6.桃姫

「はい、今日はここまで。続きはまた今度ね、桃姫」


 桃太郎と表題された絵本が白く細い指でパタリと静かに閉じられる。


「桃から生まれた……桃太郎……!」


 優しく告げる小夜の膝の上に、体重を預けて寄りかかるように座った桃姫が両手を上げながら元気よく声に出した。


「ただいまー」


 すると、玄関口から声がしてのれんを開けて桃太郎が入ってきた。


「あなた、お帰りなさいませ」

「父上っ! ねえ! ねえ! 父上は、桃の中にいたの!? 桃の中ってどんなだったのっ!? 桃の味はした!?」


 小夜が微笑みながら夫の帰宅を迎え入れると、興奮状態の桃姫はすっくと立ち上がって、桃太郎の絵本を桃太郎に向けて突き出し率直な質問をぶつけた。


「うっ……小夜……また、桃姫に読み聞かせていたのか。これで、何回目だ?」

「さぁ。100回目からは数えていないです」


 幼い娘の勢いに困惑する桃太郎に対して小夜はくすりと笑いながら立ち上がると、炊事場に向かった。


「ねえ! ねえ! 父上! 何で川から流れてきたの!? 父上の父上と母上はどこにいるのっ!?」


 桃太郎はちゃぶ台の前に置かれた座布団の上にあぐらを掻いて座ると、全体重を膝の上に乗っけながら前傾姿勢で止まらない質問をぶつけてくる桃姫に言った。


「私の父上と母上は、桃姫のお爺さんとお婆さんだよ。桃姫が生まれてくる日に100歳で亡くなったと教えただろ? 最後の最後まで元気だったよ」

「へえええ……え……? 桃の中から生まれたのに、お爺さんとお婆さんが、父上の父上と母上……なの?」


 桃姫が眉根を寄せながら考え込んで言うと、桃太郎は小夜が用意した急須からお茶を湯呑に注いで飲みながら口を開いた。


「そうだよ。というか、私は桃の中から生まれていない。お爺さんとお婆さんが不思議な桃を食べて、その日から精力がついて元気に──」

「あなたッ!!」


 桃太郎が言っていると、小夜の怒声が炊事場から居間まで届いた。


「……ん、おっと……そうだな。私が桃から生まれていたとしても、私を育ててくれたのはお爺さんとお婆さんだろ? だから、私にとっては父上で母上なんだよ」

「ふーん、そっかー。私も不思議な桃を食べてセイリョクつけて元気になりたいなー」


 桃太郎の話を聞いているのかいないのか、桃姫は桃太郎の膝の上に座ると天井に吊るされた提灯の灯りを見上げながら呟くように言った。


「あなた……桃姫に変なこと教えないでください」


 炊事場からお盆を運んできた小夜は、具沢山な味噌汁の入った漆塗りの器をちゃぶ台の上に三つ並べ、それぞれの器の上に長い箸を二膳、短い箸を一膳置きながら言う。

 そして、畳の上に置かれていたおひつをちゃぶ台の上に置くと、白い布巾を取る。中には湯気を立てる炊きたての白い米が詰まっていた。


「はあ……もういいだろう。桃姫も明日で10歳になるのだから」

「何を言っているんですか、10歳はまだまだ子供ですよ。せめて16歳になるまでは、あなたは桃から生まれた桃太郎のままでいてくださいな」


 桃太郎と小夜の会話など聞かず、桃姫は小夜が握り始めた白米のほうに夢中だった。

 塩が入った水の器の中に指先をちょっと浸し、おひつの中のほかほかの白米をすくってそれを両手で軽快に握っていく。

 桃姫が前に真似をしておひつに手を伸ばしてみたら指先をやけどしてしまった。

 それなのに、何故か小夜は表情一つ変えずに次々と皿におにぎりを並べていくのが桃姫にとっては不思議でしょうがなかったのだ。


「……16か……16なぁ……」

「そうですよ、16です。あっという間ですよ」


 湯呑のお茶をすすりながら呟く桃太郎に対して、小夜はおにぎりを握る手を止めずに微笑みながら言った。

 そして、ネギ、豆腐、椎茸、大根、自然薯、鹿肉と具沢山な味噌汁と大皿に並べられたおにぎりと自家製の梅干しときゅうりの昆布漬けがちゃぶ台に揃った。

 三人家族でちゃぶ台を囲み、手を合わせて……。


「いただきます」

「いただきます」

「いたーきます!」


 と三人で同時に声を出し、夕餉の時間が始まるのであった。


「うん、うまいうまい。鹿肉も丁度良く煮てある」


 桃太郎が味噌汁を食べながら言うと、桃姫は手に持ったおにぎりに大口を開けてかぶりついて満足気にもぐもぐと咀嚼した。


「桃姫、先にお味噌汁を飲んで喉を湿らせてからね。じゃないと詰まっちゃうわよ」

「んぐんぐ、うん!」


 桃姫はおにぎりを口の中に入れたまま、ちゃぶ台に置いてある味噌汁の器に顔を近づけてずずずと吸って飲んだ。


「あー、桃姫。それ小夜に怒られるやつだぞ」

「……え?」

「こら! 桃姫! はしたない真似はやめなさいっ!」

「はははは。ほーら、怒られた」

「えー……飲んでって言ったから飲んだのにぃ……」

「口答えはいいの!」

「はははははは」


 三人の会話と笑い声は、開かれた格子窓から漏れる橙色の灯りと共に瓦屋根の家の外にまで漏れ出た。

 そして食事が終わったあと、桃太郎が釜戸の火を竹筒で吹いて沸かした湯船に桃姫と小夜が浸かった。


「湯加減はどうだー」

「ちょうどいいよー」

「……えいっ」


 桃姫が風呂場の隣の釜戸室にいる桃太郎の声に答えると、小夜が桃姫の頭に桶でお湯を掛けた。


「うわぁあ」

「ふふふ……びっくりした?」

「母上ー、いきなりお湯かけないでぇー」


 小夜が桃姫を胸に抱き入れながらいたずらっぽい顔で言うと、桃姫は顔を手で拭いながら抗議した。


「ごめんなさい。でも、昨日は洗ってなかったでしょ? だったら今晩は洗わないとね」

「はぁーい」


 桃姫は頬を膨らませながら言うと、湯船の外に頭を出した。小夜は桃姫の頭にお湯を掛けながら優しく丁寧に洗う。


「桃姫の髪の毛は……父上にそっくりで本当に綺麗な桃色よね……羨ましいわ……」


 艶やかな長い黒髪を持つ小夜が桃姫の長く柔らかい髪の毛を一房手に取りながらそう言うと、桃姫は首を振った。


「かくれんぼしてるとすぐに見つかっちゃうから嫌なの!」

「ふふふ……そんな贅沢言わないのよ」


 そして、仕上げにと思い、湯船の近くに置いておいた小さな筒を小夜は手に取った。


「……なぁに、それ?」

「これは椿油の香油よ」


 桃姫が横目で筒を見ながら言うと、小夜は答えた。


「今朝、村の商店で仕入れていたから買ったの。肥前の平戸が産地なんだって」

「ひぜん? びぜん、じゃなくて?」


 桃姫は自分が住んでいる備前だと思って小夜の言葉に疑問符を浮かべた。


「ふふふ、肥前は九州にあるのよ。そうね、備前と名前が似てるけど、全然違う場所」

「ふーん……きゅーしゅーかぁ……日ノ本って大きいんだねぇー」


 桃姫はわかっているのかわかっていないのか言い終わると、頭を引っ込めて湯船の中にぶくぶくと頭を沈めた。

 桃姫の桃色の髪の毛がゆらゆらと湯面に漂ったのを小夜は見ながら椿油の筒を元の位置に戻した。


「桃の匂いがする髪の毛には必要ないわね」


 小夜は言うと、桃姫と一緒にお湯の中に潜った。


「おーい、二人とも早く出てくれー」


 釜戸室から桃太郎の声がしたが、それを聞く者は風呂場にはいなかった。


「ねえ! 不思議な桃を食べて桃姫も元気になりたいよっ!」

「桃姫は十分元気な女の子だ!」

「桃姫は十分元気な女の子です!」

「……そうかなあ?」


 居間に三人分の布団が敷かれて、今から寝ようというときになって突然桃姫が布団の上に立って叫びだしたのであった。


「夜分にご近所迷惑だから、大きな声出さないでね」

「はぁい」

「明日は村が10歳祝いのお祭りをしてくれるんだから、もう寝たほうがいいよ、桃姫」

「うん」


 小夜と桃太郎が言うと、桃姫は素直に頷いて川の字の真ん中の布団の中にもぞもぞと体を収めた。

 それを確認した小夜が天井から吊るされている提灯の灯りを吹き消した。

 居間は格子窓から入り込む月明かりによって薄青く照らされていた。


「……桃姫、お祭りは楽しみ?」

「楽しみ。だけど、父上。明日は桃姫のお誕生日のお祭りじゃないって知ってるよ。明日は父上が鬼ヶ島で鬼退治をした日だもの」

「……そうだね」


 月明かりの中、布団に横になった桃太郎と桃姫が天井を見ながら話していた。


「私が鬼退治を果たした10年後の同じ日に生まれたのが桃姫……だから明日は、鬼退治から20年が経った記念日……そのお祭りだ」

「うん。ねぇ、父上? 鬼退治の日のこと、桃姫にお話して?」


 こちらに顔を向けて言う桃姫の言葉に桃太郎は天井を見つめたまま表情を曇らせた。


「あまり、思い出したくないな……」

「そうなの……?」

「ああ……仲間が死んだから」


 桃太郎は天井の微かに揺れる灯りの消えた提灯を見ながら静かな声で言った。


「お供の……犬さんと……猿さんと……雉さん……だよね?」

「ああ。それと……鬼もたくさん、退治したから……」


 桃姫が指を折って数えながら確認すると、桃太郎は付け加えた。


「桃姫知ってるよ……! 鬼は悪い鬼なんだよっ。鬼は色んな村から、たっくさんの宝物と女の人を奪っていったって、だから悪い鬼なんだよ……!」

「……そうだ……桃姫の言う通りだ。悪い鬼……悪い鬼、なんだよな」


 桃姫が桃太郎の布団に顔を近づけて言うと、桃太郎は目を閉じて呟くように口にした。


「ねえ、桃姫。もういいでしょう? 働いて帰ってきた父上を困らせないで、もう寝ましょうね」

「うん……」


 いい加減に聞いていられなくなった小夜が桃姫を注意すると、桃姫は頷いて自分の布団の中に収まり、頭を枕の上に預けた。

 そして、三人が眠気でうとうとし始めたとき、桃姫が唐突に口を開いた。


「……父上、母上……ずっと桃姫のそばにいてね? ……桃姫が16歳になっても20歳になっても……ずっと桃姫と一緒にいてね……?」

「……いるよ。そばにいる。何よりも大切な桃姫は誰にも渡さない」


 目を閉じた桃姫が甘えるように口にすると、桃太郎は顔を桃姫に向けて強く誓った。


「……母上は? 母上も言って……?」

「うん……桃姫のことは、母上と父上が護り抜くからね。安心して、おやすみなさい」


 小夜も顔を桃姫に向けて言った。川の字で寝ているため、自ずと、小さな桃姫の体を通して桃太郎と小夜の視線が合う形となった。


「……約束だよ……約束……」


 寝言のように小さく口にした桃姫は、すぐに静かな寝息を立て始めた。


「──おやすみ、桃姫……」

「──おやすみなさい、桃姫……」


 桃太郎と小夜は、穏やかな顔で眠る最愛の桃姫に対して、そして桃姫越しにお互いの愛する伴侶に言い合うようにそう告げて、ゆっくりと目を閉じた。

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