絵
刹那
絵
展示作業は終了した。月曜日、夜の東京シティ美術館は静まり返っている。明日から始まる洋画家〈臣中脩一〉個展の準備は整った。
海外での人気が先行した脩一だが、日本で初の個展開催が決まるとマスコミから画家本人に取材の依頼が数多くあった。だが、ロスに在住する臣中脩一はそのどれをも断っていた。人前に出ることを極度に嫌がる謎の画家として世間には知られているが、その出自自体は特に秘密でも無く公にされている。
脩一の父も祖父も名を成した画家だった。その家に生まれた脩一は、幼い頃から絵の才に恵まれていた。それは指導をした実父も舌を巻くほどのものだった。
「あいつの描く絵には上手い下手以上に何かあるんだ」
父親は周囲にそう話していた。何があるのかと訊ねられても、上手く言い表せないようだった。それを象徴する出来事があった。脩一が小学校四年生の時、家族全員が可愛がっていた犬のカロが死んだ。脩一は泣きながらカロの絵を一晩で描いた。出来上がったそれを見た家族は驚愕した。写実も表現技法の一つではあるが、だから本物に近い――というものでは無い。脩一が描いたカロも細密に表現されているものでは無かった。むしろ全体を敢えて朧に捉えている。ジッと見つめるより、僅かに視線を絵から外した時に奇妙な効果を生んだ。カロはキャンバスの中で息づいていた。いまにも尾を振り、走り回りそうに見えた。微かに開いた口からは息づかいも聞こえそうだ。祖母は「カロがいるみたい」とハンカチで目を押さえた。父親はこの時確信した。自分の子は、異才を持っていると。
そんな脩一は幼い頃から健康上に問題を抱えていた。
先天的に心臓が弱く、運動はもとより、長い時間外にいることも医師からは止められていたのだ。結果的に、幼い脩一の楽しみと言えば絵を描くことだけになった。
小学校はまだ学校と自宅が近かったので良かったが、中学に上がると自家用車での送り迎え生活が待っていた。友人と通学路を楽しむことさえ出来なくなった。
部活が義務づけられていた学校だからというのでなく、当たり前の話として脩一は美術部に入った。中学一年の秋、全国中学生油彩コンクールで最高賞を獲得すると、校内でも脩一の存在は一躍評判になった。
勉強も好きだった脩一だが、体育だけは参加することが出来なかった。体育館ではすべて見学で過ごした。体育授業が外の場合、日の当たらない室内からの見学か、自習で過ごすほか無かった。脩一自身には皆と一緒に身体を動かしたい欲求があったが、周囲にすればいつの間にか〈体育授業に臣中はいない〉ことが当たり前になっていた。
それでも、休み時間には数人の女子生徒が脩一の傍にやってきては絵を〈せがむ〉ことがあった。リクエストに応じて脩一は簡単なイラストを描いてやったりもした。活発には過ごせなかったが、イジメなども無縁の中学生活ではあった。
そんな脩一と同じクラスに、楠貫哲彦がいた。
哲彦はクラスの人気者だ。体格が良く、スポーツ万能で朗らかだ。勉強の方は得意では無いが、それすらも周囲からは謂わば〈チャームポイント〉のように捉えられていた。
そんな哲彦と脩一は、ほぼ接点を持たなかった。仲が悪いということでは無く、住む世界が違うのだと脩一は当時理解していた。
だが、或る日のこと――。
「臣中ってさ」
突然声を掛けられた。振り返ると哲彦が立っていた。その日は一斉下校で、部活動もすべて休みだった。サッカー部所属の哲彦はバッグを肩に掛けて脩一を見ていた。
「く、楠貫君……どうかした?」
日に焼けた肌は、中学生としてはよく発達した筋肉を見せている。脩一は目をそらした。哲彦から話しかけられたことなど、それまで一度としてなかった。その哲彦から脩一が驚くような言葉が発せられた。
「つまんなくね?」
「え?」
「一日中、座ってジッとして、つまんなくね?俺ならとてもじゃないけど無理だわ」
返す言葉に詰まってしまった。
「いつ見ても何か描いてるけどさあ、そんなこと楽しいのか?絵なんてこれからはAIだって、うちの親父が言ってたぞ。人は要らなくなるってさ。お前ンちの父ちゃんは絵描きだって?なーんか暗いよな。そこへいくとスポーツは――」
言いかけた時、廊下から声が聞こえた。
「楠貫ぃ!帰るよ!」
顔を見せたのは、クラス委員長の嵯峨みさきだった。みさきと哲彦が幼なじみだということは脩一も知っている。みさきは教室内にいた二人を見ると驚いた顔をして俯いた。
「おう!いま行く!じゃあな、臣中クン」
くるりと背を向け、哲彦は出て行った。廊下からは楽しげな哲彦の笑い声が聞こえていた。二人の気配が消えるまで、脩一は動けなかった。一度でも良いから経験してみたかった〈みさきと下校する〉ということが、哲彦にとっては当たり前な日常なのだと痛感させられた。みさきは哲彦の隣で笑い、二人は楽しく帰るのだ――そう思った。不意に、絵の構図が頭に浮かんだが、それを描くことは結局しなかった。
そんなこともあった中学校時代だが、それ以外には何ということも無いまま卒業を迎えた。高校でも美術部に所属した脩一は、やがてG大の美術部に入った。講師にその才能を見初められて絵画展に作品を出すと、金賞を獲得した。その脩一に、父親は懇意にしていた画商を専属として付けた。学生プロ画家として脩一はデビューを果たしたのだ。だが父親には一抹の不安があった。成長するごとに微妙に変化を見せる脩一の絵に関してだ。成長と共に変わる――それ自体は当たり前の話だが、父親から見る脩一の絵には、それが仮に明るい題材を描いたとしても、その奥底に暗く渦巻く得体の知れない〈想い〉のようなものが感じられた。
その脩一のマスコミ嫌いには切っ掛けがあった。或る時、マスコミのインタビューを受けていると、子供時代のことに話が及んだ。テーマは友人関係や遊びなどだったが、子供らしいエピソードは無いかと問われ、口を噤んだことがあった。絵は描いていたし勉強も励んでいたが、それだけだ。飛び回り、笑い、汗を掻き、失敗をした――そんな記憶が皆無の脩一に、〈子供らしい〉と言えるようなエピソードは無かった。それ以来脩一はマスコミに露出することを避けるようになった。その点は画商が取って代わってくれたので、内心で父親に感謝をしたものだった。
その脩一が、大学を終えると同時に渡米したのは、たぶんに日本から離れたかったからだ。自分を知る者の無い場所を求めていたのだ。
最初に棲んだのは西海岸だ。季候も良く、すぐに気に入った。身体は相変わらず良好では無かったが、それすら周囲からは同情では無く、〈その人の個性の一部〉という見られ方をしていたので楽だった。
たまには帰国もしたが、懐かしい顔を探すことなどしなかった。自宅にはクラス会などの報せも時折届いていたが、返事をしたことはない。中学時代の級友など、もう顔も思い出せなかった。ただ二人、嵯峨みさきと楠貫哲彦を除いては。
〈嵯峨さん、どうしているだろうか〉
そう思うことはあったが、調べる方法は無かった。訊ねようにも接点のある旧友など皆無だからだ。
――嵯峨みさきさん……。
その名を心に浮かべると一つの情景が浮かんだ。それは近場の工場への社会科見学会でのことだ。巨大な工場内を案内されていた時、胸が苦しくなった。薬も飲んであり、大事では無いが、バスで休むことにした。教師に許可を取ると教師は「委員長、一緒に行ってやれ。休ませたら戻ってこい」とみさきに告げた。
嵯峨みさきが横を歩いている。みさきは黙っていた。それでもひどく嬉しかったのを覚えている。バスに着くと、みさきが言った。
「もう平気?バスで寝ちゃいなよ。じゃあ私行くね?」
笑顔でそう言い、返事も聞かずに駆けていった。後ろ姿の揺れるお下げ髪が印象的だった。そのたった一つだけの想い出が、これまでも何度となく脩一を笑顔にしてくれた。
ただ一枚、脩一はみさきの写真を持っていた。それは文化祭の折、大勢を撮す振りで向けたカメラが捉えたワンシーンだ。制服姿の笑顔のみさきが画面の端に写っている。他の誰にも用はない。みさきを見つめ、脩一は様々な夢を心に描いた。
その嵯峨みさきにしても中学卒業以来、脩一との接点は無い。みさきの自宅が駅前通りで洋菓子店を営んでいたのは知っていたが、買いに行ったことは無い。当然、突然「どうしてる?」などと電話を掛ける間柄ではないのだ。
別の意味でもう一人、気に掛かっていたのは楠貫哲彦のことだった。クラス会に出れば彼らの〈その後〉を知る事は出来たし、なによりみさきの顔を見ることも出来たのかも知れないが、その勇気は生まれなかった。そのまま脩一は再渡米した。
数年が過ぎ、〈シュウイチトミナカ〉の名が世界的に知られるようになると、日本でも是非個展を――と依頼が来たいう話が画商から入った。日本では開きたくない――初めはそう考えた脩一だが、最終的には承諾することにした。勇気を振り絞ってみよう――そう思ったからだった。
ビザの更新時であっても立ち寄らなかった実家に、二年ぶりに立ち寄り、家族と少しばかりの時間を共に過ごすと、脩一は街に出た。有名になったとは言っても顔が売れているわけでは無い。夜の街を歩いても誰かに声を掛けられることなど無かった。
向かったのは、駅通りだった。記憶していたよりも狭く感じる通りの一隅に店はあった。週末という事もあって賑わっている。通りを挟んだ向かい側二階にカフェがある。看板には〈トゥルビヨン〉と書かれている。そこに入った。窓際の席に腰を下ろし、コーヒーを飲みながらボンヤリと向かいの洋菓子店を眺めていた。期待が無かったと言えば嘘になる。ひと目だけでも、大人になったみさきを目に焼き付けられたら――の想いは確かにあった。だが、期待とは真逆のことが起きた。
「臣中?」
ギョッとして視線を通路に向けると、立っていたのは――。
「臣中だろ?なあ、そうだよな?俺、楠貫!覚えてるか?ひっさしぶりだなぁ!」
多くの旧友の名は忘れた。印象に残らなかったのは、恐らくお互い様なのだ。だが楠貫は違う。暗澹とした陰の意味で強烈な印象のまま脩一の心に残っている。変わること無く、一方的に明るく話していた。
「こっちにいたのか?絵描きになったとかいうのは聞いてたけど」
脩一は目を伏せて呟いた。
「まあ――普段はロスの方に」
「ロス?ロスって、ロサンゼルス?うへえ、すげえな!絵ってそんなに儲かるのか?俺も描こうかな。それで?何かの用で実家にでも来たのかよ?」
話す気にもなれず黙っている脩一の視線の先を哲彦は見た。
「あ……ははーん。あれか?みさき?」
慌てて視線を他に移したが、哲彦は遠慮一つせずに前の席に腰を下ろして笑った。
「そうなんだろ?みさきに会いに来たんだな?はは……こりゃいいや」
さすがに怒りが顔に出てしまった。なぜ笑われなくてはならないのか――と。それを見た哲彦は、鼻で笑って言った。
「知ってるか?いや、知らないんだろうな。お前ってクラス会にも来なかったし。どうせ今後も出やしないんだろ?その方がいいぞ、もしもみさきが気になってるんなら」
勿体を付けて哲彦は脩一の顔を覗き込んだ。そして放った言葉を、脩一は瞬間理解出来なかった。
「みさきは俺と結婚したんだぜ」
悪戯な表情を浮かべ、更に言った。
「今度俺の子を産むんだ。幸せだってさ」
脩一の心は冷えていく。なんの悲しみだろう――と自問するが、その問いも消えていく。子供の頃から自分の奥に暗い渦があったのは自覚していた。それでもそれは、鮮明なイメージを見せることなど無かった。それがいま、自分を飲み込もうとしているのを感じた。
「お前ってみさきのこと好きだったろ?知ってるぜ。よく見てたもんな。でもなあ、そりゃあ無茶だって!だってあいつ、ちっちゃかった時から俺のことが好きでさ。それに、あいつって運動神経が良い奴が好きなんだ。お前ってホラ、てんでダメだったもんな。ちょっとどこか具合が悪いって言ってサボってばっかで」
脩一は言い返さなかった。言い返すことそのものが更に自分を惨めにする――と、そう思えた。その代わり、暗澹とした渦の中に一つの情景が浮かぶ。絵だ。それは、描こうと何度も思いながら手を付けなかった絵だ。それが浮かび上がる。ハッキリと、鮮明に。
「あ、いけね!邪魔したな。けど久々に顔が見られて良かったぜ。じゃあ元気でな。みさきには臣中に会ったって教えとくよ。興味ないと思うけどさ」
そう言い残してテーブルを離れ、店を後にした。
脩一は一人残ってテーブルのカップを見た。もしもみさきに会えたら言ってみたかった言葉があった。一緒にお茶飲もう――今度個展があるから来て欲しい――よければ次も会おう……。
その言葉たちが脩一の口から出る機会は潰えた。夢が消えたと、言えなくは無かったが、ふと脩一は微笑んだ。
「最初から全部夢だったんだし、夢は上手に見て上手に醒めるべきなんだ」
だが、穏やかな口調とは裏腹に、脩一の眼差しには氷よりも冷ややかで、今夜の空よりも、暗い闇があった。
店を出た哲彦は小路を入って一軒の居酒屋の暖簾をくぐった。すぐさま声が飛んだ。
「遅いって!」
声の主はみさきだ。
「もうみんな集まってるよ!」
「遅えぞ、楠貫」
いくつか声が飛ぶ。十人ほどの若者が団体席を占めていた。
「わりい!時間つぶしに〈トゥルビヨン〉に寄ってLINEしようと思ってたら――なんか時間忘れてた」
「バカじゃないの?早く次のクラス会の相談しようよ!次は担任の小林も来るって言ってるし、前よりちょっと盛大にさ」
そう言うみさきの横に無為やり陣取り、哲彦は腰を下ろしながら小声で言った。
「じゃあそこで発表するか?」
「なにを?」
「なにをって――俺たちの交際宣言というか」
みさきはビールを呷って笑った。
「誰が誰と交際してるって?バカ言わないでよ!」
その横から顔を出したのはみさきの親友・中川花菜だ。花菜は眼鏡を指で押し上げて言った。
「なに?もしかして楠貫って、まだみさきを狙ってんの?ばーか、みさきには意中の人がいんの!知ってるくせに」
向かいの畑野も首を横に振って笑った。
「嵯峨は臣中一筋!って、知らねえのは臣中本人くらいか?」
女子たちが呆れ笑いで頷きあった。
「来れば良いのにね、臣中クンも」
その声に、みさきは微かに俯いた。
――まさか直接電話も出来ないしなぁ……。
小さな吐息が零れて落ちた。
自宅の二階に脩一は戻っていた。高校卒業まで過ごした部屋には懐かしい匂いが残っている。当時描いた絵などは無いが、道具は残されていた。脩一は一枚のキャンバスボードをイーゼルに置くと、下絵を置かずにすぐさま描き始めた。
パレットには絵の具入れに残っていた全色が出された。筆とペインティングナイフを左右両手同時に駆使して描くその速度は異常の極みと言えた。静まり返った部屋の窓は開け放たれている。夜気が入り込む。脩一の見開いて充血した目からは涙が溢れているが、表情は無い。ただ唇を噛みしめて描き続けた。なにかを絵に込めるかのように。
翌日の夕方、地元テレビ局は一件の事故を報じたが、マスコミ嫌いでテレビも殆ど見ないそれを脩一が知ることはなかった。
「――警察に依りますと、事故に遭ったのは市内在住のアルバイト・楠貫哲彦さん、二十七才です。クラス会の相談で集まっていたという友人たちの証言をお聞き下さい」
モザイクの掛かった映像のなかで若者たちは声を震わせていた。
〈歩行者用の信号は点滅していました……。みんな立ち止まったんです……。でも、彼だけが、平気だと言って――走って出たところにクルマが来て……〉
画面は再びアナウンサーの、表情の無い顔に切り替わった。
「轢かれた楠貫さんはそこから三十メートル以上飛ばされた路上に落ちたと発表されました。全身骨折の上、失血性ショックで搬送先の病院で死亡が確認されたということです。では次のニュースです――」
殆どの者にとって〈単なる一つのニュース〉だった哲彦の死から十日が過ぎた。脩一は哲彦の事故があった午後には東京に戻り、そのままロスへと帰って行った。
数日後の晴れた日、息子の使った布団を干そうと、脩一の母親が脩一の部屋に入った。
「あら?」
片付けてあったイーゼルが出ている。
「あの子、何か描いたんだわ」
イーゼルの前に立って見た。
「なにこれ?何を遊びで描いてったの?気味が悪いなあ。こんなの片付けとこうっと」
サインも無いその絵が大切なものとは到底思えない。母親は生乾きの絵をクローゼットの奥に仕舞った。
母親が出て行くと、部屋は静まり返った。闇の中に立てかけられた絵は全体に赤黒い。暗い色調の画面中央に大人の男が描かれていた。その身体は壊れた操り人形のように不自然な箇所に関節があり、顔には人間のものとは思えない苦悶の表情が――。
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