第6話 真実1
いつの間にか私は、懐かしい子供部屋の入口に佇んでいた。
見回すほどに懐かしさが込み上げる、私の部屋。
間取りがとても広いわりに部屋数の少ない低層マンションは、総面積にしては総戸数が少ない、いわゆる高級マンションと呼ばれる類のものだ。
そこが、小学生の頃まで両親と私が住んでいた家だった。
床も壁も天井も全て白を基調とした内装は、室内をいっそう広く見せる。
懐かしい照明や飾り棚、テーブルや椅子などは、父の好みで極力シンプルながら美術的な要素を取り入れたアールデコ調だ。
子供部屋にもそれはきちんと施され、しかし置いてある家具や室内装飾品などは、色や形がいかにも子供向けの物ばかりで可愛らしい。
久し振りに目の当たりにした生家は、胸が苦しくなるほど懐かしい想いと共に、目にするもの全てが煌めくような豪奢さを感じて眩暈がした。
あの頃はそれが当然のように受け入れていた生活。
しかし今、僅かな月給で安いアパートに暮らしている今の私の目から眺めてみれば、かなり贅沢な生活水準だったことがよく分かる。
私たちがこんなふうに生活できるために、父は本当に仕事を頑張ってくれていたのだ。
そのことを、心底に痛感した。
「はい、エレナ。お茶どうぞ」
幼稚園児の頃の私が、懐かしいカラフルなラグの上で、エレナとままごとをしている。
子供部屋の入口で。
開け放たれた扉の前に佇んでいる今の私の姿は、幼い頃の私には見えないようだった。
「ケーキはどれがいい? ショートケーキとチョコレートケーキと、ええとこれは……メロンケーキにする。私はお姉ちゃんだから、エレナの好きなのをあげるからね」
人形用の椅子に行儀よく腰かけたエレナの前に、幼い私はおもちゃのティーセットと食玩を並べている。
「ショートケーキがいいの? いいわよ。エレナは苺が好きね。はい、召し上がれ」
私のもてなしを受けているエレナは本当に愛らしく、その表情もきらきらと輝いて嬉しげだ。
窓から差し込む日の光が、私とエレナに柔らかく差し込む。
小さな女の子二人、どちらも人形のようだ。
まるで童話の挿絵のような光景に、暫し見入っていた時だった。
「あなたはいつもそんなことばかり!」
不意に、甲高い声が隣の部屋から聞こえてきた。
母だということは、声だけで分かる。
幼い私は、母の大きな声に一度びくりとして声の方向を見たが、再び何事もなかったように遊びの続きを始めた。
あちらの部屋には、母と他に誰かいるのだろうか。
もう少し幼い私とエレナの蜜月を眺めていたかったが、母の方も気になるので、隣の部屋を覗いてみることにした。
廊下を通って広いリビングを抜けた先が、両親の寝室だ。
部屋のドアが少し開いている。おそらく一人で遊んでいる幼い私が、危険ないたずらをしたり、家の中の事故に遭ったりした時に、すぐに分かるようにするためだろう。
おそらく今の私には実体が無いせいだろうか。ドアの隙間から中を覗き込んだだけで、物音一つ立てず扉を動かすことなく部屋へ入ることができた。
母は今しがた大声を上げたことを気にしているのだろうか、おそらく子供部屋にいる幼い私に聞こえることがないように、受話器に手を当てて声を潜めている。
「嘘ならもう少し上手につきなさいな。この間だって同じようなことを言って、貴方ずっとそうじゃない。いつもいつも結婚してからずっと!」
母は誰かといる訳ではなかった。
電話で喧嘩をしている。
相手は父だと、声で分かった。
今の私が実体を持たない魂だけの存在だからなのか、父の声は受話器から漏れ聞こえる声というよりも、まるで目の前で会話をされているように聞こえてくる。
「電話口で怒鳴らないでくれ。うんざりする。帰りたい家なら帰るんだ。こっちは君たちが居心地よく過ごせる環境は整えてきただろう? 君はそれに見合う努力をしたことはあるのかい?」
「したわよ。してたじゃない! 一人で家事をやって子育てをして貴方のお世話もして、私には休む暇もないのよ!」
「おやおや、それはそれは大変なんだね。大変な仕事だ、ご苦労さま。ふふふ」
「とにかく、家に帰って来てちょうだい。せめて茉莉枝の父親という自覚だけは持ってもらえれば結構よ。それ以外はもう貴方に一切期待しませんから。一切ね!」
父は冷静を装いながら、明らかに苛立ってひどく意地悪だった。
母はあまりに感情を剥き出しにし過ぎて、ひどく浅ましかった。
二人の会話はあまりに皮肉で、辛辣で、一方的で、大人になった今の私には、聞いているだけで彼らの関係が修復不可能な域に入っていると分かる。
どうやらこの頃から、こんなにも父と母の不仲は深刻なものであったらしい。
幼い頃の私は知らなかった。
私の前で両親は、一度も喧嘩をしたことはなかったから。
思えば生前の母は、そのことを誇りに思っているようだった。
子供に両親の不仲を見せないことは優れた親の証なのだと、父の話をするごとに何度も言っていた。
確かにそれは同意できる。
だが一方で、何も知らされないまま両親が別れ、何も知らされないまま母に連れられ、家族は離散してしまった。
父の行方を聞いても、別れた理由を聞いても、知らないの一点張りで、結局私は自分の両親のことを何も知らされないまま縁は切れた。
果たしてそれが良いことなのか悪いことなのか、私には一概には断じられない。
ただ少なくとも私には、消化しきれない無力感だけが残されたことは事実だ。
きっと私のこんな気持ちは、母には理解できなかっただろう。
どんなに説明しても、理解できなかっただろう。
「あ……」
そう思った途端、ゾクッとした。
今の私に実体はないはずなのに、一瞬で全身から冷汗が噴き出した感覚がある。
母を批判する心が、私の中にある。
批判するだけでなく、どこか明確な嫌悪を持っている部分がある。
そのことがとてつもなく罪悪感を抉ってくる。
私が病気になった時には看病して、すりおろした林檎を食べさせてくれる母なのに。恩知らずと知りながらも、止められない嫌悪が私の中に深く根付いている。
電話を切った母が、声を伴うほどの大きなため息を一つ吐きながら顔を覆った。
静かな部屋に苛立ちと淋しさの空気が貼りつめる。
そうしていたのは、ほんの一分ほどもない時間だったが、見ている私には数十分ほどにも長く感じられた。
顔を覆って項垂れる母の上に、自己憐憫の気配が降り積もっていく。
嫌な気配がする。
痛め付けられたエレナを思い出した時のように、また無数の棘が胸から喉まで暴れながら込み上げてくる。
嫌だ。もういい。ここまででいい。この先を見たくない。
何かとても嫌なものの気配がする。思い出したくない。甘味処へ戻りたい。助けて。
「花月さ……!」
――おそらくは、目を背けたくなる思い出が見えてくるでしょう。
あまりの苦しさに叫び出しかけた時、花月さんの声が甦ってきた。
――ですが茉莉枝さんが本当に、人形とご自身の心をお救いになりたいのであれば、そこは避けて通れません。
そうだ。
もし私の記憶に真実が無いというなら、私の中から失われていた真実というものを、しっかりと見届けなくてはいけない。
気のせいか息苦しさを感じて、両手で鼻と口を覆いながら努めて大きく呼吸した。
やがて母が、胸の内の苛立ちを吹っ切ろうとするように、顔から膝の上に戻した両手でポンと腿を打って立ち上がった。何事もなかったような明るさを装いながら、部屋を出て行く。
幼い娘を不安にさせないように、暗い顔を見せまいとしているのだ。
私が知っている母は、結婚に失敗したことを恥とする分だけ、完璧な親であるように努め、そう思い込むことで彼女自身の誇りをどうにか保たせている部分があったように思う。
「茉莉ちゃん、なにしてるの?」
怒りの余韻を消すような、奇妙に明るい作り声。
お母さん。
頑張らなくていいよ。
完璧じゃなくていいから、今は一人で自分の機嫌を取って。
できればそう言ってあげたい。今なら言ってあげられるのに。
子供部屋に向かう母の背中を追うつもりが、足が震えてうまく動かない。
嫌な予感がする。
嫌だもう見たくない。
駄目だ、ちゃんと見なければ。
見届けに行かなければ。
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