増す気がして、以前よりは余裕が無いかもしれない。

 とはいっても、カウンターの奥、店長の定位置の上の方に置かれた時計の針は何をしてても追いかけてしまう。いつもならば忙しく動いていればあっと言う間に過ぎる時間が、今日の彩矢には、やけに遅くゆっくりに感じられた。


 カランカラン、と店の入口ドアに吊るされたベルが鳴り、来客を知らせてくれる。

「いらっしゃい、ま……せ!お好きなお席へどうぞー!」

 四人掛けの席の対応をしていた彩矢は、反射的にドアへと振り向いて声をあげた。不自然な間は察してほしい。

 後ろ手にドアを閉めていたのは、いつ来るのか、今日も来てくれるのか、いやいっそ来ないでほしい、と色々考えつつも、結局はいつ来るのだろうと彩矢がずっと待っていた、彼だった。

 ドアの所で案内を待つ優斗と目が合った瞬間、優しく微笑まれて、彩矢の胸はドキリと高鳴る。そのまま、異常に速い心拍のせいなのか、頬の血行が良くなってしまっている自覚がある。

 だとしても、今は仕事中。目の端を自分のトイが飛んで行って、彼のトイの手を取って嬉しそうに踊っているのが見えても、仕事中なのだから、案内とサービスをしなければ。

 ちらと店内を見まわした彼は、今日は空いていたいつも座る窓際の席へ迷いなく進んで腰かけた。

 彩矢は一旦カウンターへと戻り、お冷とおしぼりをトレーに用意してから、ごくりと緊張と早い心臓の音もろともむりやりに飲み下す。

 そして、意を決したようにトレーを持ち、笑顔笑顔と唱えながら彼の座った席へ歩み寄った。

「おおお、お冷になります。ごっ、ご注文はお決まりですか?」

「ありがとう。えと、いつもの、ブレンドとBLTサンドでお願いします。」

「ぶ、ブレンド、とBLTサンド、ですね、少々お待ちください」

 大丈夫、たぶん。ちゃんと出来てる。

 テーブルの上で手をつないで座り込んでいるトイ二人がじっとこちらを見つめているのなんてスルーよスルー。

 注文はもらえたし、あとはカウンターに戻って、下げたお皿を洗っていれば良いだけだし!

 彩矢は仕事をやり切ったつもりで、ほうっと息をついて踵を返したのだけれど。

「あの、ごめん。いまちょっとだけ、いいかな?」

 落ち着きかけた心臓が再び大きく脈を打った。

 一世一代の大仕事が終わったと気を抜いた所に、優斗から声をかけられてしまった。お客様に声をかけられて、何も反応せずにいるのは店員としても人としても良くはない。彩矢自身としても、誰かに話しかけられたならきちんと対応したいと思う。

 つまりは、振り向いて、返事をするしかなかった。

「っあ、ハイッ!な、んでしょう?」

 声がひっくり返ってないかだけ、心配になったけれど、とにもかくにも何の用事なのかを聞かなければ。

 座る優斗をちらりと見ると、また優しい笑みを浮かべていて……ほのかに頬が赤く見えるかもしれないのは、窓から差し込む光の加減か、それとも……彩矢の欲目だろうか。

「あー、仕事中にこういうのは、あんまり良くない、かな……いいです?」

  こちらを気遣ってくれる一面が見えて、また好感度があがる。いい人、なんだなとまたキュンと胸が高鳴った。

 最後のいいです?は店長に聞いていたらしく、どうやら許可を得られたらしかった。

「あの、ごめんね、こんなタイミングで。ほら、えっと、俺と君の……こいつらが、さ、こんな感じだから……」

 優斗が指さした先では、もう彩矢を見上げていたトイ二人はおらず、手と手を合わせ今度は頬を寄せてくっつきあってニコニコしている。

 ……なんというか、あまりにも目に余るラブラブっぷりで、居た堪れない気持ちになるのだけれど、口ごもった様子から優斗の方も少々思うところはあるらしかった。

「ああ、はい……あの、めちゃくちゃ、びっくり、しました……」

「そう、だよね。それでさ、良かったら、今度俺とゆっくり話をしませんか?」

「お話、ですか?」

「うん。仕事中じゃ君も落ち着かないだろうし、あんまり時間とれないでしょう。良ければ改めて時間をとって、俺と君の、お互いに知りたい事や気になることを教えてほしいし、知ってほしい。どうかな?」

 穏やかに、優しく言葉を選んで聞いてくれる優斗の心遣いが、彩矢の心へじんわりと嬉しさとなって広がった。

 そして、自分のトイが彼のトイに惹かれたのは、こういう部分を察したのかな、と思って我が分身ながらでかした、と褒めたくなった。

 とはいえ、今はバイト先で、彼にどうかなと聞かれた所だ。

「もし外で会うのが怖いとかあったら、ここならどうかな。見知った場所の方が安心するでしょ。店長さんや美弥子さんもいるから、俺が何か変な事しそうになっても守ってもらえそうだしね。」

 テーブルをトントンと長い指先で叩く仕草が様になるな、なんて一瞬見惚れてしまいそうだった。

 ヘンな事、をしそうな人にはとても思えないけれど、それも彼なりのやさしさなのだと分かって、彩矢は緊張が解けてゆくのが分かる。

「っふふ、お気遣いありがとうございます。それじゃあ、あの、日曜なら空いてるので……お言葉に甘えて、ここでも、いいですか?」

 彩矢が顔を綻ばせて返事をすると、優斗はそれは嬉しそうな顔をしてくれた。ああ、その目じりの下がった優しい顔、すごく好きだなぁ。

「もちろん!っと……恥ずかしいな、ハハ……それじゃ、えと、日曜のランチにしようか。12時頃でもいい?」

「はい、大丈夫です。」

 もう、彩矢の胸のドキドキは最初ほどではなく、緩やかに収まってきていた。頬の熱は冷めなかったけれど。

「ありがとう、楽しみにしてる。」

「こちらこそ……楽しみにしてます、ね。」

 ホッとした顔で、トイ達の頭を撫でる優斗が可愛くて、年上の男の人に対する感想には相応しくないかもしれないと思いつつ、でもそんなところもいいな、と彩矢は思った。

 店員とお客という立場上、彩矢はいちおうペコリと一礼してからその場を後にする。


 他のお客様からの視線を感じたけれど、少しずつ慣れてきた営業スマイルで返した彩矢は、なんでもない顔を保ちながらカウンターの中へ入った。

 店長へ優斗の注文を伝えようとしたところ、目が合った店長は口元をあげて既に用意を始めていた手元を示していた。ならばと彩矢は少し奥まった位置にあるシンクに手をかけた……のだけれど、お客様達に背中を向ける体勢になった途端、顔中に熱が集まるのを感じる。ふわふわしていた気持ちが、ちゃんと現実に返ってきた事で、恥ずかしさと胸の鼓動が再び彩矢に襲い掛かってきたのだ。咄嗟にシンク下から洗剤を取り出す振りをして蹲り俯いて、叫び出したいのをなんとか堪え、声にならない声を必死で押し殺したのだった。

 その日のランチタイム、結局彩矢のトイは優斗の会計をしてドアの向こうへ消えてしまうまで彩矢の元に戻っては来なかった。

 そして戻ってきた時には、満面の笑みで楽しかったぁ!と言わんばかりに彩矢の肩の上で器用にごろごろと転げまわり全身で感情を発露していて、彩矢は恥ずかしいやら身の置き場がないやらで苦笑するしかなかったのだった。

 



 金曜の朝、彩矢は一限目の講義を終えたあと、友里恵を捕まえていた。

「ゆりちゃんお願い助けて……!」

「えっ、やだ、なにどうしたの?また小田君関係?それともこの子がなんかした?」

 授業終わりの友里恵の腕に縋り、見上げる彩矢は必死な顔をしている。その様子を見た友里恵は、少し前に彩矢が苦手そうにしていた小田が何かしてきたのか、それともまたトイ関係で何か悩んでいるのかと、そう思ったようだ。

 実際、そのどちらであっても彩矢は悩んだだろうけれど、今日はそのどちらでも無かった。

 彩矢はふるふると首を振ったあと、力なく口を開く。

「あのね……服が……」

「服?服がどしたの?別に普通じゃない。」

「着ていく服が、なくて」

「無い、って、どこに着ていくの?」

 友里恵が聞いた途端、彩矢の頬がぽっと赤く染まる。

「ふぅん、よっし彩矢、ちょっと早いけどランチ行くわよ!勿論詳しく教えてくれるんでしょ?親友の恋バナなんて最高の話のネタだわぁ」

「や、ちょ、まだ私何にも言ってないのに!」

「そんな顔してたらすぐ分かるって。で?どこで会ったの?どんな人?カッコいい?」

 今度は逆に彩矢を捕まえた友里恵によってキャンパス内のカフェへ引きずられながら、彩矢は矢継ぎ早に繰り出される質問に目を白黒させ、答えられる範囲で教えたのだった。



「……それで、日曜にお話することになったのはいいものの、着ていく服が無い、と。」

「その通りデス……。」

 いつものカフェに落ち着いた二人は、本日のランチであるロコモコと彩矢のアイスラテ、友里恵のアイスコーヒーをそれぞれつつきながら、彩矢の悩みについての話を再開していた。

 火曜に優斗から誘ってもらった彩矢は、どこかまだ実感できずに、お話かぁ……どんな事聞かれるんだろ。あ、私も聞きたい事を考えておいた方がいいのかな、などとぼんやりするにとどまっていた。

 開けた翌日は朝から講義が詰まっていて、そちらにいっぱいいっぱいだったのだけれど。

 木曜、またランチタイムのバイトに入った彩矢は、なんとか平静を保ちながら食事を運び、食器を下げと体を動かしていた。

 それでも、やはり時間は気にしてしまっていたし、優斗が来店すると、二人とも一瞬どきりと止まってしまう。ただまぁ、ぎくしゃくしつつも、にこりと笑顔を交わして、彩矢なりに普通を保ち、なんとか乗り切った。と思っていたのに。

 ふとカウンターの中から店内を見まわした際に、目が合ってしまった。そのタイミングで優斗が、彩矢に向かって、日曜楽しみにしてる、と口パクで告げてきたのだ。

 瞬間、ぼんっと真っ赤になった彩矢はコクコクと頷くしかできず、再びシンクでの食器洗いに逃げたのだけれど……そこで自分の姿を見下ろした事でやっと気が付いた事があった。

 バイトでない時間に会うという事は……いつも着けているエプロンも無く、動きやすい服装を心掛けている仕事用の服じゃダメじゃない?と。

 それどころか、彩矢だって年頃の女性だし、気になっている人とお喋りするとなれば、なるべく可愛いと思われたい、相手にとって魅力的にうつりたいと思うのはごく自然な事で。

 バイトを終えた彩矢は、急いで帰って、クローゼットを全開にして中身と向き合った。が、その中にしまわれている手持ちの服達を目の前にし、同じくクローゼットを覗き込んでいたトイと目を合わせ……無情にもトイはふるふると頭を振った。

 ですよね……、と納得した彩矢は、昼間とは打って変わってさぁっと血の気の引いた顔で、がっくりと肩を落としたのだった。


「デートなんてした事なかったし……何着たらいいのかもよくわかんなくなっちゃって……」

「なるほどねぇ。うーん、あ、あれは?ちょっと前に何人かで出かけた時にスカート買ってなかった?」

「アレ、は……もうバイトの時に一回着ちゃってる。同じのを着るのって、なんかこう、手抜きしてるって思われたりしない…?」

「そんなに気にしないもんだと思うけどなぁ。まぁでも彩矢が可愛くなる服を買うのは賛成よ。」

 ウィンクして見せる友里恵は自分に似合う服をよく解っているみたいで、いつみてもおしゃれだし、一見シンプルに見えても友里恵の華やかさを損なわずに引き立てているように思う。

 彼女に見立ててもらえば、まず失敗することは、ない、はずだ。

 テーブルの中央でそれぞれの主人からロコモコを少しだけ分けてもらって、一緒に食べているトイを見る。友里恵のトイも彩矢のトイと同じワンピースを着ているのに、どこか輝いて見える気がするのは、髪型の違いかそれとも本人の自信の表れなのか……。

 ともかくも、自分で選ぶよりは少しでもデートに挑むのにマシな恰好になれるに違いない。

「う……お手柔らかに、お願い、します……。」

「大丈夫、任せて!そんなにお値段しなくって、でも可愛い服を沢山置いてるセレクトショップに行くから。とびっきり可愛くなって、その彼の目をばっちり彩矢に釘付けにさせなくっちゃ」

 お財布に優しそうなのを聞いてホッとした。バイトしているとはいえ、自由に使える金額はそんなに多くはない。友里恵の気遣いに感謝しつつ、ありがとうと口にした。

「さ、そうと決まったら早く食べちゃって、買いに行こ。君らも早く食べちゃいなさいね。」

 ウインクしながら彩矢を見た友里恵は楽しそうに言い、トイ達の頭をツンとつつく。行動の早い友里恵に促され、まだ半分ほど残っていたロコモコを急いで口にする彩矢だった。



 友里恵オススメの店に着いてからはトイも共に4つの頭をうんうんと唸りながら迷った。そして、友里恵が彩矢に試着させたいくつかのパターンの中から彩矢が最終的に選んだのは、袖がゆるっとしたアイボリーのカーディガンと、少し薄い生地で細かいプリーツが揺れるロングスカートだった。

 鏡に映った自分は全体にふんわりとした印象で、大人しめの彩矢を派手にならずに可愛らしく見せてくれた。

 これなら……優斗さんも気に入ってくれる、かな。

 鏡越しに肩に乗るトイと目が合うと、昨夜と違ってうんうんと頷いて、いい笑顔で賛成してくれている。それを見て彩矢はどこか誇らしい気持ちで自分をまた見つめるのだった。


 試着室の鏡を見つめて、ふふっとはにかむ彩矢はどこからどうみても恋する女の子で、それはそれは可愛かった。

 そんな彩矢の変わりようを見ていた友里恵と頭の上に乗っていた彼女のトイは、腰に手を当てて満足そうに頷いていた。



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