実体のないアクアリウム

与野高校文芸部

実体のないアクアリウム

 夜刀浦水族館にはこんな噂がある。

 曰く、その水族館には、幽霊が住み着いていると。

 曰く、その幽霊は形容しがたい姿をしていると。

 曰く、その幽霊を見た者は発狂してしまうと。

 曰く、その幽霊が人間を食べてしまっていると。

 ただのオカルトだと一蹴することは簡単だが、それが本当に噂だと確かめるすべは存在しない。だから、人々はそれに恐怖し、遠ざけ、何があるのかを理解しようとしなかった。結局、私が八歳の時に館長が行方不明に。それ機に閉館に追い込まれ、夜刀浦水族館だった建物はみすぼらしい廃墟となってしまったが、それはある意味では正しい判断だったのだろう。

「ここが、か」

 スマホの地図アプリから顔を上げ、記憶の水族館との違いを確認する。

私は、叔父さん(立場上は上司だが)からの命令で再びこの元水族館を訪れていた。

「やっぱり、数年経つと結構変わるな」

幼い頃に何回も来た水族館の面影はもはや何も残っていない。元水族館の周囲には草が茫々と立ち並び、外壁のペンキが剥がれてしまっている。たった数年でここまで廃れてしまったと残念に思う気持ちもあるが、同時にあの頃を思い出して温かい感情がこみ上げてくる。

「ずっと、昔のままだったら良いのにね」

 くだらないことを考えつつ、腰ぐらいある草を掻き分け、水族館の入口まで辿り着く。私は幼少期の思い出を噛みしめるように、ゆっくりと扉を開ける。

「……やっぱり、か」

 その扉の先には案の定というべきか、予定調和というべきか。幻想的な光景が広がっていた。色とりどりの魚たちが光を取り戻したように泳いでおり、もう電気も通っていないだが柔らかな光がアクアリウムからあふれ出ている。そして、

「どうだい、私からのサプライズは? 度肝抜かれたかい?」

 両手を広げ、誇らしげな顔をする少女が一人。

「……いいや、全然。そうくると思ってから」

「はは、手厳しくなったな。君は」

 昔のように綺麗だが、少し変わってしまった水族館。それを懐かしみ、憐れむように、

「でも、綺麗だったよ。お姉ちゃん。」

「ふふ、どういたしまして。命」

 あの頃とまるで変わっていない『幽霊』のお姉ちゃんが私を出迎えてくれた。


『幽霊は実在する』そう思い始めたのは七歳の時だった。

「……っ、お母さん……」

 七歳の頃。夜刀浦水族館で迷子になったことがある。周りに誰もいない、寂しい水族館。心細くて泣いて

いた私を。

「……うん? どうした? なぜ泣いているんだい?」

 一人の少女が見つけてくれた。

「っ……、う……お母さんがどこかに行っちゃって……」

「……そうか。最後にどこで見たか覚えているかい?」

 少女は十四歳くらいに見え、年齢差的には私のお姉ちゃんだった。

「分かん……ない」

「うん。そうだな……。少し目をつぶっていてくれるかい?」

 お姉ちゃんは、いたずらを思いついた子供のように笑っていた。私はそんなお姉ちゃんを信じ、目を閉じる。

「ふふ、目を開けてくれ」

 どれくらい経ったのだろうか。目を開けると、

「……綺麗」

 目の前には見たこともないような幻想的な風景が広がっていた。色とりどりの見たこともないような深海魚達が泳いでおり、柔らかな光がアクアリウムからあふれ出して、私たちを照らしていた。

「はは、そうだろう。私の自信作なんだ」

 誇らしげに胸を張るお姉ちゃん。

「……それと、君の母親はあっちの方にいたよ。心配していると思うから、早く行ってあげるといい」

 お姉ちゃんはそう言って、私を帰らそうとする。だけど、最後に

「あの……お姉ちゃんの名前を教えてくれませんか?」

 私がそう言うと、お姉ちゃんは少し驚いた顔をして、

「……私は紗耶。『幽霊』のお姉ちゃんさ」

 私が『幽霊』のお姉ちゃんと出会ったのも七歳の時だった。

 ……もう二度と会えないと思っていたけど、お姉ちゃんは

「やあ、命。元気にしてたかい?」

 また、私の前に現れてくれた。それから、私はお姉ちゃんのいる夜刀浦水族館に入り浸るようになった。一緒に金平糖を食べたり、お母さんの愚痴を言ったり。お姉ちゃんと過ごした一年間は私にとってどんな宝石よりも大切なものだった。

 ……水族館の館長が急に行方不明になった日から、それは変わってしまったが。その翌日に、叔父さんが家に訪れてきて、母さんが言うには、叔父さんは『霊媒師』という『幽霊』を祓う職業らしく、私にとりついた『呪い』を完全に祓うためには遠くへ行かなければならないらしくて……。

 色んなことが洪水のように、押し寄せてきて。

「……お姉ちゃん」

お別れも言えるまま、お姉ちゃんと離れ離れになってしまった。


「……で、その後はどうなったんだい?」

 アクアリウムの中を悠々と泳ぐ魚たちを見ながら、私は質問に答える。

「一応、『呪い』は祓えたたんだけど、呪った『幽霊』の正体は分からずじまいだった」

「……ふぅん」

「原因が不明なのと、また呪われるかもしれないから、今まで夜刀浦水族館への立ち入りは禁止されていたの。だけど、私が『霊媒師』になった時に叔父さんにお姉ちゃんのことを話したら、万が一のために見て来いって」

 幽霊とは何かを知る良い機会になるとも言っていたと、口を零す。

「……それで、私を祓いに来たのかい?」

 一瞬、水槽の魚が身じろいだ気がした。

「……私が『霊媒師』になったのは、お姉ちゃんを祓うためじゃないから。そんなこと言わないで」

「ハハ、嬉しいことを言うね。……まぁ、私としては命に祓われるのはやぶさかでないけどね」

 餌を十分に貰っていないのか、鮫が他の魚を喰い、アクアリムの一角は凄惨な光景となっていた。お姉ちゃんなら『霊媒師』に祓われることの意味を理解しているはずなのに……。

「……お姉ちゃんは、私がいない間どうしてたの? 暇だった?」

「ああ。水族館が閉鎖しちゃったから、誰もこないし暇だったさ。せめて、館長が自殺していなければもう少し、マシになったと思うが……」

「館長? 行方不明になってるんじゃ……」

 私がそう聞くと、お姉ちゃんは「しまった」という顔をする。一瞬、アクアリウムの魚達が見定めるような目でこちらを見た気がした。

「……館長は、十年前に自殺している」

「どうして……」

「理由はわからない。だけど、何か理由があったのは確かだ。君を『呪う』ためかもしれないし、私のような『幽霊』になるためなのかもしれない。真相は闇の中ってやつさ」


「……もう帰ってしまうのかい?」

「うん。一応、任務としてここに来ているから」

 どれくらい、お姉ちゃんと喋っていただろうか。時計を見ると既に数時間が経過していた。これ以上いると、叔父さんを心配させてしまうだろう。お姉ちゃんは、この世の終わりみたいな顔する。私も悲しいが、もう二度と会えないときまったわけじゃない。

「……万が一のために言うけど、人を『呪う』ことはしないでね。『霊媒師』に祓われちゃうから」

「はは、するわけないだろう。私がそんなことをするたまに、見えるかい?」

 お姉ちゃんは笑みを浮かべ、ウインクをする。

「そうだよね。叔父さんには、もうすでに消滅していたと言っておくよ。お姉ちゃんくらいなら誤魔化せるでしょ」

「もちろん。そのくらい余裕さ」

 私は振り返り、夜刀浦水族館を後にしようとする。

 ……後ろの方で何か嫌な音がした。お姉ちゃんが何かに襲われているかもしれない。そう思い振り向くと、胸を押さえて苦しそうなお姉ちゃんがいて……

「来ないでくれ!」

 時が止まったような気がした。お姉ちゃんに初めて怒鳴られたからだろうか。脳が理解を拒もうとしたからだろうか。

「なあ、」

 お姉ちゃんが、今までの時間を、幸せな時間を確かめるかのように、唇を噛みしめ……

「館長を殺したのは、私だ」

「……は?」

 そう、告げた。

「……どう、して……」

 動くことも、碌に言葉を発することもできない人形に成り下がった私に、お姉ちゃんは新しい爆弾を投下する。

「……もう、無理なんだ。心では拒んでいても、君を『呪いたい』と、君を殺したいと、身体が求めているんだ」

 ……楽観視していた。お姉ちゃんは人を呪わないだろうと。お姉ちゃんは『欲求』を発祥してはいないと。今思えば、十年前に私を呪ったのはお姉ちゃんだったかもしれない。

「頼む、命。私を祓ってくれ。私を君のお姉ちゃんでいさせてくれ……」

「いや、嫌だよ……お姉ちゃん……」

 絞り取るような声だったかもしれない。声がかすれて碌に聞こえなかったかもしれない。けれど、私にはそれが必要だった。

「……私はね、君といた一年間は本当に楽しかったんだよ。『幽霊』として二度目の生を受け、水族館を彷徨っていた私にとって、君はどんな宝石にも勝る存在だった。……だから、君に祓われるのなら安心して成仏できるさ」

 お姉ちゃんは、今にも泣き出しそうな顔で笑った。

 だから、私は覚悟を決め、

「大好きだよ。お姉ちゃん」

 お姉ちゃんのことを抱きしめた。

 ……幼い頃、お姉ちゃんのことをお母さんに話したことがある。

 夜刀浦水族館には、とても優しい『幽霊』がいると。

 その人は私の大切なお姉ちゃんであると。

 お母さんは、信じてくれなかったけど、どうでも良かった。本当の『幽霊』を知っているのは私だけで十分だったから。

 ……私はこの選択に後悔はしていない。

「ふふ、私もさ。命」

ただ、一つあるとすれば、

「…ああ」

大切だったぬくもりは、とても空虚で冷たくなっていた。

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