第1話 テレポーテーション・カレンダー



 北条廻が目を覚ましたのは、まだ外が白み始める早朝のことだった。廻はベッドの上で上体を起こし、枕元に置いたスマホを手に取る。普段の廻にしてみれば、まだ起きるには早い時間だった。かと言って二度寝できそうにもなく、目は冴えていた。きっと昨日の夜、珍しく早寝したからだろう。本当なら夜に勉強しようと思っていたのだが、やる気が出ずにそのまま眠ってしまったのだ。

 廻は制服に着替えて顔を洗い、一階のリビングへと向かった。台所では廻の母が洗い物をしていて、廻が顔を見せると「今日は早いね」と言った。

「なんか、目が覚めちゃって」

 廻は答えて、リビングにあるソファに座った。ソファの正面には薄型の液晶テレビがある。ソファの上に転がっていたリモコンを手に取り、電源を付けた。民放の情報番組をぼんやりと眺める。ニュースの内容はちっとも代わり映えがしなかった。

 他の家族はリビングにはいない。父は今日は仕事が無いので、遅くまで起きてこないはずだ。妹のあまねはまだ眠っているのだろうかと廻が考えた時、リビングの扉が開いた。

 廻より幾分か背の低い少女が現れた。普段はおさげにしている髪の毛も、寝起きの今は束ねられていない。その少女、北条周は廻と同様、既に制服に着替えていた。

「うわ、びっくりした。廻、なんで起きてんの」

 周は言った。子どもの頃から、彼女は兄である廻のことを呼び捨てにしている。学年が一つしか違わないこともあって、周はあまり廻のことを兄らしく思っていない節があった。少なくとも、廻は兄としての威厳とか、年長者としての尊敬とは無縁だった。

「たまたま目が覚めたから」と、廻は同じ説明を繰り返す。「お前は毎日このくらいの時間に起きてんだよな」

「うん。朝練あるから」

 周は答えながら食卓に座った。その視線は手元のスマホの画面とテレビの画面を行ったり来たりしている。

 周は吹奏楽部でフルートをやっている。彼女は中学に入ってから毎日のように早起きして学校へ向かうようになった。

「大変だな、吹部ってのも」

 廻は帰宅部だから、そういった苦労はあまり想像が付かない。

「フルパはみんな真面目だからさ。有紗ありさ先輩が朝練来てるのに、私がサボるってわけにもいかないし」

「そうだな。お前が不真面目だと僕が小清水にどやされるかもしれん」

「ま、朝から有紗先輩に会えると思えば重畳だけどね」

 周はそう言って笑顔を見せた。フルートパートの先輩である小清水のことを周は入学した直後から随分と慕っている。

 それからしばらくして、母が二人のために朝食を作ってくれた。目玉焼きにベーコン、トーストとオレンジジュース。北条家の朝食は、廻が記憶する限り毎日変わらない。もし明日世界が滅亡するとしても、母はきっと同じ朝食を作るのだろうなと廻は思う。

 廻は食卓について周と母と一緒に朝食を食べた。周は家族の中では食べるのが速い方だったから、一人先に食事を終えた。

 皿を流しに片付け、母が用意しておいてくれた弁当を手に取る。道堂中には給食が無く、生徒は弁当を持参しなければならない。台所には二つ弁当箱が並んでいて、そのうちの一つを廻は手に取る。

 どうせこのまま家にいてもやることが無いので、廻は学校へ向かうことにした。周はまだパンを齧っている最中だった。一口が小さいせいで、彼女の食事にはいつも時間がかかる。

「廻、もう学校行くの?」

 周は口の中のパンを飲み込んで、鞄を背負っている廻を見た。

「うん。教室で勉強でもしてるよ」

「うわー、勉強大好きすぎる。本当に私の兄?」

「多分ね。お前はまだ学校行かないの?」

「もうちょっとしたら出る」

 周は言った。廻は「いってきます」と言って家を出た。


 朝の空気は少しだけ涼しかった。昨日の雨は夕方には止んでいて、今はアスファルトの隅に少しだけ水が残る程度だった。後はすっかり乾いている。廻はリュックを軽く背負い直して、学校へと続く道を歩き始めた。

 普段と登校する時間が違うからか、周りの景色もどこか違って見える。普段は周りに他の学生や通勤するサラリーマンの姿があったが、この時間だとまだそれもまばらだった。たまにランニングをしている人や、犬の散歩をしている人とすれ違う。そのたびに廻は小さく会釈をして挨拶の代わりとする。

 家を出て数分、廻は前方に人影を見た。鞄を片手に持ち、制服を着たロングヘアーの少女。二階堂環だった。廻は小走りになって彼女に追いつき、声をかける。

「環。おはよう」

「廻? おはよう」環は振り返って首を傾げる。「今日、早いね。用事?」

「いや、何となく目が覚めただけ。環はいつもこのくらいの時間に?」

「たまにね。教室に人が少ない方が本に集中できるから」

 廻も雑音があると集中しにくいタイプだから、その気持ちはよく分かった。

 二人は並んで歩きながら話を続ける。

「今日は僕らが一番乗りかな。この時間だったら」

「部活で朝練してる人の方が早いんじゃない? サッカー部の人とか……あと、有紗たちも」

「いや、教室にって意味で」

「どうかな。千晴もたまに早くに来てることがあるから」

「飛鳥が?」

「早くに来て、教室で勉強してるの、たまに見かける」

「そうだったのか」

 いかに学校や塾で毎日のように顔を合わせているとは言え、知らないこともある。そういえば飛鳥は朝方だと言っていたな、と廻は思い出した。

「羨ましいな」

 廻は呟いた。

「何が?」

「飛鳥のこと。朝に勉強したりするのって、何か時間を有効に使ってる感じがする」

「廻は超夜型だもんね」

 超、の部分を強調するように言って、環はわずかに微笑んだ。

「昨日は夜もまともに勉強出来なくて寝落ちして、それで今朝変な時間に目が覚めたんだけどな」

 自嘲するように廻は言った。

「そういえば、こうして廻と一緒に登校するの、久しぶりかも」

 環は言った。確かにな、と廻も頷く。小学生の頃は家が隣同士ということもあってしょっちゅう一緒に登校していたが、中学に上がる頃からそういう機会も減ってしまった。互いの生活リズムが変わってきたということもあるし、二人だけで歩く時間に廻がどこか気まずさを覚えるようになったという理由もある。けれどこうして道で出くわせば並んで歩くくらいには、二人の間には変わらないものもあった。

「昨日の晩、廻が寝落ちしたおかげかな」

 環はそう言いながら歩いていく。廻もその横で歩調を合わせて進んだ。

 歩いていくうち、二人は螺旋神社の前を通りかかる。螺旋神社は廻の家から道堂中学までの道のりのちょうど中間ほどに位置していた。

 参道の辺りに、制服姿の少女が一人立っている。透き通るような銀色の髪に、サファイアの如き青色の瞳を持つ少女だ。おそらくヨーロッパかどこかにルーツがあるのだろうが、廻は詳しい事情を知らない。彼女はホウキを手に持ち、地面に散らばった落ち葉を掃いて参道を清めていた。彼女の着ている制服は道堂中のものであり、彼女はまた廻たちのクラスメイトでもあった。

 円谷まどか。螺旋神社の神主の娘らしいとは聞いていたが、神主の娘らしいところを実際に見たのは廻にとって初めてだった。登校前に掃除をしている辺り、やはり忙しいのだろうと思う。

 不意に、掃除をしている円谷と目が合った。廻は鳥居の前で立ち止まる。クラスメイトとは言え、廻は円谷とあまり話したことがない。何と声をかけたものか迷っていると、彼女はホウキを片手に持ったまま、小さく会釈をしてきた。廻は同じように会釈を返して、そのまま螺旋神社の前を通り過ぎた。



 早朝の学校にはひと気が少なく、廻はまるで知らない場所に来てしまったかのような錯覚を起こした。グラウンドでは陸上部とサッカー部がそれぞれ朝練をしていた。リズミカルなかけ声を聞きながら、廻と環は正門から昇降口へと続く道を歩いていく。

 昇降口の前にある下駄箱で二人は靴を履き替える。上履きを床に落とし、足の指先を器用に使って、靴下に包まれた足を上履きの中に滑り込ませる。

 左足だけで立ちながら、右足を上げて、潰れた上履きの踵を直す。バランスを崩してよろめき、廻は下駄箱に手を突いた。その瞬間、不意に昇降口を潜ってくる男子生徒の姿が目に入る。

「おはよう、北条。二階堂さんも」

 と、その男子生徒は言った。廻たちも「おはよう」と口々に挨拶を返す。

 彼の名前は望月もちづき聖人まさと。廻たちと同じ、三年一組のクラスメイトだ。前髪で目元が隠れるようなボサッとした髪型に、黒縁のフレームの大きな眼鏡をかけている。ふとした瞬間に覗く目元からは、美少年らしい面影が垣間見えることもある。けれど滅多に美容院に行かない彼の性質も相まって、そのことを知っている者は少なかった。

「望月、早いんだな」

 廻は言った。望月は靴を履き替えながら頷く。

「ちょっとね」

 望月は、それだけ答えた。理由は言わない。その誤魔化すような口調が、廻にはわずかに引っかかった。

 望月が所属しているのは映画研究部である。活動実態がほとんど無いお気楽な部活で、朝練などするはずもない。

 すると、部活以外で何か用事があったのだろうか? しかし、望月は廻がそれを尋ねるよりも早く、下駄箱の前から姿を消した。彼が向かったのは、教室とは別の方向だった。

 道堂中学の校舎は東棟と西棟に別れている。昇降口は南側にあり、向かって左が西棟、右が東棟になる。校舎は上から見ると中庭を囲うように「コ」の字の形をしていた。西棟には通常授業で使われるクラス教室があり、東棟には主に特別教室が並んでいる。

「私、図書室で本返してくる」

 環はそう言って、一人東棟の方へと向かった。廻は頷いて、西棟の方を目指す。

 教室はフロアごとに学年が別れている。一階が一年生、二階が二年生、三階が三年生。学年が上がるごとに上り下りする階段の数が増えることに、廻は内心で辟易していた。

 階段を上がり、廊下の手前から奥にかけて一組、二組、三組と並ぶ。道堂中は現在、全ての学年が通常学級三クラスで編成されている。かつては一学年四クラスの編成だった頃もあるらしく、最奥に位置する教室はかつての名残だった。

 どこかからか、金管楽器の音が響いていた。サックスか、あるいはトロンボーンか。きっと吹奏楽部の朝練だろう、と廻は思う。妹の影響でフルートの音色は分かるようになったが、それ以外の楽器は判別が付かなかった。

 廻は教室の扉を開けた。ガラガラと音を立てて、引き戸が横にスライドする。教室の中は薄暗かった。

 誰もいなかった。廻は窓際から二列目にある自分の席に向かった。そのままカーテンを開け、陽光を教室の中に取り込む。宙空に舞う埃が太陽の光線に照らされた。

 廻は自席に座り、鞄を脇に置いた。

 その時、教室の扉が開いた。廻は扉の方へ目を向ける。そこには飛鳥が立っていた。

 銀縁の丸眼鏡で瞳を覆い、トレードマークの三つ編みが揺れている。スカートは膝までを覆い隠し、白のブラウスの上から薄いベージュのベストを着ている。三つ編みは一つだったり二つだったりと日によってまちまちだが、今日は頭の後ろから一つだけ垂れていた。

 彼女は飛鳥千晴。廻とは二年の頃、塾のクラスが同じになって知り合った。元々塾には飛鳥の方が先に通っていて、廻がそのクラスに入ってきた格好だった。成績も似たり寄ったりで、互いに勉強を教え合い、あるいは試験の結果を競い合うような仲になった。何の因果か、三年になってからは学校でも同じクラスになり、一週間のうち実に六日も顔を合わせる存在である。

「おはよう、北条」

 飛鳥は声をかけてきた。廻は「おはよう」と返す。

「今日は早いんだね」

 飛鳥は自席に鞄を置きながら言う。彼女の机は廻の一つ前にあった。

「たまたま早くに目が覚めたんだ。家にいてもやることが無いから、早めに来て勉強でもしてようかと思って」

 廻はリュックの中から何冊かの冊子を取り出した。塾で配布された日本史のテキストを机の上に出す。朝は暗記するのに適していると聞いていたし、日本史の成績には不安なところも多かった。廻はテキストを開く。

「もうすぐ編成テストだもんね」飛鳥は言った。「今回はどう? Sに行けそう?」

「冗談だろ。B落ちしないように必死だよ」

 廻は苦笑しながら答えた。飛鳥も口元に手を当てて笑っている。

 飛鳥はその笑みを絶やさないまま、少し小さな声音で呟く。

「……正直、今回はちょっと不安だよ。最近はAにもなかなか付いていけてない気がする」

 飛鳥がそう言って弱音を吐くところが、廻には少し珍しいような気がした。だからこそ廻は、自分の方からも弱気をさらけ出せると感じた。

「僕もプレッシャーだよ。編成テストなんて仕組み、即刻やめてほしいよな」廻は小さく息を吐き出す。「僕は今から来年が不安だよ」

「受験の本番が?」

「塾内の編成テストでこれだけ緊張してるんだから、本番になったら心臓が破裂して死ぬんじゃないかって」

 廻の言ったことは半ば冗談だったが、半ば本気でもあった。廻は昔からプレッシャーに弱い。そのことは重々自覚しているが、昔からの性質だけは一朝一夕には治らなかった。受験期までにはこの性質を何とかしなければ。そう思うことがますますプレッシャーになって廻の心臓にのしかかってくる。

「来年なんて来なければいいのにって思うよ」

 廻は言った。先日、螺旋神社に願ったことを思い出す。

「じゃあ、一生中学生のまま?」

 飛鳥は笑いながら聞いてきた。

「そうだな。それでもいいよ」

「私は早く終わらせて解放されたいけどね」と、飛鳥は言った。「環ちゃんに借りて読んでない小説が山ほどあるんだよ」

「そんなにあるの?」

「それはもう、山のように」飛鳥は頷いた。「こないだ催促されちゃったよ。あの時貸した小説、どのくらい読んだかって。正直、まだ二、三冊しか読めてないから、誤魔化しちゃった」

「ふうん。珍しいな」

 廻は言った。環が貸した本を返すように催促することはあまり無い。貸した本をまた読み返したくなったのだろうか。

「──とにかく、受験が終わらないことには本を読むにも集中できないし、早く終わってくれないと私には困る」

 そうだな、と廻は頷いた。

「やりたいことが多くて羨ましいよ。モチベに繋がるだろ。僕はそういうの、あまり無いから」

「そっか」飛鳥も頷く。「ねえ、受験が終わって春休みになったら遊びに行かない? 小清水さんと計画してるんだよね」

「遊びにって、どこに?」

「有紗はディズニーが良いって」

「ランド? シー?」

「さあ。どう違うの?」

「乗り物が違うんじゃないのかな……?」

 廻も詳しいことは知らなかった。道堂市から千葉県に行くためにはJRを乗り継がないといけない。

「とにかく、北条も一緒に行こうよ。男子一人だと居心地悪いだろうから、早乙女くんあたりも誘って。君が来た方が二階堂さんも喜ぶよ」

「そ……そんなことも、ないだろ」

 廻は口ごもりながら顔を背けた。

「あ、逆か」飛鳥は口元にニヤリとした笑みを浮かべながら言った。「二階堂さんが来ると北条が喜ぶのか」

「違うって」

「じゃあ喜ばないの?」

「それは──」廻は目を泳がせる。「そうとも言ってないだろ」

「ふふっ」飛鳥は笑みを漏らした。「ごめん、ごめん。からかうつもりは無いよ」

「本当か?」

「本当に。私は応援してるんだよ、君らのこと。北条も二階堂さんも大事な友達だからね。上手くいってくれたら、私も嬉しい。それに、」そこで飛鳥は真面目な表情になった。「二階堂さんはきっと、高校では離れちゃうと思うから」

「そうだな」

 廻は頷いた。環の志望校は知らないが、きっと廻とは別々になるのではないかという予感があった。

「だからね、私が言いたいのは、時間は有限ってこと」

 飛鳥は言った。廻は無言で頷くだけだった。

 廻は思う。飛鳥の言うことはきっと正しい。けれど今の彼には、受験のことの方が気になっていた。環のことは、どうしても二の次になってしまう。

 あるいは廻はこうも思う。自分は環と離れてしまう現実を直視したくないのではないか? 廻と環は物心付いた時から近くにいた。家族ほど近くはないけれど、他の友人よりは明らかに接近した存在。廻にとって、環が隣にいることはあまりにも当然だった。だからこそ、環が側にいなくなるということは、廻にとって想像できない──想像したくないことだった。

「時間は有限、ね……」

 廻は飛鳥の言葉を繰り返し、黒板の横に目を向けた。

 教室の前の壁、黒板と窓に挟まれたスペースには、色々な掲示物が貼ってある。その中にはカレンダーもあった。

 そのカレンダーは担任である早瀬はやせの私物で、四月の頃から壁に画鋲で留めてあった。A2と呼ばれるサイズのカレンダーで、絵や写真はなく、マス目上に区切られた紙に日付や曜日、祝日などが記されている。上の部分にはミシン目があり、終わった月は破いて捨てるようになっていた。日付の部分には余白があり、几帳面な早瀬はここに行事の予定などを事細かに書き込んでいるのだった。

 廻はカレンダーというものが嫌いだった。時間の流れを直視させられているような気分になるから。嫌いなのに目を向けずにはいられない。そんなところもまた嫌いだった。

 廻の視線につられたように、飛鳥もまたカレンダーへと目を向ける。

「六月ももう終わりか……」

 と、飛鳥は独り言を言った。その時だった。

 飛鳥は不意に怪訝な表情になって、カレンダーを凝視した。

「どうかしたのか? 飛鳥」

 廻は聞いた。

「変わってる……気がする」

 飛鳥はカレンダーから目を離さないまま答える。

「変わってる? 何が?」

「位置だよ」飛鳥はカレンダーの貼ってある壁を指さした。「カレンダーの貼ってある場所、普段はもう少し左の方じゃなかった?」

 そう言われて廻が改めて壁を見ると、確かにカレンダーの位置は少しばかりずれているような気がする。普段は窓に近い位置に貼ってあったが、今は黒板に近い位置にあった。普段の定位置から比較すると、三、四十センチほどずれているだろうか。

「確かに。よく気づくな、飛鳥」

 廻は感心して呟いた。教室の中で、カレンダーの存在は日常の風景に溶け込んでいて、その位置まで気にすることはあまり無い。実際、教室に入ってからずっとカレンダーは目に入っていたけれど、飛鳥に指摘されるまで廻は位置が変わっていることに気づかなかった。

 ふと廻は、昔読んだホームズ譚の一節を思い出した。見ることと観察することは違う──そんな台詞があった。つまるところ、自分は見ているだけで観察をしていなかったのだろう。自宅の階段の段数を覚えていなかったワトソンのように。

「昨日は動いてなかったよね? あのカレンダー」

 飛鳥は聞いてきた。廻は自信なさげに答える。

「昨日の放課後の時は、いつもの位置にあったんじゃないか? 多分……」

 今だって、飛鳥に指摘されるまで気づかなかったくらいだ。昨日の時点で変わっていて、気づかなかっただけということも十分にある。けれど昨日一日の学校生活を思い返しても、誰かがカレンダーを動かした場面は見ていないし、もし動かされたのであれば廻以外の誰かが気づいてもよさそうなものだ。実際、今こうやって飛鳥がその事実に気づいたように。

 だとすると、やはり昨日の時点ではカレンダーは動いていなかったのだろう。廻はそう結論づける。飛鳥も同じ結論に達したようで、ますます興味深そうにカレンダーを凝視した。眼鏡の奥の瞳がわずかに煌めいているようにさえ見える。

「となると、カレンダーは昨日の放課後から今朝にかけて動いたってことになるよね」

 飛鳥は言った。そうだな、と廻も頷く。

「じゃあ、謎はシンプルだね」飛鳥は立ち上がり、カレンダーの方へと歩み寄る。「誰が、どうしてカレンダーを動かしたのか」



 飛鳥の発した疑問は、廻に対して尋ねているようでもあり、また自分自身に聞いているようでもあった。廻は「さあ……?」と告げるばかりだった。カレンダーを動かしたのが誰かなんて分かるはずもない。

 その時だった。教室の扉が開く。廻と飛鳥は同時に扉の方を向いた。そこに立っていたのは環だった。

「おはよう、千晴」

 環は言った。飛鳥も「おはよう」と返す。

「二人とも、どうしたの?」環はそう尋ねながら、自分の席に鞄を置いた。環の席は廻の一つ後ろにある。「なんだか難しい顔してる」

「そうだ、二階堂さんなら分かるかもしれないな」

 飛鳥は呟いた。環には洞察力や思考力がある。それは廻だけではなく、飛鳥も同様に感じているのだろう。

「何を?」

 環は聞き返した。廻は「あれだよ」とだけ言って、壁に貼られたカレンダーを指さす。

 環は廻の指の示した方に目を向けた。一瞥しただけで、彼女はすぐに言った。

「あのカレンダー、動いてるね」

「やっぱり環も気づいたか」廻は言った。「僕は言われるまで気づかなかった。正直」

「廻か千晴が動かしたわけじゃないんだね」

「そう」飛鳥は頷いて、少しばかり楽しそうな笑みを浮かべながら、環の顔を覗き込む。「ねえ、不思議だと思わない? 二階堂さん。誰が、何のためにカレンダーを動かしたのか。二階堂さんだったら、この謎が解けるかもしれないと思って」

 環の視線を受けて、廻も頷いた。環は小さく息をついた。

「……別に、ミステリーが好きだからって、現実で謎を解けるわけじゃないんだけど」

「やってみないと分からないだろ」

 廻は言った。環はカレンダーの方にチラチラと視線を向けている。彼女もまた、多少なりともこの〈カレンダーの謎〉が気になっているのだろう。廻はそう思った。

「念のため確認しておくけど──」環は廻と飛鳥の方へ目線を向けた。「君らがカレンダーを動かした、なんてオチじゃないよね?」

「違うよ。僕がそんなことするやつに見えるか?」

「廻、昔、私の部屋の本棚に悪戯したことあったよね? シリーズものの本の順番、全部めちゃくちゃにして」

 言われて廻も思い出す。確かに昔、環の部屋で遊んでいた時、彼女がリビングに行った隙に悪戯を仕掛けた記憶があった。特に理由は無く、ただ彼女が混乱したり狼狽したりしたら面白いだろうな、という動機でやったのだ。結局、環は大して困ったり怒ったりする素振りも見せず、淡々と本を元に戻しただけだったのだが。

「北条くん、そんなことを……?」

 飛鳥が目を細くしてこちらを見ていることに廻は気づいた。昔やった悪戯を期せずして暴露され、少しばかり顔が熱くなる。

「小三とかの頃の話だろ。もう謝ったし」

「それで、今度はどうなの。廻の悪戯じゃないの?」

 環はもう一度質問した。

「違うよ」廻は答えた。「ちなみに、教室に入ったのは僕が最初で、飛鳥がその次だった。だから飛鳥の悪戯ってこともあり得ないよ」

 そこまで言ってから、本当にそうだろうかと廻は思い直す。教室の扉の鍵は、廻が来た時点で既に開いていた。教室の鍵は早朝に用務員が開けて回るから、廻が来るよりも前から、教室は誰にでも出入りできる状態にあったのだ。廻が来た時、教室はカーテンが閉まっていて、電気も消えていた。だから自分が一番に教室に来たと思い込んだが、よく考えると、廻より先に教室に人が来ていたことを否定する証拠は何一つ無い。

「そういえば、」環は言った。「望月くんは? さっき昇降口で会ったけど、教室には来てないの?」

「そういえば、そうだな」

 廻は先刻のことを思い出す。しかし、彼は昇降口で廻たちと会い、教室とは別の方向へ向かった。対する廻は最短経路で教室に向かっている。望月がどこへ向かったのかは不明だが、少なくとも彼が廻を先回りして教室に辿り着くことは不可能だ。

 飛鳥は環へ尋ねる。

「望月くんは見てないけど、カレンダーの一件に関係あると思う?」

「分からないけど。とにかく、今朝教室に入ったのは廻と千晴の二人だけってことだね」

「僕たちの認識してる限りにおいては、そうだな」

「私の記憶が正しければ──」環は口元に手を当てて、記憶をたぐり寄せるような表情をした。「少なくとも昨日の授業が終わった時点では、カレンダーは定位置にあったはず。そうだよね?」

「多分ね」

 廻は答えた。自分の記憶に自信があるわけではないが、環が言うのであれば正しいだろうと思えてくる。

「放課後なら誰でも教室に出入り出来る。カレンダーを動かす機会は誰にでもあったってことになるね」

 環は言った。廻は首を捻った。

「だったら、『誰が』っていうのを特定するのは難しいか」

「だったら、理由から考えていった方がいいかもね」飛鳥は言った。「『どうして』カレンダーを動かしたのか、その理由から考えていけば、自ずとカレンダーを動かした人間にも辿り着くかもしれない」

「理由か……」

 廻は呟く。カレンダーを動かす理由。メリット。頭の中で、一通りそれを考えてみる。しかし、もっともらしい理由はなかなか出てこない。

「もし私がカレンダーを動かすとしたら、一番ありそうな理由は『見づらい』ってことかな」

 飛鳥は言った。廻たちは視線を彼女の方へ向ける。彼女は続けた。

「例えば前の人の背中に隠れて見えない、とか。そういう場合だったら、カレンダーが見やすいように動かすってことはあるかもって思う」

「なるほど」廻は頷いた。「教室だと机の位置が固定されてるから、カレンダーの方を動かすしかないってことか」

「もしカレンダーを動かした理由が、カレンダーを見やすいようにするためなら、その『犯人』の候補も絞られることになる。例えば、少なくとも最前列の生徒は犯人じゃないってことになるよね」

 飛鳥は机の配列を見ながら言う。机からカレンダーが貼られている壁までに遮蔽物は無い。

 廻は環の顔を見た。彼女は真剣な表情で飛鳥の言ったことを検討していたが、やがて口を開いた。

「確かに、千晴の言ったような可能性もある。だけど、違和感もある」

「違和感って?」

 と、廻は聞き返す。

「そもそも、授業中にカレンダーを確認したい場面があまり無いと思う。授業中以外だったら立って確認すればいいだけだし」

「確かに……」

「それに、タイミングも謎だね」環は重ねて言った。「最後に席替えをしてからもう一ヶ月以上経ってる。もしカレンダーが見づらいって人がいたなら、もっと早い段階で位置を調節してるんじゃないかな」

「ずっと我慢してて、昨日ついにしびれを切らしたのかも」

 廻が言うと、環は素直に頷いた。

「もちろん、そういう可能性もある。どうしても授業中に日付を確認したい事情があったのかもしれないし」

 しかし、そんな事情は廻にも思いつかなかった。そもそも、そんなに日付が気になるなら、今は大抵スマホで確認できる。道堂中の校則では校内でのスマホの使用は禁止されているが、こっそり机の下で見るくらいなら誰でもやっていることだった。

「じゃあ違うかな」

 と、飛鳥は言った。環は答えて言う。

「間違ってるとは言い切れない。ただ、そうだと確信も出来ないってだけ」

「でも、他の可能性って言っても難しいよな……」

 廻は呟いて、再びカレンダーを見た。

 黒板の横の壁には、カレンダー以外の掲示物は貼られていない。廊下側、つまり黒板の右の壁には、学校からのお知らせや時間割表などの掲示物が雑然と貼られているが、それに比べれば左側はすっきりとしていた。カレンダーが元々貼ってあったのは窓に近い壁だが、その場所には今は何も貼られておらず、ベージュ色の壁紙が露出している。

「スペースを空けるため、とか……?」

 廻は呟いた。環たちの視線を受け、更に説明を加えていく。

「カレンダーを動かせば、その分スペースが空くだろ。そこに別の掲示物を貼ろうとしてたのかも」

「じゃあ、動かしたのは早瀬先生?」

 飛鳥が聞き返した。

「あるいは、委員会や部活のポスターを貼ろうとしてたって可能性もあると思うけど」

「でも、実際にはカレンダーがあった場所には何も貼られてないわけだよね?」

 と、環は言った。廻は意気消沈したように頷く。

「それは、まあ……。でも、後で貼ろうと思ってたのかもしれない」

「それに、ポスターとかの掲示物だったら、わざわざあんなところに貼る必要は無いんじゃないかな。廊下側の掲示板にはまだスペースがあるんだから、そっちに貼った方が目立つと思うけど。第一、そもそもカレンダーが動かされていたってことは、動かした先に元々スペースがあったわけで、わざわざカレンダーの位置を変えて新しく別の掲示物を貼るのは二度手間だと思う」

 環に徹底的に反論され、廻は「そーですね……」と言って黙るほかなかった。心なしか、さっき飛鳥に反論した時よりも手厳しいように感じるのは気のせいだろうか?

 スペースを空けるためにカレンダーを動かしたのではない。では、何のために? 廻はカレンダーを改めて注視した。六月の日付が目に入る。カレンダーそのものに変わったところは無い。書き込まれているのは学校やクラスの行事ばかりだ。そして、カレンダーが元々あった定位置には、ただの壁があるだけ。

 その時、唐突に廻は閃いた。

「そうだ。動かされた方の壁が問題なんじゃない?」

「どういうこと?」

 飛鳥が聞き返してくる。廻は滔々と自らの推理を語り出した。

「カレンダーが動いた理由は、きっと後ろの壁を隠したかったからだよ。昨日の放課後、誰かが教室の壁に何かしらの跡を付けてしまった。油性ペンで落書きをしたとか、傷を付けたり穴を開けたりしたとかね。だからそれを隠すためにカレンダーの位置を変えたんだよ」

 放課後の教室に残ってふざけている生徒も少なくない。女子はせいぜいお喋りをしているくらいだが、男子は悪ふざけがエスカレートすることもあると廻は知っていた。悪乗りが高じて壁に落書きをする──いかにもあり得そうなことだ。

「なるほど」飛鳥は頷いた。「確かに、それなら理由は説明が付くね」

「じゃあ、確かめてみる?」

 環は廻の顔を覗き込むように見た。上目遣いに見上げられると、環の三白眼が強調され、廻は思わず狼狽えそうになってしまう。

「確かめるって?」

 と、廻は聞き返した。

「廻が言った仮説を検証するのは簡単だよ。実際にカレンダーの後ろを見てみればいいんだから」

「ああ……確かに」

 廻は頷いた。実際、彼は検証の必要など感じないほどに、自分の推理に自信を持っていた。一度こうだと考え始めると、もはやそれ以外の可能性など無いかのように思えてしまう。

 しかし、幸いカレンダーをめくればいいだけのこと、確認するのもそれほど手間ではない。

 廻はカレンダーの貼ってある壁に近づいていくと、台紙に手をかけて、数枚の紙ごとそれをめくった。

 カレンダーの後ろにある、ベージュ色の壁紙が見える。廻はよく目を凝らして壁を見た。どこかに落書きか、傷か、穴か。とにかく何かがあるはずだ。目を皿のようにして壁を観察する。

 そして、何度確認しても、そこには綺麗な壁があるだけだった。

 真新しい傷も、落書きも無い。まっさらな状態の壁紙があるだけだ。

「これは……」

「外れ、みたいだね」

 飛鳥と環が口々に言う声が背中越しに聞こえてくる。廻は落胆してカレンダーを元に戻した。

「ダメか……結構自信あったんだけどな」

「仕方ないよ。北条くんは『名探偵』って感じじゃないからね」飛鳥はからかうように言った。「どちらかと言えば……『助手』って感じ?」

 それを否定することも出来ず、「そーかもね……」と廻は気のない返事をした。

「ついでだから、カレンダー、元に戻しておいたら?」

 環は提案した。廻は頷いて、彼女の言った通りにする。

 カレンダーの上部を留めている画鋲を引き抜き、カレンダーを壁から外す。それから、元々カレンダーが貼ってあった定位置まで持っていった。画鋲の穴が幾つか残っている辺りにカレンダーの穴をあてがい、上から画鋲で留め直す。

 廻は壁から少し離れて、壁の全体を確認した。やはり、こちらの方が見慣れた光景だ。しっくりくる、と廻は思った。

 そこへ教室の扉が開き、望月がやってきた。廻たちは彼と挨拶を交わす。それを皮切りにして、他の生徒たちもぞろぞろと教室に現れた。カレンダーのことに夢中になっているうちに、随分と時間が経っていたらしいと廻は気づく。周りに人も増えてきて、自然とカレンダーの一件に関する会話は中断された。

 廻が自分の席に座ると、机の上に出しっぱなしにしてあった日本史のテキストが目に入ってきた。結局、朝に勉強しようと思っていたのも、絵に描いた餅になってしまった。廻は小さくため息をついて、テキストを机の中にしまい込んだ。



 朝の教室に生徒たちが揃い、担任の早瀬はホームルームのきっかり三分前に教室に入ってきた。廻たちの担任である早瀬義和よしかずは今年で三十九歳。人当たりの良さそうな男性教師で、担当教科は理科である。

 早瀬は朝の挨拶を済ませると、いつものように教室を見回し、欠席が無いことを確認した。それから彼は黒板の横に貼ってあるカレンダーを確認する。

「えー、今日は……昼休みに図書委員の集会ですね。このクラスの図書委員は確か……たちばなさん」

 名前を呼ばれた女子生徒は、はい、と小さく返事をした。

「忘れないようにお願いしますね。ではこれで。今日も皆さん頑張って」

 それだけ告げると、早瀬は教室を後にした。


 学校の授業は廻にとって(あるいは大部分の生徒にとって)退屈だった。廻の場合は塾の授業で既に中学で学習すべき内容は一通り終えてしまっていたし、単純に教師の話もつまらない。学校の授業を面白おかしくやる必要は無いだろうが、それにしたってもっと興味を惹くような話し方をしてくれればいいのに……と、廻は無責任なことを考えたりもした。

 それでも廻はシャーペンを片手にノートを広げ、真面目に授業を聞いているかのような素振りを見せる。授業態度は内申点に影響するからだ。

 今は二時間目で、数学の授業中だった。黒板に幾何学図形が描かれ、その中の線の一本に「X」の文字が書き込まれている。教わった定理を使う練習として、生徒たちは黒板に書かれた例題を解くように指示されていた。

 廻にとっては既に何回も解いた問題だった。解法に迷うことはない。彼のノートには既に途中式も含めて完璧な解答が書き込まれている。念のために検算したが、計算ミスをしていることはなかった。

「ねえ、廻くん」

 横から声がして、廻は首を左の方へ向ける。隣の席に座る小清水有紗が縋るような目を向けている。艶やかな黒のポニーテールに、ぱっちりと見開いた目。瞳の中心に据えられた黒目が真っ直ぐ廻の顔を捉えている。

「全然解けないんだけど!」

 小清水は悪びれる様子も恥じ入る様子も無く言った。

 小清水はあまり勉強の得意な生徒ではない。とりわけ数学のように、思考力が求められるような教科は不得手だった。

 彼女の机のノートは、黒板の図を一通り写したところで止まっていた。

 こうして問題を解いている時間は、生徒同士で教え合うことは容認されている。それに、他人に教えることで自分の理解も更に促進される──と、どこかで聞いたことがあった。

 廻は椅子ごと体をわずかに動かし、小清水の方へと近づく。小清水のノートへと手を伸ばし、シャーペンで補助線を書き込んでいった。

「──で、ここの円とこの線が接してるから……」

「あー、そういうことか! 分かったかも」

 小清水はノートを自分の方へと引き寄せ、サラサラと自分のシャーペンを動かしていく。

 小清水は勉強に興味とやる気が無いだけで、決して頭が悪いわけではない。現にこうして廻がある程度まで導けば、必ずいつも自力で正解に辿り着く。

「出来た! 合ってる?」

 やがて小清水は廻のノートを覗き込み、自分の解答と合致していることを確認した。

「やった、合ってる」

「僕の答えが正しいとは限らないけど」

 廻も自分の答えが間違っているとは思っていないが、一応の保険としてそう言っておく。

「いやいや、廻くんなら絶対合ってるって」小清水は言った。「ありがと、教えてくれて」

「いや、別に」

 廻はそう答えて、椅子を元の位置に戻す。不意に目に入ってきたのは、前の席に座る飛鳥の後頭部と、その先に見えるカレンダーだった。

 カレンダーは先刻、廻が元の位置に戻し、そのままになっている。廻は朝のホームルームの時のことを思い出していた。

 ホームルームの時、担任の早瀬はいつものようにカレンダーを確認していた。しかしその時、早瀬はカレンダーに特別な反応を示していなかった。

 もし早瀬が意図的にカレンダーの位置を変えたのであれば、廻がカレンダーの場所を戻したことで、彼は何らかのリアクションをするはずだ。しかし無反応だったということは、カレンダーを動かしたのは早瀬ではない……と、考えられる。

 そしてそれは、この教室にいる全員に言えることだ。廻はそれとなく教室の中を見まわしたが、カレンダーのことを気にしている生徒は、強いて言うなら廻だけだった。

 まだ例題を解くための時間は少し残されている。つまり、まだしばらく話が出来るということだ。廻は小清水にカレンダーの一件を相談してみようかと思った。しかし彼女はどこか真剣な表情でノートに視線を落としている。珍しく真面目に定理を理解しようとしているのかもしれない。それに、前提から話しているとなかなか複雑になりそうだ。廻はひとまず小清水に話をするのはやめておいた。


 四時限目の授業が終わると昼食の時間になる。生徒たちはそれぞれ持参した弁当を広げ、廻もそれに倣った。

 基本的に昼食は教室の中で食べることになっているが、その中であれば誰と食べるか、どこで食べるかは自由だった。各々が友人同士で席を寄せ合い、いくつかの小島が教室の中に点在するようになる。

 廻が巾着袋から弁当箱を取り出していると、頭上から声がかかった。

「北条。机、空けて」

 一人の男子生徒が、簡素なアルミの弁当箱を片手に立っていた。制服の上から着込んだ淡いピンクのパーカーが映えている。

「どうぞ」

 廻は弁当箱をわずかに引き寄せ、机の半分を空けてやる。

「サンキュ」

 そう言いながら、その男子生徒はその辺りに余っている椅子を引き寄せ、机を挟んで廻の正面に座る。

 彼の名前は早乙女啓けい。廻の友人の一人である。サラサラとしたストレートヘアーにはほんのわずかなうねりすら無く、女子である小清水が羨ましがっているほどだった。切れ長の目は一見すると睨んでいるようにも見え、初対面の人間を萎縮させるが、よく見るとその奥の瞳には優しげな色が宿っている。

 早乙女は弁当箱を開いて箸を取り出した。早乙女の弁当箱の中身は全体的に茶色っぽくて、簡素な献立だった。いただきます、と呟いて、早乙女は食事を始める。廻も同じようにした。

 すぐ近くでは、飛鳥と小清水、それに環の三人が机を寄せ合って食事をしていた。会話は弾んでいるようだが、小清水はどこか上の空に見える。二限目の数学の時といい、何か考え事でもしているのだろうかと廻は思った。

「──それでな、北条。この間、俺が開拓したゲームセンターなんだが、ラインナップがなかなか渋いんだ。おい、聞いてるか?」

 廻は意識を早乙女の方へと戻す。

「ああ、聞いてる」

「そうか。それで……どこまで話したかな」

「新しく開拓したゲーセンのラインナップが渋い、ってとこまで」

「そうだ。そのゲーセン、なんと『1942』が五十円で遊べる」

 早乙女はクールな表情を崩さないまま喜々として語る。彼はサボり癖の強い不良予備軍だが、その実筋金入りのゲームマニアでもあった。何しろ、廻と彼が出会ったのも、隣町にあるゲームセンターの中でのことだったのだから。

 廻は早乙女ほど熱心にゲームセンターに通うわけではないが、安くゲームが遊べるのは魅力的に思える。どのみち、受験が終わるまで遊びにうつつを抜かすつもりはなかったが。

 五十円──小銭。廻はふと、昨日の神社のことを思い出した。環と並んで賽銭箱の前に立ち、小銭を投げ入れた瞬間のことを。なぜか廻はその瞬間を克明に思い出すことが出来た。何てことはない、日常の中の一瞬に過ぎないその場面が、どうしてそこまで頭に残っているのか、廻自身にも分からなかった。

 早乙女は不意に廻の食べている弁当箱に目を向けてきた。

「その唐揚げ、うまそうだな」

 と、箸の先を向けてくる。

「ああ、うまい」

「やっぱりそうか」

 早乙女の箸が廻の弁当箱の中へと伸びていった。

「まだやるって言ってない」

「北条、俺の誕生日は明日だ」

 早乙女は廻の目を見ながら言った。廻は小さくため息をつく。

「唐揚げでいいのかよ……」

「俺はプレゼントなんか貰うようなキャラじゃない」

「欲しいものとか無いの?」

「『LSD』。プレステの」

 早乙女はそう答えながら、廻の弁当箱から唐揚げを一つかっさらっていき、あっという間に口の中に放り込んだ。

 もぐもぐと唐揚げを咀嚼する早乙女のことを、廻はぼうっと観察していた。廻の箸は宙空を彷徨っているばかりだった。早乙女は口の中のものを飲み込んで呟く。

「何か今日、上の空だな、お前。何かあったのか?」

 早乙女は聞いてきた。それで廻は初めて自分が上の空になっていることを自覚する。

「そうか?」

 と、廻は聞き返した。早乙女は頷く。

「授業中からずっとな」

 早乙女には存外、周りを観察する力が備わっている。敵わないと思いながら、廻は小さく息をついた。

「別に、大した話じゃないんだよ。ただちょっとカレンダーが気になってて」

「カレンダー?」

 早乙女は聞き返した。すると、その単語を聞きつけたのか、飛鳥が振り返って話に入ってきた。

「そうだ。早乙女くんも一緒に考えてよ、この謎を」

 そうして飛鳥はカレンダーの謎のことを説明した。彼女の説明は順序だっていて分かりやすい。廻も彼女のことを聞きながら、頭の中で状況を整理していく。しかしことが単純だけに、この情報からカレンダーを動かした理由や、その犯人までを特定するのは至難に思えた。

 話を聞いた早乙女は「確かにちょっとした謎だな」と頷く。最後に廻は、授業中に考えていたことを付け足した。

「さっき思ったことなんだけど。教室に人が増えるよりも前に、僕はカレンダーを元の位置に戻したんだ。だからカレンダーが動いていたことを知ってるのは、僕と環と飛鳥の三人だけってことになる。だけど、もしこのクラスの中にカレンダーを動かした犯人がいるとしたら、その人は僕が位置を戻したことに気づくはずなんだよ」

「そっか」横で話を聞いていた小清水は両手を叩いた。先ほどまで考え事に耽っていた彼女だが、今はカレンダーの一件に意識が傾いているようだ。「カレンダーの位置が戻されていたら、犯人はまたカレンダーを動かしに来るはずってことだね」

「うん。けど、そんなことしてたやつ、一人もいないだろ」

「うーん、動かした本人も忘れてるか、元々カレンダーの場所なんてどうでもいいんじゃない?」小清水は言った。「特に意味なんて無い、ただの悪戯だったんだよ。だから元の位置に戻されても放置してる」

 彼女の推理は身も蓋もなかったが、それ故に真実に近いのではという感覚も与えた。廻はふと、子どもの頃のことを思い出す。幼少期の廻が環に対して仕掛けた悪戯。あれもまた、単に環を困らせたいだけの、理由の無い行為だった。今回のカレンダーの件も、結局はそういった理由なのかもしれない。

 しかし、飛鳥はかぶりを振って小清水の言を否定した。

「それはダメ、小清水さん」

「え? 何がダメなの? 別に、これと言って否定できる証拠も無いと思うんだけど……」

 小清水は意外そうな顔で飛鳥のことを見ている。飛鳥は真剣な面持ちで告げた。

「その結論だと……面白くない」

 小清水は呆気に取られたような表情で、「確かにそうかも」と答えた。

「じゃあ、こう考えるのはどうだ」今度は早乙女が言った。「カレンダーを動かしたやつは、自分が犯人だと知られたくない。だから教室に周りの目があるうちは動かない」

「それなら確かに、合理性があるな」と、廻は同調した。「元々犯人は放課後にカレンダーを動かしたんだ。人目に付かないためと考えれば、行動に一貫性がある」

「でも、」おにぎりを両手に持った環が口を開いた。「わざわざ人目を避けて、こっそりカレンダーを動かす理由……それを説明しなきゃならないよね」ぱくり、と米の塊に齧り付く。

「ま、その辺りはお前らで適当に考えればいいだろ」

 早乙女は言った。彼は元より、カレンダーの謎にはさしたる興味も無いらしい。

「それか……あ、そうだ」廻はまた別の可能性を思いつく。「そもそもカレンダーを動かしたのがこのクラスの関係者だとは限らないよな。放課後は誰だって教室に出入りできるわけだし」

 もし他のクラス、他の学年の誰かが犯人だとすれば、反応が無くて当たり前ということになる。

「放課後と言えば──」飛鳥は思い出したように言った。「小清水さんなら、何か見てるんじゃない?」

「え、わたし?」

「ほら、吹奏楽部は放課後練習でよく教室を使ってるでしょ」

「ああ、そういうことか。でも、ここの教室は基本的には使ってないかな。三年は教室に居残りで自習してる人もいるし、なるべく放課後練習には使わないようにしてるから」

 小清水はそう言ってから、「あ、でも」と付け足した。

「わたし、教室にスコア置いてきちゃって、それで一瞬教室に戻ったかも」

「その時はどうだった?」飛鳥は聞いた。「カレンダーはどうなってた?」

「いや……」小清水は気まずそうに目を逸らす。「一瞬だったし、カレンダーなんて見てないよ。教室に残ってる子も他にいたし、邪魔しちゃ悪いと思ってすぐに退散したの」

「何だ」廻は拍子抜けしたように言った。「あまり役に立つ証言じゃないな」

「悪かったねっ」小清水は不服そうに言った。「廻くんだって何の証言も無いくせに……」

「そうだ、証言だ」と、横から早乙女が言った。「クラス中に聞き込みして回れば、誰がカレンダーを動かしたか分かるだろ」

 確かに彼の言うとおりだ、と廻も思った。虱潰しに調べれば、犯人も分かるかもしれない。

「でも……」飛鳥は消極的に答える。「さっき早乙女くんが言ってたみたいに、犯人にはカレンダーを動かしたのが自分だって知られたくない事情があるのかもしれない。もしそうなら、正直に話すとは思えないよね。それに……」

 飛鳥は不意にそこで言葉を句切った。

「それに?」

 と、廻は聞き返す。飛鳥は続けた。

「それで犯人を特定しても、面白くない」

「千晴……。現実の謎は、全部が全部エラリー・クイーンみたいに面白く推理できるわけじゃないと思うけど」

 環は告げた。あまりに冷静なその口調に、周りの者たちは思わず苦笑する。

「まあ、どっちにしろ、わざわざこんなことのために一人ずつ聞いて回るとか、面倒だし現実的じゃないよな。そこまでするようなことじゃない」

 廻は言った。確かにな、と早乙女も頷いている。

 そこまでするようなことじゃない。口では言ったが、話せば話すほどに、廻はこの謎の真相が気になり始めていた。

 その時だった。不意に廻の背後で、カタン、という音がした。

 振り返ると、少し離れたところでちょっとした騒ぎが起こっていた。どうやら生徒の一人が飲んでいたお茶の入っていたボトルが倒れ、隣に座っていた生徒の制服にかかってしまったらしい。お茶をかけられた方の生徒──橘葵あおいは、立ち上がって制服のシャツにハンカチを当てている。隣にいる、お茶をかけてしまった方の女子は平謝りしているが、かえって橘の方が萎縮しているようだ。お茶がかかった面積は存外広いらしく、元々紺色のスカートはそこまで目立っていないが、白いシャツには遠目にも分かるほど大きなシミが出来ていた。

 しばし教室中の視線が橘に集まっていた。注目を浴びるのが苦手な彼女は「だ……大丈夫、ですから」と告げて、再び着席して食事に戻った。

 いつの間にか昼食の時間は残りわずかになっていた。廻たちは急いで残りの弁当を腹の中に納めた。



 昼休みになっても、廻の頭からはカレンダーのことが離れないままだった。

 廻たちのクラスでは、昼休みは教室を離れる者が多い。外で体を動かしたり、図書室に行ったりと様々だ。教室に残っている生徒の数はそう多くはなく、教室の中はわずかな話し声が聞こえるばかりだった。

 廻と環はお互い教室に残っている。飛鳥は教室を出てどこかに行った。大方、図書室にでも行ったのだろう。小清水は部活のミーティングがあるらしい。妹の周といい、随分と忙しいんだなと廻は他人事のように思う(実際他人事なのだけれど)。早乙女はいつの間にか姿を消していた。彼にとっては珍しいことでもない。部室かどこかで寝ているのだろうと廻は想像した。

 そんなわけで、廻は必然的に残っている環と二人で話をすることになった。話題は当然、専らカレンダーのことになる。しかし二人で話したところで手がかりが増えるわけでもなく、議論は堂々巡りを繰り返すだけだった。

 話が途切れたタイミングで、廻はふと思った。もしかすると、自分は現実逃避をしているだけなのではないか、と。カレンダーの一件を考えて、目の前の小さな「謎」に取り組んでいるうちは、もっと現実的で大きな課題から目を背けていられる。例えば、数日後に迫った編成テスト。あるいは、その先に待ち構える受験。それについて考えたくないという心理が、廻の目をカレンダーの謎へと向けさせるのだろうか?

 そこへ、教室のドアが勢いよく開く音が聞こえ、廻の思考は中断される。振り向くとそこには二人組の女子がいた。

「ほんっとあり得ない。マジでムカつくわ、あいつ」

「いやぁ、夢芽があんな堂々とスマホ出してるからでしょ」

「それにしたってさぁ、没収とかヒドくない? あり得ないよね、今時」

「まあまあ、わたしも付いてってあげるからさぁ」

 二人は会話をしながら教室に入ってくる。しきりに愚痴を零している方は姫乃ひめの夢芽ゆめ。間延びした語尾で彼女をなだめている方が桜庭さくらば希来梨きらり。他の女子に比べると幾分か短めのスカート丈が二人の共通項である。同じ女子バスケ部に所属する二人は、クラスが編成された当初から何かと二人でつるんでいた。自他共に認める友人同士である。

 廻は二人の会話を盗み聞きするつもりなど毛頭無かったのだが、いかんせん彼女たちの声がよく通るばかりに、自然と会話が耳に入ってしまう。やがて姫乃たちは廻の方へと目を付けた。

「ねえ北条、何があったか聞かないわけ?」

 どうやら姫乃は廻にまで愚痴を言うつもりらしい。観念したように、廻は答える。

「別に、聞かなくても大体事情は分かるから」

「えー、マジで?」

「あれだけ大声で喋ってたら誰だって分かるだろ……。どうせアレだろ? 姫乃が校内でスマホ使ってて、それを誰か教員に見付かって、スマホ没収されたって話」

「ま、大体そんな感じかなぁ」

 と、横から桜庭が頷いた。

「災難だったな。これからはもっと上手くやれよ」

 廻は言った。道堂中の校則では、校内でのスマホの使用は禁止となっている。しかし放課後に家族などと連絡を取ることも想定されるため、スマホの持ち込み自体は特に制限されていない。だからスマホの所持が見付かったところで問題にはならない。

 加えて、多くの生徒は教師に見付からないようこっそりとスマホを使っているし、教員側もよほどのことが無い限りは見て見ぬ振りをする場合も多い。教員にとっても手間がかかるからだ。

「あそこまで堂々と使ってたら、流石にねぇ」

 と、桜庭は苦笑した。

「ちょっと写真撮ってただけじゃん」

 姫乃は口を尖らせる。

「いやいや、それを権ティーの前でやるのがダメなんじゃん」

 桜庭は呆れたように首を振った。〈権ティー〉は権藤ごんどうという教師の通称である。担当教科は体育で、生活指導も受け持っていた。

 没収された物品は権藤から返されることになる。しかし当然タダでというわけにはいかず、生徒指導室でありがたいお説教をたっぷりと聞かなければならない。廻は幸いにして彼のお世話になったことはないが、姫乃はこれが初めてではないらしく、しきりに権藤へ対する悪態をついていた。

 ひとしきり愚痴を言ってすっきりしたのか、桜庭たちは再び教室を去って行った。

 そこへ入れ替わるようにして、飛鳥が教室に戻ってきた。飛鳥はすれ違いざま、桜庭たちに一瞥をくれると、赤の他人を見るような冷ややかな表情をした。

 そのまま飛鳥は席に座る。廻は彼女に話しかけた。

「飛鳥、さっきの話、聞いてた?」

 彼女は振り替える。

「姫乃さんたちの話?」

「そう」

「聞いてたよ。災難だね、って感じ」

 廻は少しばかり小さな声で尋ねた。

「飛鳥はさ、ああいうタイプ、苦手なの?」

「別にそういうわけじゃないよ。ただ、私とは違う系統の人間だなって思うだけ。あの人──」と、飛鳥は桜庭のことを呼んだ。「前にも権藤先生に注意されてたでしょ。スマホか何かのことで」

「ああ、そうだったかも」

「校内で見付からないようにスマホを使うなんて、誰にでも出来る。きっとあの人はわざとそれをやってないんだよ。わざと先生の前でスマホを使って見せつけてる。そうやって校則とか、ルールに違反することで、自分のアイデンティティを確保しようとしてるんじゃないかな」

 廻と環しか聞いていない会話だからこんなことを言うのだろうか、と廻は思った。彼は答える。

「それは──穿ち過ぎだろ」

「そう?」

「それに、もしお前の言うとおりだとしても、アイデンティティが完全に無いよりマシだ」

「うん。それは確かにそうかも」

 飛鳥は素直に頷いた。それから一呼吸置いて廻は言う。

「それにしても、姫乃のSNSに対する熱心っぷりはある意味頭が下がるよな」

「私はそういうのやらないから、よく分からない」

 飛鳥は言った。彼女がやっているSNSはTwitterくらいのもので、それだって滅多に投稿はしていない。

「僕は一応フォローしてるよ、姫乃のアカウント。まあ、同じクラスだし、付き合いで。意外とフォロワーも多いんだよ。学校の知り合い以外とも繋がってるみたい」

「ああいうのって、どういう写真を投稿するの?」

「姫乃が投稿してるのは、飲み食いしたものの写真とか、出先で撮った自撮りとか……まあ、スタンダードなやつだな」

「そういうのって何か……危なくない?」飛鳥は真剣な顔つきで言った。「ネットに自分の写真アップするのとか、あまり良くないんじゃないの?」

「厳密に言えばそうかもしれないけど……。でも、姫乃はああ見えてその辺りしっかりしてるよ。住所とかの特定に繋がりそうな情報はちゃんと隠してるみたいだし」

「ふうん……そういうものなんだ」

 飛鳥は納得したように頷いた。

「まあ、その分顔はバンバン出してるけどね。アイコンだって自分の写真にしてるし」

 廻はそう言ってから、ふと思い出した。そういえば、姫乃のアカウントのアイコンは最近も新しいものに変わっていたような気がする。それでも、自分の写真を使っているのはずっと変わっていない。

「私もやろうかな、インスタとか」

 飛鳥は言った。廻は思わず彼女の方を二度見する。彼女はわずかに口角をつり上げている。

「何の写真上げるの?」

「自撮りとか?」

「……本気?」

「冗談だけど」飛鳥は真顔に戻った。「その反応も失礼だな」

「ちょっと驚いただけだよ?」

 廻は言い訳がましく言った。



 午後の授業も終わり、放課後のホームルームも終わり、生徒たちは三々五々教室を後にする。

 担任の早瀬は教卓の上で書類を整理していた。教室を後にする生徒たちと、さようなら、と声を交わしている。

 姫乃と桜庭が教室を出ようとした時、早瀬は彼女たちを呼び止めた。

「姫乃さん。権藤先生が生徒指導室でお待ちかねでしたよ」

 早瀬は相変わらず人当たりの良さそうな微笑を浮かべていた。姫乃は一瞬、うんざりしたような表情を浮かべ、「はぁい」と返事をして教室を出た。

 早乙女は早々に教室から姿を消していた。小清水は部活があるからと言って、慌ただしく教室を出ていった。

 廻が机の上で荷物を纏めていると、前の席に座る飛鳥が振り返ってきた。

「結局、カレンダーの謎は分からないままだったね」

 彼女は言った。そうだな、と廻は頷く。

「まあ、元々分かるとは思ってなかったけど」

「そうだったのか?」

「うん。カレンダーが動いていただけなんだもの。そうそう真相なんて分からないと思う。実際、ただの悪戯かもしれないしね」

 それは飛鳥自身が「面白くない」と一蹴した推理だが、面白くなくても真実である可能性は残る。

 飛鳥は鞄を肩にかけた。「帰るの?」と廻は尋ねる。

「図書館で時間潰してから帰る。小清水さんと一緒に帰る約束してるから」

 飛鳥は部活に所属していない。帰宅部だった。吹奏楽部に所属する小清水は部活が終わる時間も遅いので、帰る時間を合わせるためには飛鳥の方が時間を潰さなければならなかった。もっとも飛鳥は家よりも学校の方が勉強に集中できるタイプなので、学校で時間を潰す分には別段苦にはならなかった。

「じゃあね、北条、二階堂さん。また来週」

 廻と環が「また来週」と返すと、飛鳥は教室を後にした。

 気が付けば、教室の中に残っている生徒は廻と環だけになっていた。書類の整理を終えた早瀬が立ち上がり、カレンダーの方へと足を向ける。

「もう七月か、早いですね」早瀬は独り言のように呟いたが、きっとそれは廻たちに向けた言葉だったのだろう。「君たちは中学生だから、光陰矢のごとし、というのは実感が湧かないかもしれませんね」

「そんなこともありませんよ」廻は答えた。「時間が経つのが早いなって思うことくらいあります」

「歳を重ねるごとに、その感覚が加速していくんですよ」

「そういうものですか」

 廻は答えた。「ええ」と早瀬は頷き、カレンダーの六月のページを掴み、上部のミシン目に沿って破っていく。六月のページが破られ、その下にある七月が露わになった。

「あの、早瀬先生」

 廻が声をかけると、早瀬は「何ですか?」と振り返った。

「カレンダーの位置、そこでいいんですか?」

 廻が尋ねると、早瀬はわずかに首を傾げた。

「私はここで構いませんが……見づらかったですか?」

「いえ、僕は別に」

 廻が答えると、「なら良かったです」と早瀬は答えた。それから手の中にあるカレンダーの六月のページを一瞥し、それを廻の方へ差し出す。

「いりますか?」

「え?」

「裏紙に使えますよ」

「はあ……じゃあ、貰います」

 廻はついその紙を受け取ってしまう。紙の質感はツルツルとしていて、手に持つと意外に面積は大きい。うっかり受け取ってしまってから、これは体よく雑紙を処分するのに利用されたな、と廻は勘づいた。

「では、私は職員室に戻ります。北条さんも二階堂さんも、気をつけて帰ってください」

「はい。さようなら」

 廻が言うと、環も「さようなら」と小さく会釈した。早瀬は頷き返し、書類を小脇に抱えて教室を出て行った。

 早瀬の足音が遠ざかり、教室の中には廻と環の二人だけが残される。

 廻は手の中にあるカレンダーを見つめた。改めて見ても、何の変哲も無いカレンダーだった。日付と曜日、六曜に祝日が書かれているだけのシンプルなものだ。唯一の特徴と言えば、早瀬の筆跡で学校やクラスの行事が書き込まれていることくらいだった。

 いくらカレンダーを見つめたところで、動いていた理由に見当が付くわけではなかった。廻は紙を机の上に置く。カレンダーのページは机の天板を完全に覆い隠した。

 ほんのわずか、教室の窓から入ってくる日差しが眩しくなってきた。夕立が降っていた昨日とは打って変わって、六月三十日の道堂市には晴れ間が差していた。

 西から差し込む太陽光は、教室の壁に光の道を作った。クラス教室は西側に面している。だからこうして午後になると窓から直接西日が取り込まれるようになる。

 まるで意思がシンクロしたように、廻と環は同時に窓の方を見た。黒板の横の壁に光が差し、ちょうどカレンダーの真上の辺りに窓枠の形の影が落ちていた。放課後の教室を彩る太陽の光。まるで印象派の絵画のような、雰囲気のある光景だと廻は思った。

 ふと廻は、前にも似たような光景を見たような気がする、と思った。この教室に毎日通っているのだから、見覚えがあって当然なのかもしれない。しかし廻が感じているのは、そういう感覚ではなかった。もっと最近、それもここではないどこかで同じ光景を見たような……。

 廻は自分の脳内を探っていく。自分はどうしてこの光景を見たことがある気がしてしまうのか? その答えに辿り着きそうになった時、教室の扉が勢いよく開き、彼の思考は中断された。

 扉を開けたのは小清水だった。スカートのプリーツと後頭部のポニーテールを揺らしながら、小走りで教室の中に駆け込んでくる。

「あれ。二人とも、まだ残ってたんだ」

 小清水は廻と環のことを見て呟いた。それから彼女は、ニヤリとした笑みを浮かべると、廻の正面まで近づいてきて彼の顔を覗き見る。

「それにしても、廻くん。放課後の教室に環ちゃんと二人きりで、何をしてたのかなぁ~?」

「いや……別に何もしてないけど」

 廻はしどろもどろになって目を逸らした。

「さっきまで早瀬先生もいたよ」

 廻の後ろから環が答えた。環の表情はちっとも変わっておらず、声音も冷静そのものだった。小清水は、ふふっ、と悪戯っぽい笑みを漏らして環のことを見た。

「それで、」廻は話題を逸らそうとして口を開く。「お前は何しに来たんだ、小清水。部活はどうした?」

「ああ、そうそう。筆箱忘れちゃってさ」小清水は自分の机の中に手を突っ込んでゴソゴソと探る。「あー、あった」

 小清水の手には、布製の筆箱が握られていた。水色の生地に、ト音記号の刺繍があしらわれている。

「最近ボーッとしてるのかなぁ。昨日も教室に忘れ物して取りに戻ったし」

 小清水は呟いた。

「そういえば、昼間もそんなこと言ってたな」

 廻は今日一日の彼女の態度について思い返す。確かに、今日の小清水は心ここにあらずといった雰囲気の時が多かったような気がする。

「疲れてるんじゃないの? 吹部の活動、ほぼ毎日だろ」

「廻くんや千晴ちゃんだって、毎日勉強してるでしょ? それと一緒だよ。別に特別なことじゃない」

 それは違う、と廻は思った。飛鳥はどうだか知らないが、少なくとも廻は好きで勉強しているわけではない。音楽が好きで、フルートが好きで、吹奏楽が好きな小清水とは根本的に違う。けれど、廻はそれを口には出さなかった。

 小清水はそれから、廻の机の上にあるカレンダーに目を留めた。彼女は笑い混じりに言う。

「ていうか二人とも、まだカレンダーのこと考えてるの?」

「有紗」今まで黙っていた環は、不意に口を開いた。「さっきお昼を食べてる時、昨日の放課後の話をしてたよね。その時言ってた。教室には、他にも残ってる生徒がいたって。それって誰のことだったの?」

「ああ、そのこと? 姫乃ちゃんと桜庭ちゃんのことだよ。多分、スマホで写真か何か撮ってたんだと思う」それから小清水は言い訳がましく付け足した。「でも、さっきも言ったけど、マジでカレンダーのことは毛ほども気にしてなかったから。聞かれても思い出せないからね? ねっ?」

「ううん。そのことは別にいいの」

「そう?」

 小清水が聞き返すと、環は頷いた。

 廻は頭の中で考えている。姫乃と桜庭は昨日の放課後、教室に残っていたらしい。二人に話を聞けば、カレンダーの謎に繋がる手がかりが得られるだろうか。

「それより有紗、部活中なら早く戻った方がいいんじゃない?」

 環が告げると、「そうだった!」と、小清水はややオーバーなリアクションをする。

「あんまり油売ってると、周ちゃんに怒られちゃう」

「いや、あいつは怒らないんじゃないかな……」

 だってあいつ、お前のこと大好きだし。廻は家で小清水のことを話す妹の表情を脳裏に思い浮かべながら、心の中で呟いた。

「じゃあ私、戻るから。二人とも、また来週」

 小清水は筆箱を片手に教室を飛び出すように出て行った。

 再び二人きりになった教室の中で、廻は環の方を振り返る。

「思わぬ収穫だったな。姫乃たちに話を聞けば、何か分かるかもしれない」

「そうかもね」環は淡々とした口調で答えてから、ふと目を合わせてきた。「ところで廻。今ってスマホ持ってる?」

「持ってるけど……なんで?」

「ちょっと借りたいの。姫乃さんのSNSを確認したくて」

 環は要求した。彼女は自分のスマホを持っていない。

 廻としては、いくら環でもおいそれとスマホを貸し与えるのは嫌だったが、SNSを閲覧するくらいなら構わないだろうと思ってスラックスのポケットからスマホを取り出した。顔認証でロックを解除し、インスタのアイコンをタップする。

 タイムラインを少しスクロールすると、姫乃のアカウントはすぐに見付かった。スターバックスで売っている期間限定のフラペチーノの写真だった。廻はアカウント名をタップして、姫乃のアカウントのホームへジャンプする。

「ほら」

 廻はスマホを環へ手渡した。今は放課後で、教員は滅多に教室に現れない。見咎められることはないはずだ。

「ありがとう」

 環は礼を言ってスマホを受け取る。指先同士がわずかに触れ合ったが、彼女は気にする素振りも見せなかった。すぐに環はスマホの画面に目を落とす。

 画面上には正方形の写真が整列していた。環はそのサムネイルの一覧をしばらくスクロールした後、ふとアイコンに指先で触れた。アイコンの画像が拡大され、画面いっぱいに大きく表示される。

 廻は横からスマホの画面を覗き込んだ。姫乃のアイコンは、自分のバストアップの写真だった。タイムライン上で小さく表示されている時は判然としなかったが、拡大すると細部までよく見える。

 服装はどうやら制服のようだった。下半身は見切れているからスカートは見えないが、上半身は白のシャツに身を包んでいる。画面の左側から差し込む夕日が、画像の全体を幻想的な雰囲気に包み込んでいた。

 そこで廻は、ふと先刻の感覚の正体を掴んだ。教室に差し込む西日。その光景を廻はどこかで見たことがあるような気がした。それは姫乃のインスタのアイコンだったのだ。今目の前に広がっている教室の光景と、アイコンの画像の光景は似ている。無意識のうちにアイコンの画像が脳に刷り込まれて、まるで現実にその景色を見たことがあるかのように錯覚してしまったのだろう。

 そう思ってアイコンの画像を改めて見ると、どうやらこれは学校で撮られた写真のようだ、と気づく。写真の中の姫乃は壁を背にして横を向いているが、その背景の壁に見覚えがあった。ベージュ色のシンプルな壁紙は、明らかにこの道堂中学校の校舎のものだ。

「これ、学校で撮った写真だったのか」

 廻は呟いた。しかし背景にそれ以上の情報は無く、学校のどこで撮られた写真なのかまでは分からなかった。

 環は、なるほど、と言ってスマホを廻に返却する。

「分かったかもしれない」

「分かったって……何が?」

「カレンダーを動かした犯人と、その理由」

「本当に?」

 廻は思わず聞き返した。環は頷く。

「けど、念のため確認しに行く。姫乃さんに会いに行こう。確か、生徒指導室で怒られてるって話だったよね」

 環は鞄を片手に持って立ち上がる。廻は急ぎ自分のリュックを背負い、彼女の後を追いかけた。



 環と廻は教室を出て、西棟と東棟を繋ぐ渡り廊下を歩いた。環はカレンダーが動かされた理由が分かったと言うが、まだそれを廻に明かすつもりはないようだ。

 確認のために姫乃に会いに行く、と環は言っていた。ということは、やはり彼女が何か手がかりか証拠を握っているのだろうか? しかし、環はまるで姫乃から話を聞けば謎が完全に解決すると確信しているかのような口ぶりだった。

 渡り廊下を歩いて東棟に辿り着くと、環は階段を下っていく。廻もその後に続いた。しびれを切らしたように廻は尋ねる。

「なあ、環。どうして真相が分かったんだよ」

 環は振り返らないまま答えた。

「カレンダーが元々貼ってあった定位置には、カレンダー以外には何も無かったでしょ」

「ああ、そうだったけど」

「何も無いってことが重要だったんじゃないかな」

 環の言葉は迂遠なヒントのようで、廻はなかなか真意を掴むことが出来なかった。

 やがて二人は東棟二階へ辿り着く。職員室があるフロアであり、生徒指導室は職員室のちょうど隣に位置していた。

 その時、前方から歩いてくる女子二人組が目に飛び込んできた。姫乃と桜庭である。呼び出しを受けたのは姫乃だけのはずだが、どうやら桜庭も近くで待っていたらしい。

「あ、北条」姫乃は廻に目を留めた。「もしかしてそっちも呼び出し食らったとか?」

「一緒にするなよ」と、廻は一蹴する。

「そうそう。北条に限ってあり得ないでしょ」

 横から桜庭も言った。姫乃は不服そうに口を尖らせている。その彼女へ、環は藪から棒に尋ねた。

「少し聞きたいんだけど。昨日の放課後、教室のカレンダーを動かしたんじゃない?」

 あまりに単刀直入な聞き方に、内心で驚いていたのは廻だけだった。桜庭は「あ、」と呟き、あっさりと首肯した。

「動かしたかも。そういえば」

「それで、その後で戻すのを忘れて帰った。そうなんでしょ?」

「そうだった、そうだった」

 桜庭は何度も頷いている。姫乃も同様だった。

「でも、」と、姫乃は言った。「二階堂さん、昨日の放課後は教室にいなかったよね? 何で知ってんの? 私らがカレンダーを動かしたこと」

 環がそれに答えるより早く、廻も重ねて質問をした。

「ちょっと待ってくれ。カレンダーを動かしたのは桜庭だったのか?」

 廻はてっきり「目撃者」として二人に話を聞くものだと思い込んでいたが、その実桜庭は「犯人」だった。

「でも、なんで」

 廻は言った。環はその問いに答えて言う。

「それは、写真を撮るため」それから彼女は姫乃たちの方へ視線を向けた。「……だよね?」

「うん」

 姫乃と桜庭は同時に頷いた。

「写真……? それって小清水が見たっていう、スマホで撮ってた写真のことか?」

「ま、正確にはアイコンに使うためだったけどね」

 と、姫乃は訂正した。

「それとカレンダーと、どう関係するんだよ」

 未だ真相に辿り着かない廻へ、環は順を追って説明をする。

「昨日の放課後、姫乃さんと桜庭さんは教室で写真を撮っていた。姫乃さんは被写体、桜庭さんは撮影者ね。それでその時に、カレンダーを剥がした。背景に写り込んで邪魔だったから」

 姫乃たちは訂正しない。環の言っていることは正しいようだ、と廻は思う。

「でも、もしそうなら、わざわざカレンダーを動かすより被写体が動いた方が手間が少ないんじゃないのか」

 廻は反論した。しかし環は首を横に振る。姫乃と桜庭も「分かってないな」と言いたげにかぶりを振っていて、廻はほんのわずか疎外感を覚えた。

「それはダメなんだよ、廻。だって、太陽の光を動かすことは出来ないもの」

「太陽の光……?」

 瞬間、廻の脳裏に浮かんだのは、姫乃のアイコンの写真だった。画面の左から右にかけて太陽の光が差し込んだ、幻想的な写真──。

「あっ……そういうことか」

 既に得心した廻へ、環は更に説明を加えた。

「姫乃さんは教室で、光の演出効果を狙って写真を撮った。放課後の時間帯だと、日差しは西側の窓から入ってくることになる。光が当たるのはちょうど黒板の左の壁の部分。昨日は夕立が降ったけど、その前は晴れていたから、条件は今日とそう変わらなかったはず。だけどベストな位置に立つと、どうしても背景のカレンダーが邪魔になる。教室のカレンダーには早瀬先生が学校の行事予定なんかを書き込んでいて、個人情報に繋がる情報の宝庫だから、どう考えてもネットにアップする写真としては不適当でしょ? だからカレンダーを動かすことにした。そういうことなんじゃないかな」

 廻が姫乃の方へ目を向けると、彼女は小さく頷いた。

「そんな感じかな。放課後の教室って、太陽光が入ってきてエモい感じになるから、撮影するのには最適かなって前から思ってて。……っていうか二階堂さん、もしかしてこっそり見てたの? 覗き見的な?」

「ううん。ただ、色々な情報を繋ぎ合わせて、そうじゃないかと思っただけ」

 環は淡々と答えた。

 桜庭は斜め上に視線を向けながら、先日の記憶を掘り起こすように話した。

「確かあの時は、背景のカレンダーが邪魔だねーって夢芽と話してて……だったら剥がしちゃえ、みたいな感じだったかなぁ。机の上に置いとくと画鋲なくしそうだったから、すぐ横の壁にとりあえず貼っておいて、そしたらそのまま戻し忘れて帰っちゃったような気がする」

「そういやそうだったね。すっかり忘れてた」

 と、姫乃は言った。

「私はてっきり、夢芽が元に戻したのかとばっかり」

 桜庭も言う。廻は小さく嘆息した。廻がカレンダーの位置を戻したことに犯人が反応しなかったのは不自然だと廻は思っていたが、実際には何のことはない、単に犯人の側がそこまで気にしていなかったというだけの話だったのだ。

「カレンダーなら、僕が戻しといた。まあ、場所なんてどこでもいいと思うけど」

「そうなの? ありがとね」

 桜庭はわずかに笑みを浮かべて礼を言った。姫乃も「手間取らせてごめんねー」と頬を掻いている。律儀な一面もあるんだな、と廻は目の前に立つ二人に対する認識を少し改めた。

 それから姫乃は、ふと我に返ったように尋ねてくる。

「……っていうか、なんでカレンダーの話?」

「あー、それは……」廻は答えようとしたが、説明が長くなりそうなのでやめた。「まあ、ちょっとした暇つぶし」

「ふうん、そうなんだ」

「ていうか夢芽、部活行かなくていいの?」

 横から桜庭が言った。姫乃は瞬間的にハッとした表情になる。

「あ、ヤバっ。そうじゃん。ただでさえ権ティーに時間取られてるのに」

「ごめん。呼び止めて」

 環が言った。姫乃はブンブンと勢いよく首を横に振る。

「いーよ、いーよ、全然。じゃ、私ら急ぐから。またね!」

 姫乃と桜庭は、駆け足で廊下を去って行った。



 姫乃たちが去ると、途端に廊下には静寂が満ちたような気がしてしまう。実際にはグラウンドのかけ声だったり、吹奏楽部の練習する音だったりと、絶えず何かしらの音は聞こえているのだが。

 来た道を引き返しながら、廻は言った。

「そうだ……飛鳥、まだ図書室にいるかな」

「いるんじゃない」環は答える。「有紗の部活が終わるまで待つって言ってたし」

「せっかくだし、飛鳥にも教えてやろう。随分と気になってたみたいだし」

「じゃあ、廻が教えてあげてよ」

「何でだ。お前が推理したんだから、お前が説明するのが筋だろ?」

「私はさっき廻に説明してあげたでしょ? 連続で同じこと説明するのは、なんか嫌。飽きる」

「……なら仕方ないか」

 廻は頷いた。

 階段のところで二人は別れる。環は下へ、廻は上へ。図書室は東棟の三階にあった。

 廻は図書室の扉を開けた。絨毯張りの床は吸音性が高く、本棚の並ぶ部屋は静かだった。

 扉の横にはカウンターがあり、その中には図書委員の生徒が一人立っているだけだった。廻はその男子生徒に会釈して、後ろ手にそっと扉を閉める。

 扉から入って左側に本棚が並び、右側は閲覧スペースになっている。大きな机が二台置かれ、そこを取り囲むようにして椅子が並べられていた。

 閲覧スペースを使っている生徒の数はそう多くなく、廻はすぐに飛鳥のことを見付けることが出来た。ちょうど最奥の、机の角の部分を使っている。塾で配られた英語のテキストを広げ、頬杖を突きながら英文を目で追っている。

 廻は彼女に近づきながら、邪魔をしないように声をかけるタイミングを窺う。しかし、やがて飛鳥の方が先に顔を上げた。眼鏡の奥の双眸が、正面にいる廻の姿を捉える。

「北条、まだ帰ってなかったんだ」

 わずかに声量を抑えながら飛鳥は言った。つられるようにして、廻も心なしか小声で聞き返す。

「邪魔した?」

「ううん。ちょうど今のパラグラフを読み終わったら休憩しようと思ってたところ。この文章、やたらと長くて」

 飛鳥が開いているページは、まだ廻が手を付けていない部分だった。次の授業までに予習しておかなければ、と廻は頭の片隅で思う。

「〈カレンダーの謎〉の真相が分かった。聞きたい?」

「本当? それはちょっと……いや、かなり興味あるな」

 飛鳥がそう言うので、廻は真相を説明することにした。自分が見聞きしたことや、環が話していたことを総合し、順序立てて説明する。最後まで話を聞くと、飛鳥は小さく頷いた。

「そういうことだったんだ」

「この結論はどう? 面白かったか?」

「どうだろう。まあ、写真一枚のためにそこまで拘ってるっていうのは、少し意外ではあったかな」それから飛鳥は廻の瞳を覗き見る。「それで、この推理は誰が考えたの? 二階堂さん?」

「え……」

 廻は少しばかり面食らった。環が推理したことは一言も言っていないのに。

「なんで分かったんだ」

「だって、北条が自力で考えつくと思えなくて。君はそういうタイプじゃないから」

「そういうことか」

 と、廻は呟く。確かに環に話を聞くまで真相には辿り着かなかったのだし、飛鳥の評価もあながち偏見とは言えなかった。

「ま、話はそれだけ。邪魔して悪かった。でも、そっちも気になってるだろうと思って」

 廻は立ち上がった。飛鳥の視線が彼を追う。

「帰るの?」

「うん。勉強頑張って」

 飛鳥は頷いた。廻は図書室を辞した。



 廻が校舎の一階にある昇降口まで降りてくると、下駄箱の前の柱にもたれ掛かるようにして立っている環の姿が見えた。彼女の三白眼が廻の姿を捉える。廻は環の正面に立った。

「先に帰ったかと思ってた」廻は言った。「誰か待ってる?」

「廻を待ってた」

「そうか。僕か」

 廻は意味も無く周囲を見回した。環は柱から背中を離す。

「帰ろう、廻」

「うん」

 二人は昇降口の方へ並んで歩き出した。


 夕刻の道を廻は環と並んで歩いていた。視界の端で環の綺麗な黒髪が揺れている。懐かしいような、新鮮なような、相反する感情が廻の中で渦巻いた。こうして環と二人きりで下校するのも久しぶりかもしれない、と廻は思った。

「しかし──」廻は歩きながら口を開く。「結局、謎を解いたのは環の手柄だったな。今朝は解けないって言ってたのに」

「偶然だよ。姫乃さんたちに確認を取るまで、本当に正しいかは分からなかったしね」

 環は謙遜するわけでもなく、本心からそう言った。彼女は廻の方に目線をくれることもなく、彼の横を歩き続けている。

 廻は思う。確かに環は姫乃と話すまで自らの推理に確信を得ていたわけではないのだろう。〈カレンダーの謎〉は単純で、それ故に無数の可能性が存在していた。環はきっと、あらゆる可能性を検討した末に正解に辿り着いた。それは廻には出来なかった思考だ。

 現実は推理小説とは違う、と環は言った。けれど、よしんばこの世界が推理小説だったとしても、きっと探偵役は自分ではないのだろうと廻は思う。

「……それでも凄いよ。環は」

 ほんのわずか、囁くような声音で廻は呟いた。その声は風に巻かれて、環の耳には届かなかった。

 やがて二人は螺旋神社の鳥居の前を通り過ぎる。相も変わらず閑散とした神社の境内は、昨日と変わらぬ姿でそこにあった。廻は不意に昨日の出来事を思い出す。ここで環と一緒に雨宿りしたのが、どこか遠い夢の中の出来事の如く感じられた。六月三十日は、カレンダーの謎にかまけているうちに、一瞬の間に通り過ぎていってしまった。

 不意に廻は視線を感じた。鳥居の向こう、参道の中央に、円谷が立っている。制服姿の円谷は、廻のことをじっと観察するように視線を向けていたが、廻の方が顔を向けると目を背けた。

 廻は円谷に声をかけようかと思ったが、環は気づかないで先に進んで行ってしまう。結局廻は環の方を追いかけることにした。


 学校から十五分ほど歩いた住宅街のただ中に、二件の家が並んで建っている。道路から見て右が北条家、左が二階堂家だ。廻は門の前で立ち止まり、環に向き直る。

「じゃあ環。また来週」

「うん」

 環は短く頷いてから、瞳を斜め下に向けて、アスファルトの上に視線を彷徨わせた。

 廻は直感的に理解した。環には、何か伝えたいことがあるのだ。それが何なのかは分からないが、彼女にとって言い出しにくいことであることは明らかだ。

 子どもの頃にもこんなことがあった。小学生の頃、廻は環に漫画を貸した。幼い環はうっかりその漫画本の帯に折り目を付けてしまった。別に廻は本の状態に頓着する人間ではないので、別に気にしていなかったのだが、環はずっとそのことを言い出せずに数日の間よそよそしい態度を取っていた。

 廻は不意にその時のことを思い出した。廻にとってはどうでもいいようなことも、環は散々思い悩むことがある。

 また今回だって、些細なことに違いない。廻はそう思った。

「あの……廻」

 環は逡巡しながら口を開き、廻の顔を正面から見上げた。

 彼女の瞳がわずかに揺れ、数秒間の沈黙があった。それから環は顔を下げて言う。

「……やっぱり、何でもない」

 廻は知っている。こういう時、無理に聞き出そうとしても、環は絶対に話してはくれない。向こうから言い出すのを根気よく待つしかないのだ。だから廻は、それ以上何も言わなかった。

「じゃあね、廻」

 環はそう告げて、自分の家の門を潜っていった。廻も同じようにして自宅へと戻った。


 帰宅してから廻はしばらく自室で塾の課題をこなしていた。父と母はリビングで廻のことを出迎えた。妹の周が帰ってきたのは、外がすっかり暗くなってからのことだった。

 夜になり、廻たちは食卓を囲む。廻は母親が作ったハンバーグを箸で割り、ソースに絡めて口へ運んだ。噛むと肉汁が溢れ、それがソースと口の中で混じり合う。

 廻の父が言った。

「やっぱり母さんは肉料理が上手い。このハンバーグなら毎日食べてもいいくらいだ」

「当然でしょう、プロなんだから」

 母が言った。廻の母は料理研究家であり、過去にはローカル局のワイドショーで料理コーナーを担当していたこともある。著作も数点あるが、現在はYouTubeでの活動が主な収入源だ。

 そんな母が作る料理なのだから、庶民的な家庭料理であっても、味は一般的な水準から一線を画している。

「いやいや、毎日ハンバーグは重いでしょ」周は言った。「私だったら~……まあ、週に五回くらいならオッケーかな」

「それも食い過ぎだろ」

 廻は言った。確かにこのハンバーグは旨いが、母の作る料理の真価はそのメニューの豊富さにある。

 美味しそうに白米を頬張りながら、妹は不意に廻の方へ顔を向けた。

「そーいえばさ。今日、有紗先輩の様子、どうだった? 廻、今隣の席なんだよね?」

「小清水の様子?」

「うん」

 周はご飯を飲み込みながら頷いた。

「そういえば……なんかぼうっとしてる感じだったな。体調悪いとか?」

「そういうわけじゃないんだけど……」周はわずかに考える素振りを見せてから、小さく首を振った。「いや、何も無いならいいや」

「そう?」

 それ以上追求するようなことでもないな、と思い、廻は食事に戻った。


 食事を終えてから自室に戻り、廻はしばらく机に向かって数学の課題をこなしていた。

 机の上に置かれていたスマホが震えた。廻が画面を確認すると、飛鳥からLINEでメッセージが届いていた。学校の英語の授業で出される課題の範囲を尋ねている。廻は手早くノートを確認し、飛鳥に返信を送った。しばらくすると、テディベアのキャラクターがお辞儀をしているスタンプと共にお礼のメッセージが送られてきた。

 廻はスマホを机の上に伏せた。回転椅子の背もたれに体重を預け、天井の明かりを見上げる。

 本当はもう少し勉強するつもりだったが、すっかり頭が疲れてしまった。このまま勉強を続けても集中できそうにない。

 今朝は珍しく早起きしたせいか、眠気が訪れるのも早かった。時刻はまだ零時前だったが、瞼が重くて仕方ない。

 机の上に開かれたノートの上に腕を乗せ、その中に顔を埋めるようにして突っ伏した。こんな体勢で寝てはいけないと頭では分かっているのに、睡魔は容赦なく襲ってくる。

 廻の意識はまどろみの中に落ちていく。

 気が付くと廻は、机に突っ伏した姿勢のまま眠ってしまっていた。

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