あなたは夏の落とし物

たなか

第1話

 8月29日。


 マンションの屋上へと続く扉に、錆びかけた南京錠がかかっている。家から持ってきたペンチを使い、無理矢理こじ開けた。

 動画で見たのと同じようにやると、案外簡単に壊れる。


 壊れた南京錠を落とし、扉を開ける。ギィィィ……と大きい音がした。古びたマンションの屋上の扉だ。老朽化は日々進んでいる。


 扉を開け放つと、場違いな程に青い空が目に入った。強い日光が容赦なくアスファルトを照りつける。これこそ夏、と思わせる景色だ。


 そっと足を踏み出し、扉から手を離す。もう一度あの音を立てて扉は閉まった。


 どこかぼんやりとした頭でまっすぐ歩き、柵に手をかける。ここ1ヶ月以上ほとんど使っていない筋肉を総動員して、柵を乗り越えた。

 足が着く先は、奥行き1mにも満たないスペース。死と隣り合わせだ。


「……靴、脱がないんですか」


 不意に隣から声がして、驚いて落ちそうになる。待て待て、冗談じゃない。柵をつかんで持ち直し、声がした方を見た。


 薄手の長袖を着た同い年くらいの女の子が、僅かなスペースで膝を抱えて座っていた。長い髪で隠れて、顔はよく見えない。

「あ、ごめんなさい、人がいると思わなくて……」

「それはいいんですけど、靴。脱いだ方がいいと思います」

 あ、と思って足元を見る。本当だ。久しぶりに履いた赤いスニーカーが目に入った。

 柵をつかんで恐る恐る靴を脱ぎ、向こう側に落とす。

「なんでこんなとこに来たんですか。そんなに落ちるのが怖いなら、部屋に戻ればいいじゃないですか」

 抑揚のない声が呟く。早く帰れ。そう言っているような。

「不本意に落ちて死ぬのは嫌じゃないですか。どれだけ自殺願望があったって」

 女の子の隣にゆっくりと腰を下ろす。少しだけ地上が近くなった。

「……それもそうですね」

 さっきよりも小さくなった声が、そう返した。


 もう話すことはない。そろそろ落ちていいんじゃないか。唐突にそう思い、立ち上がる。


「もう行くんですか」

「……することないじゃないですか。未練とか、何も無いです」

「2人で同時に行きませんか」

 いつの間にか私と同じように立ち上がった女の子が、反対側を向いてそう言う。私よりも少し背が高い。顔は、やはり見えなかった。

「え、別にいいですけど……」

「どちらかが先に落ちて、その後にもうひとりが落ちた時、先に落ちた側の遺体が下敷きになって死ねないかもしれないですよ」

 あぁ、なるほど。心の中で返事をする。

「じゃあ、3つ数えたら、2人で行きましょうか」

「……そうですね」

 柵を掴んでいた手を離す。


 もう終わりだ。

 きっと会える。


「1……2……」

 カウントをするけど、どうしても「3」が言えなかった。怖いのだ。死ぬのが。

 弱い私を落ち着かせるためか、女の子が口を開いた。


「あなたはなんで死のうと思ったんですか?」


 少し柔らかくなった声に、固まっていた心がほぐれる。


「……ちょうど1年前くらいに、妹が死んだんです。学校でいじめられて、首を吊って。私が最初に見つけちゃって、その時妹はまだ生きてました。助けようと思ったんですけど、怖くて足が動かなくて。

 結局私は妹を見殺しにして、ただ死ぬのを見届けました」


 思い出すだけで、辛くなる。

 助けて、と叫ぶ妹の声。動かない足。何人もの同級生の名前が書かれた遺書。

 助けてあげたかった。彼女は死にたかったのでは無い。死を選ばざるを得なかったのだ。私が助けて、守って、一緒に生きてあげればよかったのに。

 後悔だけが募る日々に嫌気が差して、謝りに行こうと思った。


「妹は……凛は、本当に優しい子でした。いたずらが好きで頭が良くて。運動は少し苦手だったけど」

「そうだったんですか。妹さんが……」

「あなたは、なんでですか?」

「……同級生にいじめられました。内容は言いたくないですけど、もう夏休みもあけちゃうし、ササッと死のうかなって……夏休み中に死ねば、永遠に夏休みの中にいられるのかなって思って」

 女の子が笑いながら話す。小さな声の震えは、気付かないふりをした。

「面白い考え方ですね……小さい頃は夏休み、純粋に楽しめてたんですけどね……変わっちゃいますね、やっぱり」

「夏休み明けは憂鬱でしたけど、学校に着いたら着いたで楽しかったです。みんな髪短くなってて、面白かった」

「テレビもずっと観てました。あ、それは今もそうですけど」

「昨日、あれみましたか? 怖い話の嘘くさい番組」

「え、やってました? 観ればよかった……」

「観なくて良かったですよ。怖いんですけど嘘くさくて笑っちゃう」

「それ結局面白いんじゃないですか? いいなぁ、観たかったです」

「……あ、すぐそこのコンビニ、美味しいアイス売ってますよ。さっき買って食べました」

「え、ずるいですよそれ。最後の晩餐ですか?」

「まぁそんなもんですね。あとレジにイケメンがいました」

「写真撮りましたか?」

「撮ってないですよ。撮りたかったけど」

「……ここ、こんなに高いんですね」

「そりゃそこそこの高層マンションなんですから」

 足元に広がる世界を眺めた。白、白、赤、銀、白、黒、黄。角を削った四角形が、コンクリートの上を走り抜けるのが見える。

 私の左足のすぐそばには、ひっくり返って死んだ蝉が落ちていた。大きな風船を持った小さな女の子が、母親に手を引かれてスキップをしている。

「……あの」

 私の声は、青すぎる空に吸い込まれていく。

「……なんですか」

「……」

「……」



「……もう死にたくないって言ったら、怒りますか」



「……奇遇ですね。私もです」



「面白いテレビ、もっと観たいです。美味しいアイスも食べたいし、レジのイケメンも見たい。あわよくば写真欲しいです」



「死ぬの、やめますか。私ももう1回イケメン見たいです」




 柵の向こう側に降り立つ。女の子は、まだ狭いスペースにいた。私の方を見もしないで。

「行かないんですか?」

 尋ねると、「もう少し、ここにいます」と返ってくる。

「そう、ですか。間違えて落ちないように気をつけてください」

「そうですね」

「……名前、教えてください」

「なんでですか」

「知りたいです。私も教えるので」

 私がいなくなってから、もし彼女がここから飛び降りたら。もし明日、また希死念慮に襲われて死んでしまったら。もし彼女の名前を呼んでくれる人がいなかったら。私が真っ先に名前を呼んであげたいと思った。

「……じゃあ先に言ってください」

「中岡朱音です。あなたは?」

 女の子は少しだけ私の方を見て、初めて顔を見せて微笑んだ。




 えくぼと尖った犬歯が、なびく髪の隙間から見える。







「凛です――中岡凛」







 もういちど私に背を向ける。

 強い風が、女の子の髪をそっと持ち上げた。

 白い首に残る赤い痕が、ふわりと目に飛び込む。





「……り、ん?」




 なんでだろう、と思っていた。



 南京錠はあいていなかった。



 女の子の靴はどこにもなかった。



 怖い話のテレビ番組は、1週間前に放送していた。



 近所のコンビニは、1年前、小さな本屋になった。




「……凛? 凛なの?」




 心臓がじりじりと焦げる。




「ねぇ、凛なんだよね?」




 私の声だけが、私の耳を刺す。




「……返事してよ……」




「……」




「……」

















「……私ね、お姉ちゃんのこと大好きだよ」
















 女の子の姿が消える。

 そこには、青い空だけが残った。










 ただの、8月29日のお話。

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あなたは夏の落とし物 たなか @craz-06N

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