序『廻天』


 ごくり、と誰かが生唾を飲み込んだ音が、やけに大きく耳に届く。


「──団長……、どうしますか」

 副官の一人が重々しく言った。

 それは現状打開の策の確認というよりかはむしろ、これからどのような判断を下すべきなのかという覚悟の籠もった問いかけ。場合によっては、戦えない者は見捨て、あるいは囮として使ってでも戦える者だけで国への帰還を果たすのか、という。

「…………戦える者は、どれほどいる」

「現状では、…………おそらく──三割ほど」

「それだけ……か。いや、こんな状態でも三割が戦えるのだと考えれば、むしろ十分と言えるか」

 己の生命が危機に瀕しており、加えて歴戦の猛者達をも震わせる絶望的な状況下。誰がどう見ようとも全滅するのが確実と言えるような、完全に敵勢力に包囲されている状態。

 今回初めて壁外征伐に参加したという新人も多くいる。しかし経験の無い者達は今、恐慌状態には陥らず、なんとか踏みとどまっている。彼らは既に、十分以上に戦っていると言えるだろう。

 魔群は強い。数が多く戦略も多彩で、火力も劣ることはない。一対一の戦闘では、対魔群戦闘に手慣れた者ですら致命傷を負う可能性が常に付きまとう程に。

 だから早く、決断を下さねばならない。執行兵団を預かった長として。一人の父親として。

 円陣を組んだ最中央を見る。恐怖に顔を引きつらせ、身を震わせている齢六の息子の姿が目に入る。

 もっとしっかり壁外の恐ろしさというものを教えておくべきだったと、アーレントは今、身に沁みてそう感じる。

 遍く悔恨を捨て去るように重く長く、一つ息を吐いた。

「……シェール。私の息子を──ルクセリアを頼む」

「……了」

 副官からの最小限に留めた返答を受け、アーレントは覚悟を決めた。

「総員、そのままで構わない。今から全体へ向けて指示を出すので、聞いてくれ。──私は、森に控えているであろう魔術師Grief of Reaperを打ちに行く。諸君らは反転し、一点突破にて帰還を目指せ。啓開、殿は最大火力にてオックス隊、レヴィア隊が。その他中央部は、可能な限りで支援砲撃を」

 空気がピンと張る。今から生死の懸かった作戦が始まるのだと、漏れなく全員が理解した。

 アーレントは兵団達が浮足立つ前に、強く、そして激しく覚悟を迫る。

「────今から、多くが死ぬだろう。未来ある若者も老い先短い古兵も関係なく、魔群の凶刃によって斃れていく。見知った者が、視界の端で生きたまま喰われてゆく場面を見る事もあるかもしれない。しかし振り返るな。仲間の、友の嘆きも悲鳴も呻吟も、屍すらも超えて国へ帰還しろ。団長命令だ。────………作戦開始ィィィィィッッッッ!!!!!」

 咆哮と同時、六箇所で同時爆発するように、枢基を行使する為のエネルギー──機力──が高く起こった。

 合わせるようにして後方、兵団員からも機力が上がる。

 ──ルーク……すまなかった。声には出さずに、口の中でだけつぶやいた。



 徘徊性の人喰いの蜘蛛と巡航性の黒血の天秤が、目につく限りを覆い尽くして獲物が飛び込んでくるのを待っている。

 誰が喰われてなんかやるものか。

「砲二、面制圧。牽制程度で構わん、左右を穿て。残りは正面、俺に続け!」

「「「「「「「了解ッッッ!!!」」」」」」」

「突破するぞ! お前ら、死ぬなよ!!!」

「「装填──砲装『爆炎華』」」

 敵方包囲陣啓開突破、その最前線で爆炎の華が二つ咲く。赫赫と燃え上がった爆炎華は炎熱を全方位へと吹き撒いて、オックス隊以下団員の姿を紅く黒く覆い隠す。

 熱も火の粉も気にせず、最前列が包囲域へ突入。同時、紫雷の閃光が一つ弾ける。

「御佩刀──武装『雷霆』」

『ギィィィぃぃぃぃぃぃぃギギィィッッ──ジッ……』

 オックスが枢基を通じて武装を展開。それに続いて、隊の者達もまた武装を展開していく。

 眼前では四足の黒蜘蛛が腹に開いた大口を目いっぱいにして、死の円舞でも踊るかのように荒れ狂っている。全高約四メートル、全長約八メートルなんて体躯のくせに、その身を支える節足の長い脚部は枝木のように細いなんていう化け物だ。

「『雷霆』──迅雷ッッッ!!!」

 包囲陣の奥へと進むに連れて、オックスは十、二十……百と魔群の討伐数を重ねていく。

「いっッ……ああぁぁぁぁッッッガぁっああああっッあぁぁぁ!!!」

「づッッッッッぁっっ!!!」

 同時に後方からは、耳を引き裂くような絶叫や苦悶の声が絶え間なく聞こえてくる。しかし誰もが前を向く。前を向いて、敵だけを視界に収めて、ただただ敵を屠り殺す為に武装を、砲装を振るう。生きて家族の元へと、帰るために。

 それが出来なかった者──中途半端な覚悟によって、ただ流されるままに動いていた者は既に、爆炎の前で足を踏んで躓いた。見知った仲間を見捨て切れずに手を伸ばしたものは、そのまま腕を喰われて引き摺り込まれた。

 決して振り向くな。仲間の死体を踏み抜いてでも前へ進め。ただお前が、生き残るために。

「『爆炎華』──掩蓋火燼!」

『ジジジッッギッィッッッッぃぃぃぃぃぃgィィィ!!!!』

 包囲陣を敷いている敵はもう一体。血の赤の皿を両腕に提げた天秤だ。全長約二十センチという小柄で、しかし簡易的な砲の役割をこなす厄介者。立ち位置は常に黒蜘蛛の裏あるいは直下にあり、溜めと目標の観測、補足が済み次第、不可視同等の風の斬撃を放ち攻撃。それが毎秒、三撃だ。

「ぐ、がっ──ぁ……」

 また誰かが死んだ声。数メートル先すら見えない極限の混戦の戦場の中で、誰にも見送られることなく、穏やかとは程遠く。

 しかしその死を偲んでやれる時間は、悲しみに嘆いて足を止めてやれるだけの余裕は、彼には──否。この場の誰にも、そんなものはない。

「……『雷霆』──閃仞雷光」

『『『『『ギギッォ……』』』』』

 生存かつ撤退が目的である以上、包囲を抜けるまでの戦闘は、最大限に避けたい。しかし接敵も戦闘も不可避のものである。ならば、より多くとは戦いたくない。だから仲間の視界を塞いででも、煙塵の幕は必要だった。遠方の敵が、直線最短でこちらに食い込んでくる事を防ぐために。

 あとは最前線を駆ける自分が、隊の仲間たちが敵を薙ぎ殺して、最短距離で一直線に陣を切り啓いていくだけ。力の限りに広く、目一杯に。それで後続が、燃え盛る粉塵が舞い散った炎幕の中を駆け抜ける。撤退する為の作戦は、たったそれだけのものだ。

 機力が尽きないように、横殴りに喰われないように警戒意識を常に高めて、魔群に覆い隠されて見えない出口へ向けて、全力で駆け抜けていく。

 たったそれだけの、シンプルな撤退作戦。

「御佩刀──武装『氷霜』──霧斬きりぎり

 左後方から右前方へかけて、氷の斬撃が閃く。爆風が渦巻く旋撃となって、紫雷が破裂の轟撃となって敵を屠る。

 一時も激音の止まぬ最前線。しかし敵数は絶えず、際限がない。永遠にも錯覚するような激戦の、仲間の命ばかりがすり減っていく敵の尽きない戦場。

 誰も彼もが、己にできる全力を尽くしているのに。それでも喰われて、刻まれて、物言わぬ残骸へと変えられていく。……なぜ世界はこうも、冷酷無惨なのか。

「『爆炎華』──掩蓋火燼』

 思考が取り留めもない無意味に奪われそうになって、ハッと気を戻す。同時に中空を覆い隠すようにして、火炎による掩撃が後方より飛来。広範囲に炎焔が舞う。それは真紅に燃えて、オックスの視界が朱く染まった。その刹那、光明のように白く、弾け輝くような一瞬を、彼は確かに見てとった。

「! 全体ッッッ!!!!! 包囲を抜けるぞ!!!!! 推定残り距離三十ッッ!!!」

 先の見えない暗雲の中で、それは確かに希望の灯光だった。

「『雷霆』──雷桜豪侠」

 雷で象ったオックスの真剣から前方広範囲へ、扇状に奔った紫電の花弁が敵を襲って舞い刎ねる。右斜め前方から急襲してきた黒蜘蛛の肚の燃え盛る口腔へ侵入し、激化。爆裂するように激しく散り、這いずり回るように別の敵へと伝い、更に放電。近距離に纏う敵を駆逐する。

 そしてついに、前方の魔群が尽きた。直線で二百メートル程度の長さの、道が啓けた。あとは仲間の生還を援助し、見届けるだけだ。

 戦場を振り返る。

 煙と焔と、血の赤と魔群の黒の残骸と、氷柱に雷轟に草花に。朱く燃えて白く弾け、あるいは青く染まり影色に落ちて尽きる、絶死の光景がオックスの目に飛び入った。

「ッ……っぁ、ィづッッ、道が……っ、道が啓けたぞ!!!! 全員、駆け抜けろ!!!! ここまで来たからには生きて帰るぞ!!!!」

 衝撃を呑んで万力を振るって、後方へ呼びかける。

 包囲域を抜けたからには、接近特化の武装はもう、いらない。数秒をもたせ、砲装へと転換する。

 今俺がやるべきは団員への支援! クソ蜘蛛の牽制と、仲間達が目指す導となること……!

「──砲装『極光』──鐘楼の音光」



 白く冷たい銀紗の中で吐いた息に、鈍色が交じる。止め処なく溢れて、散り積もった白の絨毯を赤黒く汚して染みる。

 相対するのは魔術師Grief of Reaper──魔群を指揮する、人類の絶対敵だ。それが数にして、三十ほど。化け物どもの統率を謀る司令塔なのだから当然、その周囲には魔群も控える。使い捨てにしても惜しくはない黒蜘蛛や黒血の天秤などではなく、もっと上位の、特別の。


 霜の降りて凍りついた、薄暗い瘴気と静寂ばかりに支配される冷たい森の表層。普段は人の気配など皆無で、天すら鎖す瘴気によって発生した黒蜘蛛や黒血の天秤が跳梁跋扈するだけの場所。

 そんな場所で今、すべての元凶とも言える敵と、アーレントは睨み合っていた。

「はははっ。そんなになってもまだ元気に動いてるなんて、きみってばスゴイね! ボクだったら気を失ってしまうよ」

 飄々と歌でも歌うかのように、薄青の銀髪の巻き毛の少女が言う。

「……ぬか、せッ……! おまえなど、我々の神が……、ペル、フェリーナ様がいまに、……でもッ!!!」

 数千年と続く『自由』と『正義』を掲げる正法国の、民が至上と奉る主こそ〈正義の神〉ペルフェリーナだ。特別な心臓を持ち、人類の及ばぬ領域にまで枢基を高め、遥か悠久の大戦すら生き延びた偉神。

 こんな小童如きなど……!

「あー、はいはい。いーよいーよ、そーゆーのいいから。もうさぁ、みーんなソレを言い始めるんだもん、飽き飽きだよ。満腹ぅ―満腹ぅ!」

 心底うんざりしてますよ、とでも言いたげに、少女は大げさに肩をすくめ、柳眉を寄せて困った表情を見せる。完全におちゃらけた、ふざけた態度だ。

 それはアーレントと戦っている時から変わらない。終始一貫して、余裕の態度で常に見下し、嗤笑ししょうあざけりで口角を上げている。そして彼女は、一切無傷。全力戦闘を経てもなお、彼女の身につけている瀟洒しょうしゃで綺麗な露草色の一枚服飾フリルドレスの裾にすら、塵一つ着いていない。一対一の戦闘で、それでも。

 負け惜しみではないが……アーレントは彼女からは、圧倒的な強さというものを一切感じていなかった。しかし蓋を開け、気付けば追い詰められて死に体だ。

 確実にもう、帰れない。だから。

「んー、なになにー? 自爆でもするのー?」

 見透かされた。

 僅かな緊張、表情の硬直、視線の移動、筋肉の弛緩、枢基の高まり。──ただ、何が原因なのかなどもはや関係ない。今はとにかく、敵に打撃を与えるのみ……ッ!

「今更もう、止められんぞッッッ!!!! ──『枢基崩壊』ッッ!!!」

 それは一生に一度の自爆攻撃。敵と渡り合うために鍛え抜いた枢基を捧げて初めて完成する、究極のエネルギー爆弾だ。世界から枢機を受け取り機力へと変換する組織を自ら壊して超火力を生み出す技であるから、それを使えばもう、たとえ生き残れたとしても機力によって生み出す術は使えない。

 正真正銘最後の、相打ちになってでも必ず相手を倒す為の奥義中の奥義だ。威力は枢基の熟練度に依存するが、最低でも半径二百メートルは更地に変える。そしてアーレントのそれは兵団の団長を努めるほどには、熟達している。威力は未知数。だが彼は、半径にして五百から千を吹き飛ばせるだけの威力にはなるだろうと踏んでいた。

 爆発の威力は実際、それだけのポテンシャルを秘めていた。

 しかし、

「あらま、ざんねんざんねん。せっかく枢基なんて大切なモノを消費したのに……スカしちゃったね? もったいなーい! あっ、でもでも、そのオカゲでキミは生き残れたんだし、結果おーらいってやつかな! ──ま、どうせ死んじゃうんだけどね!」

 底抜けに明るく楽しげにケラケラと笑う少女とは反対に、アーレントは声が出せなかった。

(な、……ぜ……?)

 枢基に機力を通すことで発動する術は、制御によって運用、行使するのだから、防がれたり打ち消されたりすることは理解ができる。実際、技術としても伝承されている。

 だがしかし、今の技はそうではない。逆だ。制御とは真逆の立ち位置にいあるものなのだ。

 術は狙った相手を攻撃する為にあり、故にその効果が己にも降り掛かって自傷してしまうようでは意味がない。だから当然に制御する。しかし今の爆発──『枢基崩壊』は、「何を捨ててでも」という状況特性上、そもそもからして後などなく、威力だけを求めているものだ。だから、内に溜めたエネルギーの全てを爆発させ、枢基という最重要組織すら崩壊させてエネルギーを生み出し、威力に転じる。だからそこには、ただただ膨大なエネルギーの塊が残るのみ。何らかの対処をしようにもそんなものは、枢基を極めた者の受容量にだって受け止められない。

 だからそんな芸当は。

「…………不可、能……、……だ……」

 不可能のはずである。少なくとも彼の知る限りでそんな芸当が出来る者など、……──それこそ、〈正義の神〉くらいしか思い浮かばない。

 しかし国家を統治している四座の神も、塔の中で研究に務めている二座の神も、アーレントは御尊顔だけなら知っている。

 だから、コイツは……、

「ふふふっ、ボクってばやっさしーからね! 冥土の土産に、名前くらいはおしえてやろう。さあ聞け、ボクの名前はウストアーレ──」

 鈍痛と失血によって黒く霞ゆく視界の中で辛うじて堪え繋いだ意識と聴覚で、アーレントはソレを聞いた。

 魔の囁きのように甘く、深淵の黒禍へと導き堕とす極楽の絶望を。悪魔の如きカワイサの乗った声で。

「───〈欺瞞ぎまんの神〉さ」

 それは紛れもなく、嘲笑だった。

(……くそっ、たれが──…………)

《竜殺し》の息子。現代において、最上の天稟の能力アビリティ・センス潜在能力ポテンシャル家柄ステータスを全て持って生まれてきた男は今、ここに敗北した。



 凍りついた森の前で、少女が男の死体を見下ろしていた。その男の死骸は右腕が肩口から欠損し、左腕はあらぬ方向に捻れ曲がっている。腹の方も無事ではなく、脇腹の破れ口からは血色のいい臓物が溢れ出ている。普通の少女であれば白目を剥いて卒倒しても、まったく不自然ではないほどに酷い有様だ。

 しかし少女は、普通ではなかった。むしろその口元には、笑みが浮かんでいる。

「ふふふっ。彼、つよかったねー。マントの飾りもなんだか豪華だし、記念品として貰っていこうかな? キミ達はどーおもう?」

 ニコニコと可愛らしい笑みを浮かべながら、後ろへ控える人影へと尋ねてみせた。目元までが覆われるフード付きの長い黒ローブを纏った、性別も分からぬ三十の影へと。

 その中の一人、ムラサキの刺繍線が一つ入ったオトコが、しゃがれた声で答える。

「ウィア様、お持ち帰りなされるのでしたら、お気に召されたマントかその装飾品だけに留めるのがよろしいかと存じます。……これほどまでに欠損しておる屍骸ですと、再利用はまず無理でありましょうし、枢基も使い果たされておるので、エネルギーを抽出したところで残りカスにすら期待は出来ぬものですから」

「ふぅん、そぉーなんだ」

 大して期待もしていなかったと言うような声。どうでもいいと、いうような。少女の興味は既に別のものへと移ろい、男の死体には路傍の石ゴミほどにも価値関心を示していなかった。

「あっ、そんなことよりさ、あの子たちってどうなったかな? だれか知ってる? 連絡はきたかな?」

 誰も寄り付かない──人類が辿り着くことすら稀な静かな森の前で、しばらくの間、少女の弾むようにたのしげな声だけが響いていた。



 842年10月。その日行われた二月に一度の壁外魔群征伐作戦では、過去に類を見ない規模での犠牲者が出た。その数、千四百六十三名。内大隊長位二十八名、及び団長位殉職。それは征伐参加者全体の七割、執行兵団全体の一割にも上る被害総数だった。

 原因の究明は即刻行われ、魔群の異常密集に注目が集まると共に、戦犯者への糾弾が激しさを増して行われた。それにより戦犯──何ら力を持たずして征伐へ向かう荷馬車へと忍び込み、明確に団の足を引っ張った罪による──少年・ルクセリアの属するシルトヒストリカ家は凋落ちょうらく。数百年に渡り兵団総団長位、団長位を排出してきた家系は、一日にして小隊長位以上の地位へ着くことを禁じられたのである。

 民衆はシルトヒストリカ家の排斥並びに放逐ほうちくを訴え、しかしそれは、国への帰還を果たした〈正義の神〉により、斟酌しんしゃくの余地ありとして却下される。

 だが、審判を経てなお人々は怒り続け、それを示すかのように新聞報道などは続いた。結果、当主を失ったシルトヒストリカ家には分家が立ち、しかし同時に凋落した。戦犯と認められ、苛烈を極める仕打ちを受け続けた六歳の少年・ルクセリアは、母、姉らと共に法国を出た。

 この日を境にして、低悪の暗黒時代が幕を開けた。


 844年3月。魔群の大攻勢が開始。第一防壁より見渡す限りに全方位、地平の果てまで続く魔の進軍が確認される。

 844年4月。魔群の大攻勢によって法国第一防壁突破。法国民の三割が死滅、全体領土の二分の一が踏み均され、奪われる。

 844年9月。法国民による内乱勃発。中央部へ逃げ込んだ人類で食糧庫が逼迫。将来への不安や緊張状態に耐えられなくなった民衆が蜂起。

 845年2月。魔群の大攻勢によって法国第二防壁突破。全体領土の三分の二が踏み均され、奪われる。それにより食糧庫は限界を迎える。

 847年1月。正法国の象徴〈正義の神〉ペルフェリーナ、下座げざ。冷帝国を統治する神により、その心臓が奪われる。

 同年同月。正法国は冷帝国の支配下に置かれ、植民地化。旧法国第三防壁は残され、民衆は例外無く奴隷としての苦役を強要される。奴隷となった物々は衣類完全剥奪の下、枢基摘出、人体実験、強制妊娠、赤子実験、機力暴走実験など、凄絶な実験が日々繰り返されるようになる。

 852年12月。〈智慧ちえの神〉並びに〈流転るてんの神〉の下座、〈閃光せんこうの神〉の下座及び焰の都滅亡、〈花葬かそうの神〉の下座及び泉皇国滅亡、〈氷刃ひょうじんの神〉の下座及び冷帝国壊滅が発覚。

 853年1月。帝国領内にて〈欺瞞ぎまんの神〉ウストアーレ、〈停天ていてんの神〉が衝突。旧帝国滅亡、〈欺瞞の神〉が下座。

 852年2月。残された最後の神──〈神愛しんあいの神〉が下座及び優愛の共和国滅亡並びに、魔群の完全消滅確認。同時に瘴気が晴れ、晴天が戻る。

 852年11月。降り積もった雪は完全に溶けてなくなり、遅まきの夏が訪れる。人類は滅亡。神は〈停天の神〉の一座いちざを除き消滅。三翼の原龍は狩り殺され、原龍は滅亡。

 853年5月10日。〈停天の神〉が《源翼の法典》を五つ揃え、《破天ノ封槍》を抜き取る。


 天へ至りし神が星杯を手に入れ、理と成る。



 六座の神と全人類の悲願だった晴天を迎え、誰もいなくなった世界でひとり、白髪の少年は口を開く。語り掛ける相手の姿は既に無く、言葉を返してくれる存在もいない中でただひとり。

「お父さん、お母さん。────………星杯、ぼくがとったよ……」

 少年は天を仰いだ。

 どこまでも、遥か彼方まで茫洋と続く蒼穹。果てもなく、黒く死んでいたのが嘘のように澄み渡っている。

 その下には、たった独り。家族も、人類も、文明も歴史も、その尽くを滅ぼして残るのは『天理の星杯』ただ一つだけ。

 それは、星にたった一つだけ存在することを許された創造の器。枢機の権能をある程度まで引き出せる代天の理にして、絶対的相対の願望機。

 事象にある限り、それはあらゆる願いを聞き届ける。それはあらゆる望みを遍く叶える。

 星の創造すら、願い、祈り、そして用いれば叶ってしまう万象自在の、相対的絶対の願望機。故にそれは〝天の理〟。星の力を集約し、天の力によってさかずきを満たし創造を為す、理の器。


 ならば世界を、創ればいい。


「お父さん、お母さん。──かならず迎えにいくから」


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