第37話 残響
クマは人を家に呼ばない男だった。
彼は小学生・中学生のときから目の下には隈が出来ており、「眠い」が口癖で非常に大柄な体格で
この冬、俺は来たる大学での一人暮らしに向けて自分を鍛えられないかと悩んでいた。家にいると料理も掃除も洗濯もついついサボってしまう。ちょうどいい練習先を探していたところ、クマに誘われたのだ。彼は家で一人暮らしをしているのだという。
高校も冬休みに入った。正月の前には実家に帰らなくてはならないが、ひと足早いモラトリアムに近い。スーパーに集合し、俺は自分の荷物を入れたカバンを持ち、パンパンに膨れ上がった買い物袋を持ったクマと共に彼の自宅へ向かった。
長く続く白い壁、黒い瓦の屋根。クマの家は武家屋敷のような立派な見た目をしていた。使っていない部屋がいくつかあるとは聞いていたが、予想以上の大きさだ。ここで一人暮らしなんて、さぞ寂しいことだろう。
「これがクマの家? デカいなぁ」
「だろう。あ、キッチンやトイレは新しい造りになっているから、安心してくれ」
「おお、良かった。にしても、こんな大きな家でなんでひとりで暮らしてるわけ? あぁ、いや、家庭の事情はあるかもしんねぇけどさ、アパートやマンションを借りた方が安くつきそうだぞ。……スーパーからも駅からも遠いしよ」
「維持費はかなりかかる。でも、ひいじいちゃんの遺言でなぁ、誰かはここで暮らさないといかんのよ。僕が1年生のときは母さんも父さんもいたんだが……秋の終わり頃に逃げたんだ」
「え?」
「あ、ふたりは蒸発したわけじゃないよ。遠くに住んでて生活費も出してくれる。ひいじいちゃんの遺産もあるし、生活には困ってない。だけど、僕もいい加減、ここで暮らすのが嫌になってきてね。梨本の意見が聞きたかったんだ」
「俺の意見?」
「うん。ここは異常なのか、そうでないのか。僕はここで暮らしていくべきなのか、両親みたいに逃げるべきなのか。寒いから入ろう」
「お、おう」
確かに寒かった。けれど、それ以上にクマの言葉には薄ら寒さを感じた。俺の意見が聞きたいってのは本音だと思う。でも、たぶんクマの中ではその答えは既に決まっているんじゃないか。この家が異常なのか。逃げるべきなのか。彼に俺の言葉が果たして届くのだろうか。
嫌な予感を打ち消して、家の中に入った。
おかえりー。
そんな声が聞こえてきて、耳を疑った。ここに俺たち以外の人間はいないはず。それとも、すべて冗談だったのか?
おかえり。おかえり。おかえりぃぃぃ。
クマも聞こえているだろうに、その声を完全に無視している。でも、確かに応えてはいけない気がした。声は隣の部屋から聞こえているようにも天井から響いてくるようにも、あるいは地の底から出ているようにも感じた。
「逃げたくなった?」
クマの顔には諦めが滲んでいた。
「まだまだ。東京に行ったら事故物件に出くわす可能性もあるしな。まだ、練習の範囲内さ」
と強がることにした。すると、クマはものすごく嬉しそうな顔で「そうか」と言った。
冷蔵庫に食品を入れて、彼の部屋に行く。その途中で通り過ぎた大きな和室からはワイワイガヤガヤとした大勢の人間の声が聞こえた。少しだけ開かれた襖から覗いたが、もちろん誰もいない。俺が確認しても声は消えなかった。
クマの部屋には大きなスピーカーとギターが置いてあった。きっと、彼なりに聞こえてくる音を掻き消そうとした努力の証なのだろう。俺は緑色のクッションの上に腰を掛け、クマは自分のベッドの上に座る。壁を貫いて呟く声が聞こえてくるが、何を言っているかは分からない。
「なあ。なんなんだ、あの声たちは」
「僕たちは“残響”って呼んでる。お祓いとかも頼んだことはあるんだけど、全く役に立たなかった。父さんも歴史を調べたり、ひいじいちゃんに色々聞いたり、したらしいけど、何も分からなかった。声が聞こえるだけで、それ以上のことは何も起きない。でも、うるさいだろう?」
「そうだな。これが騒音問題なら、訴えたら楽勝で勝てる。この部屋は、まだマシだな」
「ぶつぶつ聞こえるけどね。音楽鳴らしたり、イヤホンしてたら、なんとかなるよ。だからこそ、僕はまだ正気を保っていられてる」
「……さっきはああ言ったが、俺は出て行った方が良いと思うぜ。いくらなんでも異常だ」
「……うん。分かってたよ。きっと、誰が来たとしても同じ答えをするんだろうね」
「でも、クマは……」
ここで暮らしていくつもりなんだろうって言い掛けたが、辞めた。彼の諦観じみた声に何も言えなくなってしまったのだ。そのあとは無理に話題を切り上げて、あれこれ話をした。
夕食は鍋にした。料理というほどのものではないのだが、俺たちは楽しく笑い合った。途中で誰かの笑い声が混じったときは、無視してテレビにスイッチを入れて誤魔化した。
年寄りたちの笑い声。子供がはしゃぐ声。
ひっきりなしに聞こえてくるが、悲鳴やら絶叫やらは聞こえてこない。この“残響”は平和なものだった。最初こそ、ジャンプスケアのように感じていたものの、3日も経てばすっかり慣れてしまった。宴会の声はうるさいが、何故か恐怖を感じない。むしろ、団欒すら感じていた。
最終日。これまで買った食品を贅沢に使い切り、リビングで行われている方こそが本物の宴なのだという気概でいろいろ料理を作った。高校生活では見たことがないくらい、クマは楽しそうだった。その顔が見られて満足した。
ごちそうさまぁぁぁ……。
声は無視して。
しかし、案外悪くない生活なのかもしれない。
……今日は昼まで寝ていたせいか、うまく眠れない。明日には帰るんだし、もっとクマと喋ってもいいな。そう思って起き上がり、廊下に出て彼の部屋をノックする。しかし、反応は無い。
「もう寝たのか?」
おやすみ。
「おやすみ。……あ」
どこからか聞こえてきた声にうっかり応えてしまった。でも、クマからは絶対無視しろとは言われていない。まぁ、構わないだろう。俺は諦めて部屋に戻り、ベッドに寝転がる。すると、ぶつぶつ。ぶつぶつ。ぶつぶつと何かが聞こえてくる。初日にクマの部屋で聞いたものと同じだ。相変わらず、何を言っているのか判断がつかない……と思っていたら。
くれよ。くれよ。くれよ。くれよ。
そう言っているのが分かった。若い男の声だ。何かを欲しがっている? 背筋が震える。俺は布団を頭から被り、声から逃れようとする。
くれよ。くれよ。くれよ。くれよ。
他の声とまるで性質が異なるように感じた。そうだ。「おかえり」も「ごちそうさま」もこの「くれよ」も俺に向けて言っているのだ。家に溢れている“残響”ではない。明確に、俺を認識している。
怖い。……これはどう考えても声に反応したから、変化した。けれど、おかしいじゃないか。クマには一度も注意されなかった。こんなことになるって、あいつなら分かっていたはずなのに。もしかして。……嘘だよな? 俺は布団を被ったまま、起き上がってクマの部屋をノックする。反応が無い。ノブを回し、入る。
誰もいなかった。布団は膨らんでいたが、中は空っぽだ。
「クマ。おい、嘘だろ。クマ! クマ!!」
くれよ。くれよ。くれよ。くれよ。
俺は部屋を出て廊下を走った。宴会の声も、子供の声も、家族の声も聞こえなかった。玄関を開けて、真っ暗闇の外に出ようとした。だが。
「出られない!? どういうことだよ」
見えない壁が立ちはだかっているようだ。諦めて、リビングへ行き、窓を開ける。でも、出られない。俺は大いなる力でこの家に閉じ込められている。……クマは俺を裏切ったのか? この声に反応すると、ここから出られなくなる。でも、誰かを生贄にすれば、そうじゃなくなる。
あの諦めが滲んだ表情は聞こえてくる声に対するものではなかった? 俺を売ることへの諦観? 悲しみ? 俺が強がったときに見せた笑顔の意味が変わってきた。
「ふざけんなよ……」
くれよ。くれよ。くれよ。くれよ。
「うるせぇな! 何をだよ!?」
おまえのすべてを。
地獄から聞こえてきているような声は重みを増して、俺の意識を奪い去っていった。
ふと、気がつくと無人の家の中で俺はふわふわと漂っていた。自分の体が無くなっている。何の声も聞こえない静まり返った空間に俺は閉じ込められていた。少しずつ記憶が失われていく。なんでこんなところに俺はいるんだっけ? 友達が一緒にいたはずなのに、顔も声も思い出せない。でも、ここは寒くて怖い。何も見えない。だけど、声だけは出すことが出来た。
くれよ。くれよ。くれよ。くれよ。
助けてくれよ。
♦︎♦︎♦︎
どうでしたか、ぼっちゃま。
嫌な話だね。でも、本当にクマさんは梨本さんを売ったの? 彼が問いかけに答えるかどうかは分からなかったはずだよ。
いいえ。時間の問題でした。
どうして?
この家は“
そうなの。あ、確か、秋の終わり頃に逃げたって言ってたけど、それはクマさんを犠牲にして去ったということ?
ええ。誰もいない屋敷でずっと聞こえていた声が途絶え、脱出も不可能だった絶望的な状況で、悪意の感じられない問いかけに応えずにいられはしません。クマさんの肉体は奪われ、新たな餌を運ぶための道具となりました。
じゃあ、これから梨本さんも。
そうなりますね。とは言え、“谺屋敷”は冬にしか目覚めませんので、梨本さんは実家へ帰り、やがては大学へ行くでしょう。彼の魂はそこには無く、“残響”に成り果ててしまっていますが。
“残響”を見分けることはできないの。
目の下に隈が出来ます。
あぁ。嫌だな。……怖いよ、ばあや。
申し訳ありません。ですが、すべての話には意味があるのです。
…………ねぇ。もしかして。ぼくは……。
いかが致しましたか?
なんでもない。おやすみ、ばあや。
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。
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