第8話 真実3
「何よ、その目は!」
一瞬、怒り狂う母が戻ってきたのかと思った。
だがそうではなかった。
母に似た声で、母に言われたことと同じ言葉を、幼い私がエレナに言い放ったのだ。
そして勢いよく立ち上がりざま、おもむろにエレナの髪を鷲掴みに手繰り寄せた。
慰めるように伸ばされている腕を乱暴に掴み、両手でカーペットに打ち付ける。
何度も何度も打ち付けては宙に放り投げ、蹴り飛ばし、踏みつけた。
まるでサッカーボールのように蹴り上げ続けた後は、エレナの上に屈み込んで何度も両手で叩きつける。
「謝るなら最初から言われた通りにしろ、バカ!」
母と同じ言葉を次々にエレナに向けながら、自分がされたことと同じことをしている。
頭を壁にぶつけられ、踏みつけられ、叩かれる度にエレナのドレスが捲れ、球体関節の脚が大きく開いて、両腕があらぬ方向へ曲がっている。
「エレナァァァアア! エェェェェェレェェェェェェナァァァァァァ!」
エレナの髪を掴んで空中を無茶苦茶に振り回しながら、幼い私は叫びを上げていた。
「キャアァァァァ! キィィィィィ!」
「ッ、……うそ……」
あの声だ。
花月さんに話している時に、私の中にふと甦った、あの狂乱状態に陥った猿のような、甲高い耳障りな声。
うそだ。
ひどい。
まさか。
まさかこんなことって。
――真実は基本的に苦いものです。
胸に甦る花月さんの言葉は、確かにその通りだった。
でも。それでも、こんなことってない。
あまりに苦すぎるよ、花月さん。
エレナを虐待していたのは、お家に呼んだ乱暴なお友達でもなく、親戚の子でもなく。
私だったなんて。
私が、私自身が、大切なエレナにあんなに酷いことをしていたなんて。
激しい悪寒が足元から背中までぞわぞわと這い上がり、体幹から手足まで、順に全身が止められないほど震え出してくる。
その突端。
今の私の掌や足先にまで、エレナの髪を乱暴に掴んだ時の感触や、蹴り上げた時の重み、振り回す時の空気の抵抗までがありありと蘇ってきた。
「うああ……あ、いやだ……いや、だ……いやだ……!」
逃れようもない事実として。
確かに過去の私自身の肉体が、それをした記憶として。
同時に、幼い頃の私が感じている激情までもが。
全てが紛れもない真実の記憶として、五感を通して完全に呼び起されてしまった。
「あああああ! あああああ!」
言葉にならない悲鳴を上げながら、私は自分自身の身体に爪を立て、その場にしゃがみ込んだ。
「やめてえ! もうやめてええ!」
堪らずに叫んだ声が届いたとは思えないが、幼い私がふと動きを止めた。
エレナの脚を掴んで逆さまに片手に下げ、苦しげに肩で息をしながら立ち尽くしている。
子供の小さな肺では追い付かないほどの暴れ方をしたせいだろう。
怒りとも悲しみともつかない沈痛な表情は、涙と汗で汚れて髪が張り付き、子供らしからぬ苦悩と戸惑いに満ちていた。
ただ黙ってそのまま立ち尽くしていた幼い私は、やがてエレナを大切にカーペットに座らせた。
そして自分も向き合って座り、エレナをじっと見つめる。
髪もドレスも乱れたエレナを見詰めながら、やがて幼い私は何かを語り掛け始めた。
しかしここからでは、その声が聞こえない。
懸命に唇が動いているのが分かる。
なにやら真剣な様子で、頭さえ動かしながらエレナへ一生懸命に訴えかけている。
何を言っているのだろう。
あんなことをしておいて、まだ。
今度は母の真似事の小言でも言っているのだろうか。
貴女が悪いのだから反省しなさいとでも。
しゃがみこんだ姿勢から、這うようにしてゆっくり近付いてみると、声を出していないことが分かった。
息をするだけで精一杯な小さな肺の容量では、まだ声までは出せないのだろうか。
微かな吐息と唇の動きだけで、懸命に何度も、ゆっくりと繰り返している。
近付いてみれば、小さな唇は、はっきりと二つの言葉を象っていた。
ご め ん ね。
ゆ る し て。
声にならない声で何度も何度もエレナに謝った幼い私は、おもむろにエレナを抱き締めて、息をひそめるように泣き出した。
まるで静かに降り始める霧雨のような泣き方だった。
泣きながら乱れてしまったエレナの髪を丁寧に梳かしてやり、曲がった球体関節を元の位置に戻し、ドレスを整える。
花月さんの前で思い出した光景は、この時のものだったのだ。
きれいにしたエレナを、そっとカーペットに寝かせた幼い私は、顔を背けるようにして散らばった小さなティーカップやお皿やケーキのおもちゃを片付け始めた。
おもちゃを全てあるべき場所に納めてしまうと、絵本を一冊取り出し、エレナを見ることはせず、しかし身体を寄り添わせるように傍らに座って読み始める。
日が傾き始めた部屋の中は寒々しく、子供らしい家具やカーペットの色合いも全てが褪せてしまったように見えた。
仰向けに寝かされたエレナは、閉じる仕様の瞼にガラスアイを覆われて、眠っているかのようだ。
幼い私がエレナの瞼を閉じさせた理由も、エレナを見ないようにしながらも側を離れなかった理由も、今の私にはよく思い出せた。
酷いことをしてしまった自分を、エレナは許してくれていないと知っているから。
いや、むしろエレナに許されてはいけないと思っているから。
そうしたことをしてしまう愚かな自分が、エレナの瞳に映ることが怖かったから。
それでも、エレナをひとりぼっちにしたくなかったから。
母に置き去りにされた自分のような心細さを、エレナに与えたくなかったから。
だってこれは、たった一度の出来事ではなかったのだ。
母からこうした扱いを受けるたびに、私もエレナに同じことを何度もしてしまっていた。
その後でどんなに反省しても、どうしても止められなかった。
他者から受けた毒を消化できず、その毒に乗っ取られるように、他の存在に同じことをしてしまうことへの罪の意識。
傷付いた自尊心を回復したいがために、何も悪くないはずの更に弱いものへ当たってしまうことへの恥。
エレナを虐待する一方で、心の冷静な部分が、懸命にそれを止めていたのだ。
やめてよ。
どうしてそんなことするの――と。
あの頃、私の心は真っ二つに引き裂かれていた。
ようやく、我がこととして思い出すことができた。
幼すぎてまだ明確に言葉や形にできない感情ではあれども、子供の心の中にも、そういった恥や自尊心は確かに備わっていることも。
暮れゆく窓が翳りを帯びて、部屋が暗くなってゆく。
現実のこの後は、母が家の明かりを点けていったのだろう。
しかし今こうして私が見ている記憶の景色は、徐々に暗闇に覆われて消えていこうとしていた。
寝かせたエレナの隣で絵本を読む幼い私が、懐かしい家の中が、母の作る料理の音が匂いが――闇の中へと遠ざかってゆく。
蹲ったまま立ち上がれない私を、置き去りにしたままで。
懐かしい生家に帰れて、とても嬉しかった。
しかし苦すぎる真実に触れて、胸が潰れるほどに悲しかった。
それでも。
エレナの怒りを本当に理解するには、確かにこの出来事を思い出す他に無かっただろう。
花月さんの言ったことは正しかったのだ。
大変なことを思い出してしまった。
私の中に、こんな残虐性と衝動があったなんて。
私はこれから、どうやって生きていけばいいんですか。
花月さん――。
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