第2話 馴染みの喫茶店
小説のネタはいろいろ浮かんできて、それを、ネタ帳に書き込むのは、自分だけではなく、今に始まったことでもない。
小説を書くということが、どのようなものなのかというのは、ジャンルによっても違うだろうし、書く人間の経験や、意識、記憶というものが、大きく影響しているからではないだろうか?
もちろん、
「ネタが浮かんでこなければ、小説なんて書けないよな」
ともいえるわけで、ただ、
「ネタからストーリーを思い浮べ、プロットを作成し、登場人物の設定を行ったうえで、書き始める。その中には、起承転結となる、章というのも存在し、書きながら、体裁を整えていくというのが、小説執筆ではないか?」
ということなのだろう。
晃弘は、大学に入学してから入った文芸サークルで、最初から小説が書けたわけではない。
「小説が書けなくても、サークルで勉強して行けば、必ず書けるようになる。サークルでは機関誌を発行しているから、そこに乗せればいい」
ということであった。
高校の時に、本を読んでいると、次第に、
「小説が書けるようになれればいいな」
と感じるようになった。
喫茶店という雰囲気がよかったのか。それまで本を読むとしても、
「セリフばかりを読んでしまうという斜め読みのような形になってしまって、ん遭いようが頭に入ってこない」
と感じていたのだ。
ただ、喫茶店で音楽、つまり、
「クラシックを聴きながら」
であれば、頭に結構入ってきた。
だから、大学の文芸サークルで小説を書くようになると、その時には、
「クラシックを聴きながら」
ということが多くなっていたのだった。
そんな学生時代の文芸サークルで、仲良くなった女の子がいた。
確か名前を、東条ほのかという名前だった。結婚していれば、苗字は変わっているだろうが、今でも、目を瞑れば、瞼の裏に、彼女の表情が浮かんでくる。
そういえば、彼女の笑顔というのを見たという意識はなかった。笑顔という印象もない。「無表情だった」
というイメージが強かったのだが、その顔に、あどけなさがあり、可愛いという雰囲気なのだが、笑顔が可愛いわけではない。
言ってみれば、
「純朴な雰囲気が、いいのだ」
幼さが残っていながら、表情に笑顔がないので、
「あどけない」
という雰囲気でもない。
いつも同じ表情で、下手をすれば、
「飽きが来る」
といってもいいのだろうが、晃弘には、
「飽きというものは、まったくない」
と言えるのではないだろうか。
背もそんなに小さいというわけでもなく、スラリと伸びた雰囲気は、クラス委員長という雰囲気が漂っているようだ。
そういう意味で、彼女の中には、
「勧善懲悪」
という雰囲気があり、だからこそ、無表情なのだろう。
表情が豊かで勧善懲悪だとすれば、男性であれば、ピンとくるが、女性には、凛々しさを求めてしまうのは、仕方のないことであろうか。
ほのかは、友達もそんなにいなかった。肌の色も、まるで病的に白く、平安時代の、
「白拍子」
のようであり、
「静御前をやらせれば、似合うかも知れないな」
と皆に言われていた。
彼女に密かに憧れていた頃の、晃弘は、
「俺が義経をやりたいくらいだ」
と思っていたのだが、それは、まわりの皆が同じことを思っていたようで、だからこそ、余計に、そのことを口に出すようなことはしなかった。
彼女は、いつも冷静沈着だった。
「いかにも」
という感じなのだが、その様子を誰が何を感じるかということであった。
「ほのかのファンは、それだけ多いんだ」
と思い、
「積極的にならないといけない」
と思ったのだが、積極的になっても、
「冷めた目で、見おろされて、それで終わりだ」
ということになれば、本末転倒もいいところであった。
確かに、
「彼女の魅力は、その冷静沈着な雰囲気だ」
ということなのだが、そのまま受け入れると、
「まるで雪女のような、冷徹な雰囲気から逃れることはできない」
ということになるだろう。
そう思うと、
「ほのかという女性は、他の女性と一緒にいてはいけない」
という雰囲気に見えて、まだ男の中の方が、
「高嶺の花に群がる男たち」
という雰囲気で、まるで、
「クレオパトラ」
をイメージさせるものであった。
「彼女の表情が変わるイメージはない」
ということで、いかにも、
「ほのかのイメージがそのままだ」
ということになるだろう。
晃弘も、いつもほのかを見ていて、
「俺ほど見つめている男性は自分しかいない」
と思っていたのだが、まわりも皆思っていたことに気付いたわけではなかったのだ。
おとなしめだったので、喋り方も落ち着いている。その感じが、肌の白さと相まって、まるで、
「大人のオンナ」
という雰囲気を醸し出している。
だが、ほのかを見た時、
「初めて会ったような気がしないな」
というイメージがあった。
その時に感じたのが、
「これが俺の初恋なのかな・」
というイメージだった。
だが、自分の初恋は結構イメージとして残っていて、小学三年生の頃だったか、クラスの女の子で、やはり静かな女の子だったのを思い出したのだ。
その時は、自分から話しかけることはできずに、ただ見つめているだけだったが、その時の女の子と雰囲気が似ていたのだ。
「確か、そういえば、ほのかさんと言ったっけ?」
と思い、落ち着いた女の子に、
「ほのか」
という名前の女性が多いのか?
と感じたほどだったが、どうやら、小学生の頃、好きになった女の子が、大学のサークルで知り合うことになった
「東条ほのか」
だということになるのだろう。
確かに、彼女と話をするようになってから、小学校の話を聴くと、間違いなく、その時の女の子だったようだ。
相手が、自分のことを、子供の頃に意識していたのかどうか、怖かったが聞いてみた。
「いいえ、ほとんど、小学生の頃のことは憶えていないですね。嫌な思い出が多かったような気がするからですね」
というのだった。
そんな彼女と大学時代に再会した時、
「あの頃から好きだった」
と言いたかったが、それは控えた。
だが、小学生の頃のことを何度か聞いたりしたので、
「ひょっとすると、何か、あの頃に思い出があるのかしら?」
という意識から、
「まさか、自分のことを好きだったなんて」
と思うからなのか、何も言わなかったのだ。
だが、明らかに意識をしているようで、その様子を見ているだけで、晃弘は嬉しい気分になるのだった。
いくら大学生になったからと言って、いきなり大胆になれるほど、晃弘は精神的にしたたかではない。
それでも、今までにない大胆さは、もちろん、大学生であるということもあるが、
「以前から知った仲だった」
ということから出てきたものだった。
何か、必要以上のことを、晃弘はいうわけではなかった。もちろん、誘ってから後は、もう小学生の頃のことを口になどしなかった。
せっかくいろいろ誘い掛けることができるようになったのに、何にも、昔のことを思い出すこともなかったのだ。
それだけ、晃弘は、
「小学生時代の自分のことが、嫌いだ」
と言ってもいいだろう。
小学生時代の自分を思い出す時、何を言えばいいのか、考えてみたが、無理に思い出すこともないと思い、おとなしさが今とは変わっていないということを心に感じながら、なるべく今の、
「大人になった自分」
というものを、
「いかによくアピールできるか?」
ということを考えるべきだと思うのだった。
「初恋は、本当に、小学生の頃だったのだろうか?」
と、自分に言い聞かせるのだった。
そんな、ほのかとデートをしたのは、大学2年生の頃だった。映画を見て、帰りに、寄ったのが、馴染みの喫茶店だった。大学から比較的近いところだったので、まわりには、カップルも多かったので、別に自分たちが目立つわけではない。そういう意味でよかった。
大学生になると、ほぼ毎日のように喫茶店に寄っていたような気がした。
最初は先輩に連れていかれてのことだったが、早朝に授業がある時などは、早朝7時から営業している店で、その店では、いつも、モーニングセットを頼んでいた。
コーヒーに、ハムエッグにトーストと、サラダが添えてあった。いわゆる、
「オーソドックスなモーニング」
ということで、毎日食べても飽きることはない。
早朝、まだ半分寝ているかも知れないという状況での、一杯のコーヒーは、目覚めには最高だった。
さらに、トーストと目玉焼きの香ばしい匂いのセットは、食欲をそそるものだった。
「本当に毎日でもいいな」
と思うくらいだった。
小学生の頃は、家で毎日のように、ごはんとみそ汁で、それをずっと続けられ、次第に、
「見るのも嫌」
と思っていた。
なぜなら、朝の起き抜けで、胃の調子も整っていないところで、コメの飯というのは、今から思えば、気持ち悪いだけだった。
しかも、
「やわらかめのコメが健康にいい」
などと、どこから聞きつけたのか、柔らかごはんの毎日は、苦痛でしかなかった。
だが、大学生になって、下宿暮らしをするようになると、朝飯は、表で食べるようになる。
まず、起きてから喫茶店に行くまでに、胃の調子を整えられるのはありがたかった。
しかも、
「コメの飯を食う必要がない」
ということで、これほど、気が楽なことはなかった。
ゆっくりとした馴染みの喫茶店は、店に入る前から、漂っているコーヒーの香りが、これ以上ないというほどの、香ばしい匂いを店内に蔓延っているのだった。
さらに、トーストとエッグの甘く香ばしい香りは、部屋の中に暖かさを醸し出している。
夏の間も、クーラーが利いている中であったが、さらに、その中でのほんのりとした温かさは、夏独特のけだるさを払拭してくれるほどのものだったのだった。
その喫茶店は、木造のような雰囲気で、全体的に、明るい造りになっている。早朝のBBGMは軽音楽が中心で、昼以降は、クラシック中心に変わってくるのだ。
夕方以降は、少々重厚なクラシックになってきて、夜のとばりが下りるのを待っているかのようだった。
映画を見たことよりも、初めてのデートを後から思い出した時に、まず思い出されるのが、この喫茶店での時間だった。
映画を見てから、少し、ショッピングにつき合ったのだが、これと言って何かを買うというわけでもなく、ブラブラしただけだったが、それはそれで、初デートとしては、悪い感じではなかった。
そして、喫茶店についたのが、午後三時くらいだったので、まだ、少し暖かさが残っている時間で、季節が秋から冬に差し掛かるくらいの時間だったので、まだ、ぽかぽかした感じだったのだ。
窓際の席だと、日が差し込んできて、睡魔に襲われるくらいの感覚で、心地よさから、
「本当に眠ってしまうのではないか?」
と感じるほどだったのだ。
結構歩いたので、ほんのりと背中に汗を掻いていて、さらに、夏に感じた忘れかけていたけだるさが身体に残っていたが、嫌な感じのものではなく、心地よく感じるほどになっていたのは、ほのかの香水が、
「甘みを感じさせる中に、柑橘系の香り」
という、鼻腔をくすぐるかのような香りに、どこか酔っているように感じるからではなかったか。
そんなことを思っていると、喫茶店で落ち着いた時間を過ごせると思うと、
「こんな贅沢な時間もないかも知れないな」
と思った。
午後三時を過ぎてくると、あっという間に夕方から、気が付けば夜のとばりが下りているという時間に入ってくる。
そういう意味でも、
「午後三時というのは、一日の中のターニングポイントとして、微妙な時間帯だと言っておいいだろう」
と、感じていた。
時間の経過は、季節によって、まったく違っている。そして、時間帯というよりも、昼下がり、夕方、夜というような、ターニングポイントで感じる感覚も、当然違ってくるのだった。
全体的に、夏のようなけだるさは、この時期になると、なくなっていて、その分、感受性が豊かになっている。
時間的なずれも影響しているのかも知れない。
さらに、夏場のけだるさというものは、
「日が長くなった夏の間」
という時期は、身体中にへばりついてくる汗、さらに、その汗が次第に乾いてくると、身体全体が重たく感じられるようになり、それが、夕方くらいになると、頭痛に変わることがあった。
それが、夏の昼下がりから、夕方くらいに掛けてのことで、頭痛がしない時でも、西日による影響なのか、全体的に、黄色掛かって見え、信号機の色も、
「青が緑であったり、赤がピンク系に見えてくる」
という、一種の、
「目の錯覚」
を覚えさせるのだった。
そんな夏で、何が一番身体にけだるさを与えるかというと、最初は分からなかったが、分かってくると、
「ああ、納得できる」
と思うものであった。
それは、
「身体を動かすことさえ億劫に感じる」
という、
「セミの声」
ではないだろうか。
前述では、汗が滲んだことでの身体全体の重たさを書いてきたが、実はそれよりも大きな影響を与えていたのが、五感の中でも、
「聴覚だった」
ということは、意外な感じがしたのだ。
セミの声は聴いているだけで、うっとおしい。まるで、
「一定以上の年齢の人には聞こえない」
といわれる、
「モスキート音」
のようにも感じるが、実際に、どんなに年を取っていても、セミの声というのは、誰もが嫌悪感、倦怠感を感じるものとして共通な音であることに変わりはないのだろうが、どこか機械音的な共通のリズムであるということから、
「モスキートに近いのかな?」
と感じさせるのだった。
そんな音を感じていると、うっとおしいと思いながらも、
「音がするのが当たり前」
という思いからか、
「次第に音のうっとうしさに慣れてくるようだった」
と言えるだろう。
慣れてくるというよりも、
「聞こえていて当たり前」
という感覚だといってもいいのではないだろうか?
音がどこから聞こえてくるのかということが、自分の中で分からなくなってくると、自然と、意識しなくなるということであろう。
「気にする目的がなくなったからだ」
というのは、一番の理由であろう。
音を意識しなくなると、
「まるで石ころのようだな」
と感じてくる自分に気が付いた。
「石ころというのは、目の前にあっても、意識するものではない」
というものだ。
それは、河原のようにたくさんあっても、目の前にポツンと一つだけあっても、同じことだ。
「石ころでなければ、たくさんあるものの中では、意識しないことはあっても、逆にぽつと一つあれば、気になってしまうのが、人間の本性のようなものだ」
と言えるであろう。
「そういえば、サークルの機関誌に乗せる小説の中に、この石ころのことを書いたのを思い出したな」
最近書き上げたものだったにも関わらず、内容までは、ちょっと読まないと忘れてしまっていた作品だったのだが、晃弘が書いた作品を思い出そうとすると、なかなか思い出せないのが、常だったのだ。
その理由についていろいろ考えたが、やはり一番納得がいくのは、
「集中して書いていたので、後から思い出そうとすると、記憶のさらに奥に、封印される形になっているのではないか?」
と思うのだった。
書き上げた小説というのは、書き上げた瞬間、
「一瞬だけだが、書いた内容を一気に忘れる時がある」
と思ったことがあった。
思い出そうとしても、なかなか思い出せないのは、その瞬間をうまく飛び越えて、記憶をさかのぼらせることができないからではないだろうか?
それを思うと、
「一度書き上げてしまうと、記憶をさかのぼるやり方で小説の内容を思い出そうとしても難しい。何かキーになるものを思い出さないといけない」
と思っていた。
この時の小説のキーが、瞬間思いだした、
「石ころ現象」
というものの意識だったのだ。
そもそも、石ころ現象というのは、
「目の前に見えていても、それを意識することがないので、そこに重要なものがあったとしても、見逃してしまう」
ということに繋がるというものだ。
これは、
「灯台下暗し」
という発想とも似ている。
「目の前にあるにも関わらず、気付かなかった」
というのが、灯台下暗しという言葉の現象であり、
「石ころ現象」
とは、似てはいるが、あくまでも類似現象であり、どこかがかぶっているのだろうが、その接触地点もハッキリと分かっていないという感覚だった。
というのも、
「石ころ現象」
というのは、あくまでも概念であり、それ以上でも、それ以下でもない何かが影響しているかのように思えた。
確かに似たような感覚が他にもあるのだろうが、単独でそこにあっても意識しないほどの感覚なのは、
「石ころ以外にはないものだ」
と言えるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、その喫茶店にいつも来ているはずなのに、その日は、途中から、コーヒーの香りがしなくなっていたのは、どういうことだったのだろう?
「どこか体調が悪かった」
と言えるかも知れないが、むしろ体調が悪いというよりも、心地よすぎて、その中に埋もれてしまった感覚になったような気がするのだが、だからと言って、
「コーヒーの香りを無理にでも思い出したい」
と思わなかった。
一つには、
「またすぐに匂いが戻ってくる」
というのが分かったからで、錯覚の類なのだろうが、本当にそれだけなのか、危惧してしまうのだった。
もう一つは、
「この時間は、コーヒーではない、何か他の種類の匂いを感じたい」
という思いがあるからであり、それが、
「何かの心地よさだ」
ということはわかるのだが、その正体が、その時は、
「分かるわけはない」
と感じたのだった。
そんなコーヒーの香ばしい香りを感じているから生まれた心地よさであり、さらに、他の香ばしさを感じたいという一種の欲が、自分の中に現れたことで、感じたのが、ほのかのつけている香水だったのだ。
香水の種類を、男の晃弘が分かるはずもない。最初は、まるで薬品のような臭いに、
「何がいいのだろうか?」
と感じたのは、母親が昔からつけていた香水を思い出したからである。
その臭いは、悪臭だったといっても過言ではないだろう。
「これでもか?」
と言わんばかりの、薬品の匂い。
漂い始めると、正直吐き気を催してきて、
「もし、他の臭いがどんなに単独だったり、いい匂いだと思う臭いであっても、混ざった時点で、これほど耐えられないものはない」
と思うことになるのではないだろうか?
そんなことを考えていると、
「この喫茶店の漂っている匂いを、嫌に感じたことはなかった」
と言えるのであり、そもそも、この店の建物から漂ってくる香りの正体がまったく分かっていないので、
「まあ、嫌ではないか?」
と感じさせるものであったのだ。
この日も、鼻腔をくすぐる心地よさしか感じることはなかったが、新たな発見として、
「この店には、香水の香りもいいものだ」
ということであった。
少々、薬品の匂いが強烈なので、
「まあまあ、少々の辛さを感じたとしても、致し方がない」
と思うほどだったが、これだけ強烈な臭いがあるにも関わらず、まったく気にならないというのは、どういうことなのだろうか?
という思いもあったのだ。
香水の香りの柑橘系と、甘みを微妙に混ぜた感覚は、
「初めて感じたものだったのだろうか?」
と思い、その臭いを記憶をさかのぼらせることで思い出したいという思いから、目を瞑って、意識を過去にさかのぼらせようとしたのだった。
記憶をさかのぼらせてみたが、やはり、ある程度のところに結界があるのか、それ以上遡ることができなかったのだ。
「どこまでさかのぼればいいのだろうか?」
と感じてみたが、さかのぼって正体がわかるところまで行こうとするには、まだまだ時間が掛かるというもので、それまで、
「頭痛に耐えることができるだろうか?」
という発想であった。
今のところ、頭痛がしているわけではないが、晃弘には、頭痛がし始める、ある程度のラインが分かるのだった。
それは、
「頭痛が起こる結界とでもいえばいいのか、自分でも、よくわからない」
というものであった。
一種の、
「オーバーヒート」
というものであろうか、頭痛がしてくるのを感じると、高校時代にちょくちょくあった、
「偏頭痛の現象」
を思い出す。
病院に行くと、
「ストレスを抱えたりすると、起きますので、なるべくストレスを抱えないように」
と先生から言われ、軽いリハビリのようなものと、薬を貰っただけだった。
「だけど、ストレスを抱え込むなというが、それができるくらいなら、とっくにやってるさ」
と言いたいくらいだったのだ。
そもそも、ストレスと言っても、いつどこで起こるかというのは、想像がつかない。
自分で起こすこともあるだろうが、たいていの場合は、
「外部からのものがほとんどではないだろうか?」
と言えるだろう。
外部からの圧力を感じると、最初は、反射的に、それを払いのけようとするのだろう。しかし、そのタイミングを逸すると、完全に隙ができてしまい、そこからストレスは、何の抵抗もなく、入り込んでしまうことから、
「逃れることはできない」
と感じさせられるように思えたのだ。
それが、
「五感すべてで感じる」
というものであったりすれば、臭いだと、嗅覚だけということであれば、まだ、何とか逃れられるのだと思うのだが、これも、相手がうまく、
「臭いの感覚をマヒさせる」
というものであることが分かると、
「まるで、保護色のようなもので、カメレオンを彷彿させる」
という思いと、
「コウモリ」
を感じさせた。
コウモリというのは、イソップ物語の中にある、
「卑怯なコウモリ」
という発想であり、
「鳥と獣が戦争をしている時、獣に向かっては、身体に毛が生えているということから、自分を獣だといい、鳥に向かっては、羽根があるということから、自分を鳥だと言って、逃げ回っていた」
というコウモリの話である。
「最後には、戦争がなくなったことで、鳥と獣の両方からハブられることになり、暗く異質な洞窟の中で暮らすようになり、自然と目も見えなくなっていったのではないだろうか?」
という話であった。
この喫茶店において、香水の匂いを嫌に感じないのは、その絶妙なタイミングによるものなのか、
「いい匂いを感じさせるようになるのではないか?」
ということからも言えるのではないかと考えるのだった。
臭いというものが、いかに意識や記憶の中に忍び寄っているかということは、
「実際の臭いというものを覚えていることは、意識の間ではあるかも知れないが、これが記憶というところまで行ってしまうと、もう分かるはずがない」
ということを感じさせるものであった。
ただ、その臭いが何に近い臭いだったのかということの記憶だけはあるのだ。
だから、
「もう一度嗅げば思い出すのにな」
というようなことを言われても、まわりはピンとこないかも知れないが、本人にとっては、本気も本気で言っていることだったりする。
この喫茶店では、その日から、心地よさを感じた時、
「どこかからか、香水の香りが漂ってくるのではないか?」
と感じさせるものだと感じるのではないだろうか?
ほのかと一緒にいたその時間、
「何をしていたんだっけ?」
と思い出せないのは、それだけ、一緒にいるだけで楽しかったということで、何もしていなかったからだといえること。
そして、
「心地よさの中に香水の香りが加味されたことで、臭いの正体の元々がどのようなものだったのかということが、思い出せないくらいになっていたからではないか?」
と感じることからではないだろうか?
喫茶店には、翌日も、恒例のモーニングセットを食べたのだが、その時には、昨日の、
「柑橘系の香り」
というものが、鼻腔にも、それ以外の感覚にもまったく残っていなかったことから、
「感覚が完全にマヒしている」
と言えるのではないだろうか?
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