第10話 本当の願い

「花月さん……私は、だって、私は……」 


 胸の奥に、じわじわと不思議な感覚が込み上げてくる。

 まるでとても寒い場所で芯まで冷え切ってしまった手を、心地良いお湯に浸すような感覚。

 奥の方から疼きにも似た感覚が沸き起こり――あ、と思う間もなく両目から涙が溢れた。

 瞼に溜まる暇もないほどの熱い涙は、視界を歪ませることさえもなく、ただ止め処なく頬を伝い顎から滴ってゆく。

 

 恥ずかしい。止めなければ。そう思うのに、涙は一向に止まらない。

 それどころか、もっと泣きたいと思っている。肉体につられるように、心までが泣くことを望んでいる。

 そうか私、泣きたかったんだ。

 夢の話を解き明かして貰いたいだけじゃなく、これまでの人生の苦しみを聞いて欲しかっただけじゃなく。

 私の心は、あの頃のことを泣きたかったんだ。


 そう思ったら、もう堪えることなどできなかった。

 息が苦しくなり、大きく口を開ける。

 唸るような声が喉の奥から遠慮がちに出てきた。

 私の中から出て行こうとする何かが、声になる前に喉が締まる。それでも何かは喉を抉じ開けるように出ようとする。

 その攻防がうまくいかない。

 う、あ、あ、と。奇妙な声が呼吸の合間に漏れるばかりだ。

 恥ずかしい。今日会ったばかりの花月さんの前なのに、泣こうとしているのが止められない。


「もういいよ。怖くないから出ておいで。僕が此処にいるから、本当のことを言っていいんだ。一番言いたかったことを伝えてごらん」


 花月さんが、子供に向けるように優しく私に微笑してくれた。 



「一人ぼっちで蹲って、よく耐えてきたね。茉莉枝ちゃん」



 細く大きな花月さんの手が私の頭に置かれた時、辺り一面の暗闇が真っ白な光に変わった。

 エレナの髪のような、真っ白な光に。

 その途端。



「う、ああああああ! わああああああん!」


 子供のような嗚咽が、喉の奥から迸るように出てきた。


「お父さぁん! お母さぁん! お父さぁぁん! お母さぁぁん!」


 まるで小さな子供の頃、迷子になった時のようだった。

 淋しい。恋しい。心細い。胸いっぱいに広がる痛みを、心の全てで訴えたかった。聞いて欲しかった。



「い、一緒に、いたかった、よお! ずっと、ずっと一緒にいたかったよぉぉ! もっと優しくして欲しかったよぉ! いっ、しょ、に、幸せになりたかったよぉぉ!」


 

 お父さん。お母さん。

 茉莉枝を好きだって言って。茉莉枝を悪い子じゃないって言って。

 大好きだったんだよ。

 茉莉枝は、お父さんとお母さんのこと、本当に大好きだったんだよ。



 瞼の裏に、両親との忘れていた懐かしい光景が次々に呼び起された。

 動物園に行った時のこと。夏休みの旅行に行った時のこと。


(ほうら、茉莉枝、肩車をしてやるぞ)

(わぁ、たかーい! お父さんすごーい! お空に手が届いちゃう!)


 日常の何気ないやり取りのこと。嬉しかった瞬間のこと。


(茉莉ちゃん、おやつにしましょう。エレナはもうテーブルで待ってるわよ。どれをあげるの?)

(やったぁ、お母さんのクッキーだ! 待ってね、エレナの分は私が選んであげるの!)


 煌めくような幸せな記憶ばかりが、次々に浮かんでは消えてゆく。



「人間は、まだまだ未完成ですから。良い面も悪い面も、ほんの少しの切っ掛けで容易く切り替わってしまう――そこが哀しくて愛おしいと、僕は思います」


 花月さんの言葉に、私は子供のように泣きながら幾度も頷いた。


 きっとお父さんとお母さんも、茉莉枝のことは好きだったんだよね。

 私がエレナを大好きで優しくしてあげようとしていたように、お父さんとお母さんも茉莉枝を大好きで優しくしてくれようとしていたんだよね。

 ただ、ほんの少し、余裕が無かったんだよね。

 お互いにそれぞれの「ほんの少し」が、どんどん掛け違っていくほどに、どうしようもなくなっちゃったんだよね。

 お父さんとお母さんがうまく愛し合えなくても。

 私をうまく愛せなくても。

 私の方は、本当は、お父さんとお母さんが大好きだったよ。

 二人が一生懸命に築こうとしていた、あのおうちが大好きだったよ。

 私、ちゃんと愛されてたんだ。

 ちゃんと幸せだったんだ。

 失われた後に、こんなに恋しく思うのは、そういうことだよね。



 迸るような想いが、止め処なく心の奥から溢れてくる。

 両親が私にしたことを許せる気持ちはない。


 でもその一方で、許すとかとか許せないとか、両親の事情を理解するとかしないとか、そうしたことを全部抜きにして。


 ただ純粋な、ほんとうに純粋な想いだけが、涙と一緒に溢れ出してきた。

 きっとこれは――子供の頃の私の想い。

 大人になって色々なことを知って、色々なことを考えてしまう前の、幼い私の純粋な想い。

 大好きな両親と幸せに暮らしたかったという、ただそれだけの想いだった。



「大丈夫ですよ、井沢茉莉枝様」

 幼い子供のように嗚咽が止まらない私の頭を、子供にそうするように幾度か撫でてくれた花月さんが、確信を持った声で告げてくれた。

「貴女はもう、前へ進める」

 前へ。

「そうです。忘れることでもなく、無理に許すことでもなく、全てを受け止めて乗り越えた貴女は、更に高みへ昇れる。前へ進めますよ」



――私は、前ヘ進める。

 胸の内で繰り返してみれば、それは熱いほどの確信となって私の中に鎮座した。


 そうだ。

 やっと私は進めるんだ。


 これからは同じ景色でも、違う目線で見ることができるようになるのかもしれない。

 今まで出会えなかった出来事にも人にも、出会うことができるのかもしれない。

 とても晴れやかな胸の内で、そう確信できた。


 沢山泣いたせいだろうか。胸の中に沈殿していた澱が、全て溢れて洗い流されてしまったようだ。

 きっとこれからも澱は溜まっていくのだろう。

 両親のことだって、また何度も思い出しては苦しんだり泣いたりするかもしれない。

 でも、今度はちゃんと目を逸らさずに思い出と自分の心に向き合っていける。そんな気がする。



「茉莉枝さん、最後に一つ」


 特別な秘密を教えるように、どこか悪戯な笑みで花月さんが唇の前に人差し指を立てた。


「貴女に差し上げた林檎のお菓子には、重曹が入っているんです」


「重曹?」


「はい。重曹は本来苦くて美味しいものではありませんが、砂糖に混ぜることによって甘味に包み込まれ、あのしゅわっとした食感を作り出してくれるんです。あのお菓子は重曹がなければ、林檎の水分によって重い食感の砂糖の塊になってしまいます。人生おしなべて、そういったものですよ」


 つまりそれは、人生を例えるなら重曹の入った砂糖菓子、ということだろうか。

 本来は苦いものが、思わぬ風味を作り出してくれることもある。

 そう思った私の心を読んだかのように、花月さんが笑んだ唇に人差し指を当てたまま猫のように目を細め、此方を覗き込むように小首を傾げた。


「だから――美味しいでしょう?」


 あ、読まれた、と思った。

 思えば最初の時にも、これをやられたのだ。

 あの甘味処がやたら高い店なんじゃないかとか、変な宗教の系列施設じゃないかとか、心の中で色々と考えていた下世話なことを思いきり読まれていた。


「やだ! また私の考えていることを勝手に! ちゃんとこちらが言葉に出してから反応してくださいね!」


 思わず友達にするように、軽く叩こうとする真似をして手を振り上げると、花月さんもまた身体を反らして、ふざけて避けるような真似をしながら笑った。


「ははは、これは失礼失礼」


「いきなり言われると、ほんと怖いんですからね、そういうの! お友達さんにも忠告されてるんじゃなかったんですか?」


 私も抗議しながら、つい笑ってしまった。


「ああ、それを言われると」


 花月さんは眉を寄せて額を支える。

 私たちはまるで旧知の仲のように、暫く声を上げて笑い続けた。



――マリエ――。


 エレナ。もう一人の私。

 しかし彼女の声は、闇が晴れた今も、まだこの空間に聞こえている。


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