第3話 やどかり
僕は漫画が好きだ。ここに登場するキャラクターみたいに蟹を殺してみたい。「鬼狩り」「竜殺し」……とてもワクワクする肩書きだけども、僕の現実では何より蟹が脅威だ。
頑強な紅の装甲。どんなものでも断ち切ってしまう鋏。何だか
すぃー。すぃー。ちょきちょき。
蟹は真っ白い布を鋏で切ってゆく。僕が学校から帰って来て、せっかく「ただいま」って言ったのに。何も答えない。あるとすれば。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。
汚い泡を吹くだけだ。蟹なんて嫌いだ。踏ん付けてやりたいけど、血液なんだか汁なんだかよく分からないものが出て来たら厭だ。それにこいつは僕なんかより、ずっと大きいんだ。
食事の時間は憂鬱だ。お父さんは蟹を見ても何も言わない。お母さんは蟹を見ても変な顔はしない。大好きなカレーライスもコロッケも唐揚げも、こいつの分を何で用意しなきゃならないんだよ。でも、我慢だ。我慢しなくちゃいけない。僕はこの家では何の発言権も無い。
この蟹よりも。僕は弱い立場の人間なんだ。
「ふぅん。いいなあ、
「何でさ。
「誰もいないより良いと思うよ。父さんも母さんも帰って来るのはおれが寝たあとだし。土曜日だって日曜日だって居ない。じいちゃんの家にも行ったらいけないって言われてるし。おれは寂しい。
でも、出来るなら剛の話はお母さんにはしたくなかった。ものすごく厭な顔をするのだ。厭だ。優しいお母さんに戻ってほしい。お喋りなお父さんも何かに追い詰められてるように黙ってしまう。
分からない。剛の何がそうさせるのだろう。
僕はいつも通り、剛の家でゲームをして漫画を読んで、少しのおやつを食べて帰宅した。本当は帰りたくなんてないんだ。だって、蟹がいるんだから。
「ただいま」
こんな挨拶なんてしなくていい。でも、お母さんとお父さんは挨拶には厳しい。蟹はリビングのテーブルの上に色とりどりの布を広げていた。毒々しい赤さの鋏でそれらを切っている。声に気付いたのか、黒い瞳が僕を射抜く。
ぶくぶく。
「いいよ、もう」
すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。ぶくぶく。
夕方のアニメを観ようと思ったのに。この蟹がいるんじゃ、落ち着けない。どうしよう。仕方なく自分の部屋に行く。ここは僕だけが使うには広過ぎて好きじゃないんだ。漫画を読む気にもなれない。
勉強机の上に布切り鋏がある。明日の家庭科で使うからお母さんに出してもらったんだっけ。いつもお店で使ってる立派なやつだ。
真っ青なケースから出して、ギラギラとした刃を見る。これで蟹を刺したらどうなるんだろう。部屋の隅を見る。埃をかぶった本棚に図鑑があったはずだ。
ずっしりとした生物図鑑。使い込まれてページの端がボロボロになっている。
蟹の血の色は青いらしい。でも、実際、蟹を殺したとしても僕が想像したような汁なんて出ないそうだ。それなら、やってみてもいいかもしれない。「鬼狩り」「竜殺し」に次ぐ……いや、気持ち悪さで言えば蟹の方がよっぽど上だ。
漫画に出てくるキャラクターは痛みに強い。鬼や竜に傷付けられて、でも「痛い」なんて言わない。痛いはずなのに。怖かった。蟹を殺すには。僕が怪我をせずに済むには。決まってる。
でも、気持ち悪いんだろうなぁ。
すぃー。ちょきちょき。すぃー。ちょきちょき。ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。
リビングで蟹は必死になって鋏を動かしていた。僕の存在になんて気付いていない。赤みがかった背中はそう大きくもない。骨っぽい痩せた背中だ。狙うのは真ん中。震える手を抑えて。ぼくは蟹の背中に鋏を勢いよく突き刺した。
真っ赤な血飛沫が上がる。どくどくと血液が吹きこぼれる。あれ? 青いんじゃないのか。蟹はぶくぶくと泡を吐き、こちらを見た。信じられないモノを見るような、恐怖に満ちた眼で。
「なんで……
蟹はそう言って呆気なく机に伏した。……蟹は。おかしいな。蟹だったはずだ。それなのに、どうして目の前に女の人が倒れているんだろう。お母さんの仕事を手伝っている“お姉ちゃん”が白目を剥いている。色を失った唇から赤い泡を吹いている。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。
あぁ……そう言えば。あの生物図鑑、よくお姉ちゃんに読んでもらったなぁ。最近はぜんぜん喋ってなかったけど。違うじゃんか。話しかけてくれてたじゃんか。なのに。無視したのは僕だ。大学を出て、こんなに狭い町から出ていくっていう話だったじゃんか。なのに、何で家にいるんだよ。どうしてお姉ちゃんは。
ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。どれだけ謝っても何の意味も無いって、僕は知っている。それなのに口を突いて出てしまう。意識に反したその言葉は。
蟹がこぼす泡に似ていた。
ぶくぶく。ぶくぶく。ぶくぶく。
♦︎♦︎♦︎
どうでしょうか、ぼっちゃま。
嫌なお話だね。もしかして、ばあやは今日の夕食に蟹が出てきたからこのお話をしたの。
ぼっちゃまが蟹をお残しになったからでございます。あんな立派なタラバガニ、庶民はなかなか食べられないものなのですよ。
ごめんなさい。
そうそう。タラバガニは蟹の名を冠しておりますが、実はヤドカリの仲間なのですよ。この話に出て来るのはいわば“宿借り”でしょうが、正直耳の痛い話でございます。この者が蟹であるならば、ぼっちゃまの家で暮らすわたくしもまた蟹に過ぎませんからね。
そんなことないよ。ぼくはばあやのこと好きだもの。この子はあれこれ文句を言っているけど、お姉ちゃんが気に食わなかったんでしょ。嫌いだったんでしょ。気持ち悪いって思ってたんでしょ。
最初からそうだったのかどうか、分かりませんけどね。
同じだよ。でも、お姉ちゃんの気持ちも分かるなぁ。ぼくも働きに出たくなんかないもの。働くなら家の中で自分のペースでやりたいな。
最近はこの方のような在宅ワークは増えてきておりますが、事情の分からぬ者には怠惰に見えるのでしょうね。
眠くなったきた。ねぇ、ばあやはこの家にずっといるよね。ここを出て働きには行かないよね。
ええ。ここがわたくしの職場ですからね。
そうじゃなくて。
ふふ、もちろんでございます。ばあやはいつでも、ぼっちゃまのお側におりますよ。
おやすみ。
おやすみなさいませ、ぼっちゃま。今宵の妖し怪し語りはここまでにございます。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます