第35話 お風呂が沸きました




「うう……緊張します。私ひとりで上手くやれるんでしょうか……」


「別に独り立ちってわけじゃねえんだ。おまえの仕事ぶりはちゃんとオレが見ておく」


「いざというときは助けてくださいね?」


「もちろんだ。頑張れよ」


「はい!」



 車から降りた後輩はカチカチな動きのまま、対象の家の前へ行く。深呼吸をして、インターフォンを鳴らす。しばらくして。扉を開けた老婆が不審そうな目で彼女を射抜いた。オフィスで散々練習した言葉を老婆に披露する。



「ガス会社の方から参りました、古原です。お使いの給湯器についてアンケートをお伺いしたいのですが。ご協力していただけませんか?」



 完璧だ。老婆はその言葉を聞いて嬉しそうに後輩を家の中へ案内した。オレは視線を彼女から外し、手元のスマートフォンに遣った。





 あぁ、ごめんなさいね。古い家だから少し変な匂いがするでしょう。ちょっとの間だから、我慢してね。わたしは昔から機械には疎くて。いや、こう言うと娘にはよく揶揄からかわれたものよ。テレビが壊れたら叩いて直してた世代なのだから、そんな期待されたら困るけど。


 最近の機械は喋るでしょう。特に給湯器は毎日、『お風呂が沸きました』って教えてくれるから、わたしは嬉しくってねぇ。耳が遠くなったせいか、テレビの声もかなり大きくしないと聞こえないんだけど、給湯器の声は心の中に染み入っていくの。


 不思議? ふふふ、わたしにしか分からない感覚なのかもねぇ。昔は神籠かごめ町っていう所に住んでいて、悪神あくしんに仕えていた巫女さんに憧れていたのよ。巫女っていうのは、神様の言葉をみんなに伝えるのが仕事。人間同士のコミュニケーションですら、なかなか難しいものでしょう。片方が神様なら尚更。でも、巫女はよく分からなかったといって、神様に聞き返したりはしない。それと同じなのよ。


 ……これだけ機械が発展した世の中でも、機械にはまだ魂が無いって言われているのは心外だわ。人間には分からないだけなのかもしれないのに。


 よく言うでしょう。魚には痛覚が無いから活け造りにしても問題無いだとか、虫には本能しか無いから子供が虐めるのは悪いことじゃないだとか。でも、それは人間が感知出来ないだけだと思うのよ。だから、機械に魂があってもおかしくない……。あら、ごめんなさいね。老人の戯言ざれごとだと思って聞き流してくださいな。



『×××……(ノイズ?)』



 聞こえたかしら? わたしは昼間からお風呂に入るのが好きでねぇ、沸かしていたの。……ええ。普通の機械音声じゃないでしょう。


 この年齢になると日々の楽しみなんてものは無いんですよ。大阪で暮らしている娘と孫がたまに遊びに来てくれるのだけを心待ちにして過ごしていました。……それだけにショックでねぇ。娘と孫はここに来る途中で交通事故で死にました。もう、心が空っぽになって。わたしのせいで家族が死んだんだって、娘の夫に糾弾きゅうだんされて。


 お風呂が好きなわたしのために娘が買ってくれた給湯器が形見になってしまったの。


 でも、ある日。『お風呂が沸きました、おばあちゃん』って聞こえたんです。最初は聞き間違いだって思いました。だけど、次の日もその次の日もさらに次の日も。そう聞こえるんです。設定された機械音声じゃない。この給湯器には孫の魂が宿っている。間違いありません。


 この遠くなった耳の中で直接響くような給湯器の……いや、孫の声はもう神々しかった。わたしはかつて憧れていた巫女にもなれた。本当におばあちゃん想いの子ですよ。娘の声が聞こえないのは残念ですけどね。あるいは、娘は人間だからダメだったのかもしれませんねぇ。


 七歳までは神のうち、って言うでしょう。孫の魂は神様の領域にあるから、こうやって死んだあと、給湯器に宿ってくれた。そう考えているのですよ。



 あら、お帰りですか? ごめんなさいね、あなたの都合も考えずに喋ってしまいました。……ですが、わたしはあなた“たち”の正体を知っていますよ。



「……っ!?」



 5日くらい前かしら。ご近所の梶木さんの家に詐欺師が来たんですってね。人の良さそうな男の人だって話だったけど、その方はきっとカメラか何かでこちらを見ている。あなたはその人の仲間でしょう。ガス会社の方向から来たってだけ。そこだけは正直なのね。詐欺師の人たちの感覚はわたしには理解出来ないわ。



「シラを切れ。向こうに証拠なんて無い。逃げろ。逃げろ。……なぜ、動かない!?」



『×××……(ノイズなのか?)』


『お××ちゃ×……』


『おばあちゃん』



 ふふ、分かっているわ。わたしはねぇ、あなたにお風呂に入ってほしいのよ。聞こえているんでしょう。孫の……いいえ、神の声が。



「逃げろ! 何してる!」



『おばあちゃん……その人を××て』


『おばあちゃん……その人を×して』


『おばあちゃん……その人を殺して』


『殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。早く殺せ』



 お風呂に入りましょうね。





 オレは車から降りてその家の扉を開ける。ひどい匂いが充満じゅうまんしている。所詮は金のために老人相手に詐欺をするグループだ。後輩の安全を本気で気にしていたわけじゃないはずだ。自分の今後を考えるなら、今すぐ逃げるべきだった。鳥肌になっている腕を押さえる。


 だが。……オレのあとを雛鳥のようについてくる後輩を。オレはかわいく思えていたのか。


 リビングらしき場所に入る。誰もいない。後輩も老婆も、生きている人間の気配は感じられなかった。



『お風呂が沸きました』



「っ!」



 機械音声ではない。詐欺をするに当たって該当の給湯器はすべて調べた。こんな幼い子供のような声が聞こえてくるはずはなかった。ふらふらと熱に浮かされるように、あるいは何かに導かれるように、オレは風呂場へ行く。


 新しい給湯器に似合わぬ古い扉を開けると風呂が煮立っていた。ぐつぐつ。ぐつぐつと地獄の釜の蓋が開いたような熱気と共に強烈な腐臭が鼻を突く。湯船の中には誰もいない。


 誰……というのは分からない。ただ、グチャグチャに混ぜ合わされた肉塊が浮いていた。老婆と後輩だったもの。あの出来事から10分も経っていない。こんな状況になるとは思えなかった。まるで、何週間も放置されていたみたいだ。



『お風呂が沸きました……』



「やめろ」



『お風呂が沸きました……×ね』



「やめてくれ」



『お風呂が沸きました……死ね』



「やめろおおおおぉぉぉぉぉ……!」



『死ね』



 意志に反して体が動く。オレは肉塊が浮かぶ湯船に突っ込まれ、熱さと恐ろしさと悍ましさに包まれ、意識を失った。もう二度と浮上出来ない暗黒の世界へ、落ちて行った。




 強烈な腐臭がすると近所の人間が通報し、やがて警察は湯船から死体を見つけた。いや、死体と呼ぶのは不適当かもしれない。およそ、3人ぶんの肉塊は発見した警察官を退職に追い込んだ。


♦︎♦︎♦︎


 どうでしたか、ぼっちゃま。


 最後の場面は……なんというかグロテスクだね。詐欺師に同情しちゃいけないんだろうけど、哀れに見えたよ。でも、このおばあさんの方がかわいそうだね。給湯器に居たのはお孫さんの偽物でしょう。


 そうですね。孫の女の子の魂は娘さんの魂はと共にとうの昔に消えております。給湯器に宿っていたのはおばあさんの絶望に惹かれてきた怪異でしょう。けれど、昔よりもかなり狡猾になりました。聡明であったとしても、この境遇では騙されても不思議ではありません。


 なんていう怪異なの?


 おそらくは“仮霊かだま宿やどし”です。これまでは妊婦に宿って胎児の魂を食い尽くしながら、母親には自身の腹に神様が宿ったと勘違いさせて行動を操る例がいくつか確認されていましたが、まさか給湯器とは。


 ねぇ、ばあや。機械に魂ってあるのかな。ぼく、なんか怖くなってきちゃったよ。


 ございません。


 でも……。


 虫や獣とは条件が異なります。機械は所詮はモノ。人間の道具に過ぎません。もし、魂が宿っているように見えたのであれば、それは人の想いを移した怪異です。髪が伸びる人形に心はあるでしょうか? 夜な夜な動き出す鍋は生きていますか? 徳川家に仇をなすという村正は自分の意思で人を斬りますか? 違うのですよ。


 じゃあ、怪異に魂はあるの?

 

 ……ございます。けれど、魂があるからと言って憐れむ必要は無いのです。大切にしたいと思う対象がモノであれ、虫や魚や獣であれ、人であれ……それは魂の有無は関わりがありません。ぼっちゃまは父君の車がお好きでしょう。


 うん。カエルみたいな顔というか外装がかわいいんだ。そうか。……そうだね。車に魂があったとしても、無かったとしても、ぼくの気持ちは変わりない。そういうことなんだ。


 ええ。


 ……ふふ。今日は良い夢が見られるかもしれない。おやすみ、ばあや。


 おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。

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