悪魔令嬢はモテたくない~正体がバレたら即封印!?~

光杜和紗

悪魔令嬢と四人の騎士

プロローグ

哀れなパトリシア令嬢

 少女は古ぼけたテーブルに飾られた写真立ての中で浮かべている穏やかで幸せそうな微笑みとは程遠い修羅しゅらの表情を浮かべていた。

 ぶつぶつとひたすらに呪文じゅもんを繰り返しながら、傷んだ高級絨毯こうきゅうじゅうたんを剥がした床にナイフを振り下ろし、魔法陣を刻んでいる。

 写真の中の彼女は今より幾分いくぶんか幼く、親の愛情に守られて、貧乏貴族ながらも幸せに暮らしていた。

 それが今は純粋に輝いていた瞳の下に消えぬ隈があり、艷やかだった肌は荒れ果てて、唇は皮が浮いている。


「姿をあらわしたまえ……姿を現し給え……姿を現し給え……」


 魔法陣を完成させ、少女は魔法陣の端で中心部に向かってひたすらに唱えた。

 すると、魔法陣のいたるところに配置されていた蝋燭ろうそくに灯された炎がゆらゆらと揺れ始めるではないか。

 少女はずっと片手に古ぼけた仰々しい首飾くびかざりを握りしめていた。元は美しい黄金色だったろうに、今はところどころ赤茶けたそれの中心には苺のような真っ赤な魔石ませきがある。


「姿を現し給え……偉大なる悪魔よ……私の望みを叶え給え……契約のあかつきにはこの身の全てを捧げん……」


 ズタズタに傷のある床が魔法陣の形に光り輝き始める。

 成功したかと少女は魔法陣の中央に駆け寄る。しかし、誰もいない。――失敗だろうか。

 そう思った時、少女は蝋燭が激しく燃え上がっており、尋常ではない煙が立ち込めていっていることに気がついた。

 不思議と咳き込むことはなく少女は部屋が黒煙こくえんに覆われてゆくのを緊張した面持ちで眺める。



『アタシを呼び出した愚かなお嬢さん、身の程知らずのか弱いお嬢さん』



 煙の中から鈴の鳴るような声が聞こえてきて、少女はアッと声をあげた。

 自分しかいなかったはずの空間に確かに誰かの気配を感じ、少女の額に汗が滲む。


『怖がっているの? 悪魔が恐ろしいの? ――それなら何故アタシを呼んだの?』


 まるで詩でも詠みあげるようなその声は、黒煙に紛れてゆっくり移動してゆく。

 黒煙の中で、値踏みするように少女をじっくり見ながらその周りを歩いている。

 その者の姿は見えないのに、黒煙が誰かが歩くのに合わせて風が吹いたようにゆらめくのだ。


「私と……契約してください」

『契約?』


 悪魔を呼び出すなんて契約しか用はなかろうに、その可愛らしい声はわざとらしく驚いたように繰り返してみせた。

 少女はなんとか凛と背筋を伸ばしているが、瞳はきょろきょろと自分の周囲を移動する気配を探している。


『ンー、悪魔との契約には代償がいるわよ。知っていて?』

「百も承知です」

『お嬢さんはアタシに何をくれるつもりなのかしら?』

「全てを」


 少女は声が震えそうになるのを押さえ込み、ハッキリとそう告げた。

 悪魔の嬉しそうな笑い声がウフフフッウフフフフッと響いている。


『大胆なこと言うじゃなァい。そうまでして叶えたい望みは何?』

「――復讐です」

『復讐! アハハハッ、いいじゃない。復讐が動機の契約は好きよ、覚悟があって。欲望での契約は後からピィピィ泣く奴が多いけど、復讐を誓った人間は真っ直ぐで、なんでもアタシ達にくれるもの!』


 嬉しそうな声は少女の周囲を弾み、黒煙がふわりふわりと揺らめいている。まるでスキップでもしているかのようだ。


「我がノイシス家は没落ぼつらくし、父も魔物に首を落とされました。今や領地のほとんどが魔物に奪われました。王宮に助けを求めても、私のような田舎者の貴族のはしくれは相手にされません。――この身を穢してでも殿方に助けを求めようと覚悟を決めましたが、私など門前払いでした。皇太子も名のある騎士や魔道士も、もっと美しく洗練された令嬢を望まれているのでしょう」


 もしも名のある殿方の家に入ることができれば、領地を救ってもらえるのではないかと思った。けれどそれは分不相応の計略でしかなかったのだ。

 蝶よ花よと父に育ててもらい、町の人々に愛され、世界は美しいものだと少女は信じていた。けれど――この世界は所詮しょせん、権力や名声が全てなのだと思い知らされたのだ。


『それで? アンタが望むのは領地の奪還ってこと? 魔物に復讐を?』

「違う! 違う、違う――私は王国に目にものを見せてやりたい!!」


 少女は叫んだ。

 写真立ての中の純朴な少女はもうどこにもいない。

 ここにいるのは恥辱ちじょくと絶望を知り、怒りに燃え、そして燃え尽きたひとりの女だ。

 燃え尽きて尚、くすぶりの止まぬ鬼だ。


「皆、私の声を聞かなかった。私に興味なんてなかった。誰も私のことなんか気にしてもいない。恥ずかしかった……!! 屈辱を知ったあの日から、私は故郷こきょうの枯れた草木や泉にももう憧憬など持てなくなってしまった!! 私が見たいのはもう故郷でなく、奴らが私の足元にひれ伏す姿……!!!」


 愛するはずの故郷を想えぬ自身に疲れ果て、少女は灼熱しゃくねつの涙を流す。

 自分がこんなに醜い存在だなんて知りたくなかった。けれど少女は知ってしまった。そして、しかし自分はどうにも中途半端だった。


『驚いた、王国が欲しいのね』

「手に入ったら、こんな国などいらないと捨ててやりたい」

『王国を手にいれることすら手段ってこと。大胆すぎる望み、叶えるには相当な代償がいるわよ』

「全てを、捧げる。そう言ったわ」


 復讐を夢想しても叶える能力など自分にはないと少女は重々承知しているのだ。

 失って困るものも最早ない。悪魔が来なければ、命を絶とうと思っていた程だ。


『アタシ、もう随分永いこと身体からだがないの。あなたのソレ、くれる?』

「あげたらどうなるの」

『んなもん死ぬに決まってるじゃなァ~い!! あなたの憎い奴らが泣き叫ぶところだって見ることなんかできないわよ。死んじゃうんだもの』

「けれど、そうしたらあなたが私との契約を守ったかどうか分からないのでは……!?」

『まァね~』

「まァねって……!!」

『別に契約しなくたっていいのよ、コッチは。――復讐なんてやめときなさいよォ、まだ若いんだから。恨みなんて忘れて、適当な男引っ掛けて結婚なさい。アタシの魅了チャームを一回だけ使うってんなら、別に大した代償はいらないし』


 あっさり引き、のらりくらりとそう言う悪魔は恐らく古ぼけたテーブルあたりに腰掛けたのだろう。煙がぽすんと一瞬、浮き上がった。


「…………、あなたは魅了チャームの悪魔だと」

『そうよ。どんな人間だって虜にして思うままにしてやるわ♡』

「私に目もくれなかった男たちも好きにできる?」

『モチロン♡』


 鼻にかかった甘えたような声は、毒のように少女の心を揺さぶる。

 ごくりと唾を飲み込み、少女は言った。


「――いいわ。契約する。私になって王国に復讐をしてくれるなら」

『アタシは折角手に入る王国を捨てるなんてしたくないけどォ』

「好きにしたらいい。どうせ私には分からないんでしょう」

『アハ、それなのに本当の本当に契約するのォ?』

「あいつらが悪魔にいいようにされるだけで気分がいいもの」

『アッハァ♡ 悪魔みたいな娘……、いいわ、契約してあげる!!』


 その声を聞き、少女は皮肉にも久々に瞳を輝かせ「本当?」と忘れかけていた弾んだ声を出していた。


『その度胸と覚悟を汲んであげるわ。何か適当な紙を手にとって』

「かみ?」


 少女は反射的に自らの金糸を指先でつまんだが『バカね、そっちじゃないわよ。契約するんだから契約書がいるでしょうよ』と苛立った声が響き渡り、慌てて彼女は古ぼけたテーブルまで駆け寄った。


「ごめんなさい、使っていない紙がないかも」

『別に構わないわ。むしろそっちの方が都合がいい』


 それは何故なのか、疑問をぶつける勇気のない少女は分厚い本から税の徴収書まで様々あるそれらを漁りながら、少女は「サイズは? どんな紙がいいの?」と尋ねる。


『なァんだっていいわよ! 両面書いてあるのはダメよ、片面が白紙ならそれでいい。それがいい!』

「ええと……ええと……」


 とは言われても、どれを手にとって見ても乱雑なメモが走っている。悪魔を呼び出すために一心不乱に勉強して、知識はなんでもメモに取っていたからである。

 少女はふと本立ての一番端に挟まっている古ぼけた一枚の紙を見つけた。四つ折りにされたそれをそっと手に取り、広げる。

 迷う素振りを見せる少女の背後から『早く早くゥ、アタシがもらう体がどんどん老けてっちゃうじゃなァい』と軽やかに笑っていた。


『さあさあ……おいで……おいで……中心まで』


 少女は古ぼけた紙を手にふらふらと導かれるように魔法陣の中心へと足を踏み入れた。


「…………これでも良い? アッ」

『ウンウン、これでいいわよ~! むしろこれがいいわよ~!』


 何も見えないのにまるで何かにつまみ上げられるように紙が取り上げられ、宙に漂った。


『じゃあ契約を交わしましょう。互いに納得しなければ、契約は成立しない。どんな内容であれ、互いが納得すれば契約は成立。どう? 悪魔って案外フェアなのよ♡』

「…………」

『初めに問うは貴女の望み……貴女は私に何をして欲しいの?』

「復讐」

『具体的に言わないとォ。アタシが適当にそこら辺の人間を殺して復讐完了って言って終わりになっちゃうわよ? ああやだ、アタシったら本当優しい。こんなこと教えてあげるなんて!』


 自分に酔ったような、呆れたような、ふざけた声が少女の前で弾けていた。


「街の人々を……父や母を……、そして私を馬鹿にした人々に目にものを見せてやりたい。精錬たるエルフだろうが、偉大なる魔法使いだろうが、大義のために動く密偵だろうが、誇り高き騎士だろうが――皇太子ですら、絶望して欲しい! 全てを失う苦しさや悲しみを思い知って欲しい!!」

『アーダメダメ、願い事はひとつ。細々されると契約が面倒臭くなっちゃうから』


 怒りの炎を燃え上がらせる少女の咆哮など気にも止めず、その声は面倒そうにそう告げる。

 少女はこの悪魔ですら全く自分のことを考えてくれていないのではないかと気が狂いそうだったが、そも相手が悪魔であることを思い出し、必死に怒りを押さえつけて、言った。


「この国を崩壊させて」

『……ま、望みを集約すると結局そうなるか。大は小をかねるっていうしねェ』


 引きつった笑みを浮かべて、興奮したように言う少女に声は仕方なさげにぽつりと零す。


『望みは国の崩壊。ってなると、相当な数の運命が変えられるわ。人間だけでもスゴイ数でしょうけど、動物から草木の行方まで考えればその代償はとてつもない。貴女の全てを賭けても正直足りないけど……まァ、ウーン、価値の変動を考えれば……』

「なに? どういうこと? できるの? できないの!?」

にその価値はない。でもォ……』

「でも!?」

『貴女が貴女の全てをアタシにくれるなら、アタシは貴女になって、国をやがて支配する。国を支配できる人間の価値は――そりゃスゴイものよねェ』


 その声の言うことを何度も反芻すればするほど少女の指先は震えた。

 つまり自分という存在は悪魔に成り変わられてしまい、しかしだからこそもう自分ではない自分という存在に価値が生まれ、契約が成立するのである。


『アタシが欲しかったのはあんたの肉体だったんだけど……、対価を釣り合わせるなら、肉体だけじゃなくて、名前も、過去も未来も全て貰う事になるわねェ』

「そうやって私を乗せて……全て奪うの? それが悪魔のやり方?」

『アラ失礼な。貴女の望みを叶えるために提案してあげてんのに……国を奪うなんて悪魔にとったって骨が折れるのよ。競争率も高いだろうし……アタシは別にのんびり好きな事ができればいいくらいなのに、それなのに、アンタの境遇に同情してやってやろうかって言ってやってんのよ。そんなに嫌なら断ってくれていいのよ!』


 黒煙の中の気配が薄らぐのが分かり、少女は反射的に叫んだ。


「契約するわ!!」


 見えもしない誰かが笑ったのを感じた。


『アーハハハハ! な~~んて愚かで哀れな娘かしら!! でもいいわ!! それじゃあ契約よ!!!』


 宙に浮かびっぱなしだった古ぼけた紙に突如、真っ赤に輝く文字が浮かび上がってゆく。


『さあ、その名を教えなさい。貴女の場所を教えなさい。アタシが行くわよ、アタシが行くわよ』

「……、パ、パトリシア。パトリシア・ガートルード・ノイシス。――私は誇り高きノイシス十六世、パトリシア・ガートルード・ノイシス! 魅了の悪魔よ!! 我が名を見つけ此処に来い!! その名を私に告げ、契約せよ!!!」


 不思議と少女の中から言葉が溢れ出た。一度吐き出せば二度と止められない勢いで、黒煙に渦巻かれながら少女……パトリシアは叫んだ。

 契約書にパトリシアの名が浮かび上がってゆく。


『パトリシア・ガートルード・ノイシス。――なんじがアタシに望むはこの国を崩壊させること。アタシが汝に望むは、汝の全てがアタシに捧げられること。この取引に異論は無いな?』

「ええ、無いわ!」

『いいだろう。まずは汝の望みを叶えるために、汝の魂以外の全てをアタシが貰い受ける。汝の願いが果たされた暁には、その魂は契約という呪縛から解放され安らかな眠りにつく事ができるであろう』

「えっ?」


 パトリシアは訳が分からず声を漏らした。


「私から全て奪うのではないの?」

『貴女の魂なんかいらないわよ。だから特別に魂だけは残してあげる。貴女は世界の一部となって、契約が果たされるところを見守ることができる。ああ、アタシってなんて優しいのかしら』

「……!」

『ただし! 契約が果たされれば、貴女がアタシに差し出した物は全てその身に帰る事はない。そして――どこまで言ったっけ? ああそう、もしこの契約が果たされないとならば――その時は汝の手に差し出したものが還るであろう』

「えっ?」


 パトリシアは再び声を漏らした。

 黒煙が彼女の周囲をぐるぐると回って、パトリシアの金糸は嵐に見舞われているかのように吹き上がる。

 ガタガタと家具が震え、電球が割れる音もした。


『何か文句ある?』

「なんていうか……かなりフェアな契約だと」

『傍若無人な振る舞いをされると思ったの? 人間っていっつもの事を好き勝手考えるわよね。約束を果たせないなら当然よ』


 契約を果たせなければパトリシアは全てを取り戻せる。

 しかしよくよく考えればそんなものパトリシアの望みでもなんでもなかった。


「ありがたいけど、でも必ず契約は果たして」

『フフフフ!! そうして欲しければ、契約書に署名サインを!!』


 風に翻弄されて飛んできた硝子の破片がパトリシアの指先を切り裂いた。

 痛みに息を飲みながら、しかしパトリシアは躊躇なく契約書にその血を持って自分の名前を書き記す。

 ごうごうごうと空気が唸り、パトリシアは興奮で全身の血も沸騰しているような心地だった。


『さァ、アタシの名前を呼びなさい!! 貴女もアタシの元に来るために――!!』


 ごうごうごう、ごうごうごう、ご………―――。


 気がつくと、全ての音が鳴り止んでいた。

 黒煙に渦巻かれているどころか辺りは真っ白で、薄汚れた屋敷の地下室の面影はどこにもない。どころか、空も地面も存在しておらず、影すらもなかった。

 パトリシアは生まれたままの姿で真っ白い世界に、古ぼけた紙の契約書一枚を手に立ち尽くしていたのである。

 ふと背後に気配を感じて、パトリシアは振り返る。

 

 美しい女が立っていた。

 面立ちはパトリシアと同じくらいか、それより幼くも感じるような可愛らしい作りをしていた。

 瞳孔の開いた大きな瞳は緑色に爛々と輝き、血色の良い頬は薄桃色で、ふっくらとした唇はそれこそ血のように赤い。

 足元につきそうなほど長い髪も真紅を宿していた。頭から鮮血を浴びたような艷やかさで、輝いている。

 彼女もまた生まれたままの姿をしていた。体つきはパトリシアより幾分かグラマラスで、だからこそ彼女は顔立ちこそ幼く見えるが、きっとパトリシアより大人なのだろうと分かった。

 何より彼女の浮かべている微笑は、少女と呼べるような純朴なそれではなく、毒を帯びた残酷な深みのある美しさだった。



『ティファニー』

 


 自然とその名前がパトリシアの唇から、一粒の涙と一緒に零れ出ていた。

 何もない空間に裸で放り出されているが、まるで心まで丸裸にされたような心地だった。

 怒りも憎しみも、辛さも悲しさも、その女の前では隠せなかったのだ。

 そして自分では表現しきれなかったそれら全てが解放される心地に幸福を感じ、パトリシアは笑った。

 幸せの欠片など彼女の中には微塵もなかったが、ただ体が空になったことだけがもう、幸福であったのだ。



『パトリシア』



 女が甘い声でパトリシアを呼び、ゆっくりと両手を広げる。

 ――ごうっと耳元に轟音が戻った。

 そして次の瞬間に、パトリシアは自分がのほとんどが黒煙の中に現れた彼女に吸い込まれ、残りカスのような自分がどこか知らない世界へ放り出されたのが分かったのだった。


 ……黒煙はパトリシアの鼻腔や口、耳から目、そしてスカートの中まで包み込み、パトリシアの肉体の中に収まった。

 衝撃に雷に打たれたようにガクガク震えていたパトリシアの体は、やがて最後のひと吸いを終えると「ハァ~~~ッ」と満腹に満足する狼のように息を吐き出した。嬉しそうにつり上がった口角の隙間から、尖った八重歯がちらりと覗く。

 パトリシアの金色の髪は根本から次第に、鮮やかな赤に染まっていった。乱れた髪を掻き上げる彼女の爪は、いつの間にか鋭利に尖っている。そして前髪の隙間から覗いた瞳は、緑色に強く輝きを放った後、再びパトリシアのものであった茶色へと戻っていった。


「アハハハ、アハハハハハ!! アハハハハハハ!!! やったわ!! また人間ができるのね!! アハハハハ!! 何をしようかしら!! まずは……!!? おげェっ!!!」


 嬉しそうに高笑いをした彼女は、笑うなり肺に流れ込んできた悪臭にえずいた。

 とんでもない埃臭さに胃が引き攣り、そして胃の中が空っぽである事にも気がついて、その瞬間には胃液を吐き出していた。


「うげーっ!! ゲホッゲホッ……!! ……!!? ちょ、な、何これ……最低!!!」


 体が馴染んでくるほど、頭がくらくらとして、足元がふらつく。

 パトリシアの体は空腹で、パトリシアの住むノイシス家の屋敷は悪臭が漂って、不潔の極みであった。


「そりゃ、悪魔も呼び出したくなるわ……」


 悪魔……ティファニーは怒りに叫びだしたかったが、それでもこの空腹や悪臭は肉体あってこそだと自身に言い聞かせ、足元に落ちていた契約書と首飾りを手に取る。

 パトリシアとティファニーの名前が刻まれた契約書をひっくり返すと、そこには拙い絵が描かれていた。――恐らく、幼いパトリシアが昔家族に向けて描いたものなのだろう。父と母と娘が、大きな家の前で笑っている姿がある。

 ティファニーはそれを暫し眺め、フッと鼻を鳴らしてわずかに笑い、それを畳み、胸元へとしまい込んだ。そして最後に、古ぼけた首飾りを大事そうに撫でて、慣れた様子で首の後ろへと金具をはめ込んだ。


「さて、まずは何か食べないとアタシが死んじゃう……ウプッ……」


 ティファニーはそうぼやき、地下室からふらつきながらもどこか軽快な足取りで出てゆくのだった。


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