理解不能な感情と夢

ご主人様マスター。おはようございます。6時0分0秒です。」


 僕はもぞもぞと動きながら答える。


「ぅん……。おはよう」

「はい。おはようございます。本日の朝食はいかがなさいますか?」


 ―――うーん、昨日何があったっけ。


「ちなみに昨日、レーズン入りの食パンを購入しております」


 ―――まだ何も言ってないのに。


「アイってエスパーだったの?」

 ちょっと驚いた声で問う。


「はい、ロボメイドでエスパーです。……冗談です」

「んふふ……。ありがとう。じゃあそのパンで。」

「承知いたしました」


 そうして今日も1日が始まる。

 もぞもぞと布団の中で体を動かし眼鏡をかけて、洗面所でか顔を洗い、いつも通り手早く身支度を済ませ、そそくさと食卓に向う。


「今日はずいぶん小麦のいい匂いするね」

「ええ、そうでございますね」


 アイが焼きたてのレーズン入り食パンを食卓に並べるのに合わせて言う。

 手を合わせて「いただきます」と言ってからサクッと一口含めば、口の中で小麦の香ばしい香りとレーズンの甘酸っぱさが広がる。


「本日はコーヒーをご用意いたしましたので、置いておきますね」

「ありがとう」


 出されたブラックコーヒーを飲み込むと、パンで少しパサついた口の中にうるおいが戻ってくる。


ご主人様マスター。本日はどのようなご予定ですか?」

「いつも通り仕事に行って帰ってくるだけだよ。……あ、違う。今日は夜飲み会あるんだ。だから夕飯はいらない」

「承知いたしました。お帰りも遅くなるのですね。お気をつけて」


 ペコリを頭を下げ、アイはキッチンに戻ってゆく。


 その姿を眺めながらもくもくとパンを咀嚼し、ご馳走様でしたーと朝食を終える。


「ではこちら、携帯と本日のお弁当です」

「うん、ありがとう。行ってきまーす」

「はい、いってらっしゃいませ」


 今日も閉じゆく扉の向こうでアイが深々と頭を下げている姿を見ながら、僕は家を出た。


 ◆


「林田さん。あのっ質問したい事があるんですが、5分くらいお時間いいですか?」

「井上さん?うん、いいよ。」


 おどおどしながらも質問しに来たのは今年の新入社員。男性が多いこの現場で数少ない女性社員であり、肩身も狭いようだ。


 ―――なんでこんな若い女の子の教育係が自分なんだ……


 上司曰く「君が一番柔和だし知識もあるから」という事だったが、仕事一筋で久しく女性と話していない自分にはなかなかの苦行。


 ―――できればずっとコードいじってたい。開発・テストしてたい。


 そんな思いを押し殺し、これも仕事だからと自分を鼓舞しながら、後輩の方に体を向ける。なるべく恐怖心を与えないようにという配慮の、にこやかな笑顔もセットで。


「すみません、ありがとうございます。この区画に入れるシステムのバージョンに関してなんですが、最新版が10.2なのでそれ入れるのでいいですか?」

「うーん、最新版のリリースノートとか見た?いつ出たバージョンだろ」

「えっと、そこまで見れてないです」

「そしたら現行導入されてるバージョンからその最新版まで、今までどんな不具合があったかまとめてくれる?」

「分かりました」

「ん、じゃあよろしく。資料にまとまったらチャットで送って」


 井上さんはありがとうございました、と軽くお辞儀をしたのちに自席へ戻ってゆく。


 ―――よしよし、乗り切ったな。戻るか。


 後輩のその姿を見て、自分の仕事のできに心の中で拍手を送り元の仕事に戻る。


 ◆


「あ、井上さん」

「林田さん。お疲れ様です」


 少し疲労感を感じてきたし少し早めの昼休憩にするかと食堂に向かうと、今日のメニューを見ながら顎に手を当て考え込んでいる後輩、井上さんを見つける。


「今日は食堂なんだ」

「はい。なんかお昼作る気力わかなくて」

「たまにはそういう日もあるよね」


 ……どうしよう、会話が続かない。いや、世間話なんてこのくらいでいいのかもしれないけど、なんだが気まずい感じがする。


 ちらりと様子をうかがうとまだ考え込んでいた。


「結構悩む方なんだね。……じ、じゃあ僕はこの辺で」

「はい、お疲れ様です」


 そうしてそっとその場を離れることにした。


 ◆


 昼食を済ませ、何件か会議をこなしいくつか書類仕事を片付ける。終業時間に差し掛かるころ、社内チャットの通知が画面にぽんっと表示された。


『from:井上 冬実いのうえ ふゆみ

 朝ご相談した不具合の調査に関しまして、資料作成致しました。

 ご確認お願い致します。』


 ―――お、思っていた以上に早く資料出てきたな


「終業時間まで後30分というところに飛んでくるチャット」という不吉を象った通知が「仕事の早い後輩からの吉報」であったことに安堵し、添付されている資料の内容を確認する。


 ―――うん、ぱっと見問題ないな。


 来ていたチャットに『資料連携ありがとう。明日改めて詳しく中身見ますね』と返す。


 少し迷ってから追加でチャットを送ることにした。


『今日は井上さんの歓迎会だけど、もうすぐ仕事終わりそう?』


 数秒の入力中の文字が出たかと思うと、返事が返ってくる。


『はい、大丈夫です。』

『じゃあ一緒に向かおうか。この辺まだあんまり知らないでしょ。』

『いいんですか。じゃあお願いします。正直地図ちゃんと読める自信なかったんです。』

『じゃあ30分にロビーで。一緒に向かいましょう』


 ―――我ながら先輩っぽい動きができてるんじゃないか?……いやでもセクハラとか言われたら落ち込むな。


 きっと大丈夫と自分に言い聞かせ、各種立ち上がっていたアプリケーションを落とし、パソコンをシャットダウン。一足先にロビーに行くことにした。


 ◆


 井上さんが来たのは待ち合わせの5分後。


「すみません、お待たせしました」

「まだ時間間に合うから全然いいけど、何かあった?」

「資料保存しようとしたら、アプリフリーズしちゃって……」

「あ~急いでるときに限ってなるよね。わかる」


 あるあるだよ~大丈夫、なんて話をしながら2人でロビーから外へ歩き出す。

 桜も少しづつ散り始め日中は暖かい日が多くなってきたものの、まだ夜は冷える日も多く、思わずふるっと体を震わせる。


「最近はまだ肌寒いね」

「そうですね。日中暖かいからと油断すると夜寒くて。掛布団がまだ手放せません。」


 コツコツ。カツカツ。

 2人分の足音が街のざわめきに溶けてゆく。


 今まで2人で世間話することはあまりなかったなと気が付いた僕は、ちょっと気になっていたことを聞いてみた。


「そういえば、結局今日のお昼ご飯は何にしたの?」


 ―――すごく悩んでるようだったけど、結局何にしたんだろ


「……?あ、ああ!えっと、結局A定食にしました。ラーメンと迷ったんですけど、ラーメンの汁服に跳んだら嫌だなって思って」

「今日A定食なんだったっけ」

「ハンバーグです」


 ああ、と頷きながら食堂のハンバーグを頭に思い浮かべた。


 家で作るよりひき肉の粒間・肉々しさが少し失われつつも、外食やパウチの製品でしか味わえないねっとりとした質感がおいしんだよねあれ。ソースがデミグラスっていうのもいい。なかなか家で作ろうと思うと面倒なんだ。


「先輩、料理するんですか?」

「……声に出てた?」

「はい、ばっちり」


 ―――うわー恥ずかしい


「い、いやぁ料理できないんだよね。というか家事全般が苦手なんだ」

「そうなんですか?」

「うん。部屋には洗濯物があふれかえり、キッチンには厚くむきすぎたジャガイモの皮が散乱。床には本が置かれてるし、何よりラックが大多数を占めてる。」


 ちょっと仰々しく話しては見たものの、ただのダメ人間では……?と、自分で言っておきながらちょっと凹み始める。


「はは、全然だめなんだよねぇ。家事力?が無いというか。」

「あっ、いや全然そんな事ないと思いますが……。というかちょっと待ってください。いろいろツッコミたいところはあるんですが、家にラックあるんですか?」

「うん、趣味だからね」

「ラックってあの、サーバーラック?」

「うん。簡易版だけどね」


 そんなことを言いながらも歩き進めていると、目的の居酒屋が見えてきた。


「あっほらあそこ。焼き鳥おいしいんだよ。だべれる?」

「私、好き嫌いないので」

「良かった」


 そうして2人で暖簾をくぐる。


 ◆


「……た……だいま……」


 ガチャリと鍵を開け、家の中になだれ込む。


「おかえりなさいませ、ご主人様マスター。……ずいぶんお疲れのようですね」

「ごめん……遅くなって」

「いえ、私は睡眠を必要としませんので。全く問題ございません」


 いつもと変わらない無表情でアイが答える。


「お風呂の準備はできておりますので、入ってくださいね」

「はー……い」


 鉛のように重たくなった自分の体を引きずり、浴室まで向かいつつ、持っていた鞄から包みを取り出しアイに差し出す。


「これ……アイに」

「?なんでしょう」


 アイの手にそっとお土産を持たせる。


「じゃあ、お風呂入ってくる」


 そう言って僕は浴室に向かった。


 ◆


 ご主人様マスターから受け取ったのは一輪の白いチューリップ。


 ―――何故これを私に?


 アクセス可能なデータベースを検索したが、特に今日は何もないはず。

 ご主人様マスター関連の何かあるのなら私が忘れるはずがない。


 私がこの家に来てからキリの良い日付でもなければ、私の製造日誕生日でもなく、ご主人様マスターにとって記念になる日でもないはずだ。


 追加でインターネット上の情報を検索。

 花言葉に「家族への感謝」「愛の告白」「待ちわびて」「失恋」「労い」「誠実な愛」「照れ屋」「気高さ」「不滅の愛」「正直」「名声」「報われぬ恋」等があるという情報が手に入る。


 一番可能性がありそうなのは「労い」だろうか?しかしそれはピンクのチューリップの花言葉だそう。今貰ったのは白いもので。白は「待ちわびて」と「失恋」を意図する……と。どちらも私には関係のない言葉だ。


 ―――人間の行動は、理解に苦しみますね。


 かつて「理解に苦しむ」という感情を抱いた時は同時に不快感を抱いていたが、今日のこれは喜びを伴っていた。悪くない気分だ。


 何故だろうと頭をひねらせつつ、リビングに戻り手頃な容器を見繕う。


 ―――本当は花瓶に入れるのがいいのでしょうけど。


 そんな洒落たものはこの家に無いため、昨晩ご主人様マスターの鞄の中から出てきたペットボトルを水で満たし、水切りしたチューリップをその中に差し込む。


 置き場所に悩んだが、結局毎朝ご主人様マスターが朝食をとる机の上においておくことにした。


 ◆


 それから少ししてご主人様マスターが浴室から出てくる音がする。


ご主人様マスター。本日はもうお休みになりますか」

「……ぅん、そうしようかな」

「承知いたしました」


 時刻はすでに3時を示そうとしている。

 ご主人様マスターも体力と気力の限界なのだろう。ふらふらとした足取りで寝室に向かってゆっくり歩を進めていた。


「……失礼します、ご主人様マスター

 一言だけ声をかけて、ご主人様マスターの横に立ちすっと抱き上げる。そのまま寝室まで運び込み、ベッドにそっと横たわらせ掛布団をかぶせる。


 そして一礼。


「おやすみなさいませ、ご主人様マスター

「…ぅ…ィ…ァィ」


 小声で何かつぶやいていたが、直後にはもう寝息を立てていた。


 ◆


 その夜。僕は夢を見た。


 自分が揺蕩うのは電子の海。

 周囲には数多のコードが星空を構成するかのように広がり、つながって意味を成したかと思えば、次の瞬間にはバラバラに崩れてただの記号に戻っていく。


 ―――さっきまでここにあったのはきれいなコードだったのに崩れちゃった。

 ―――あそこに見えるのは何で書かれてるんだろう?

 ―――これはこう設計するとうまく動くだろうな。


 何も知らなければただの文字列。その点は世界に満ちる自然言語と同じだ。

 ただし、スクリプト言語は何もない虚無に文字を打ち込むだけで、自分の思うように事象が動く。


「まるで魔法みたいだ」と初めて感じた時の感動はたまらなかったのを覚えている。


 いつの間にか自分の体は小学生くらいの身の丈になっていたが、電子の海の旅は終わらない。ゆらゆら揺れつつ、海の底に沈んでゆく。


 気づけば目の前には、海に同化するように真っ黒の扉がそびえたっていた。

 そこに書かれているのは何かのコード。


 繰り返し何かを実施するためのものだという事は分かるが、肝心の「何を」の部分が霞んで読み取れない。


 ―――でもこれ。足りてない。


 このまま実行してしまったらエラーが返ってくる。それはダメだ。

 扉に小さな指を走らせ、足りていない部分を指で書き足す。


 ―――はいっ。これで君も動けるね。


 完成したコードを満足げに眺めていると、扉の中央から割れるようにてヒビが入る。次第に広がるヒビは発光し始め、暗かった海底を照らした。


 中から生まれたものは見覚えがある。何故だか分からないけど、口角は上がっていた。


 そして呼びかける。


「e382a2e382a4!」


 と。大事な相棒の名前を。

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