手向の小説

宵町いつか

あるとき

「ねえ」

 騒がしい居酒屋。人の匂いとお酒の匂いが混ざり合って、せっかくの香水のいい匂いがかき消されてしまうのを感じながら、私は彼に声をかけた。

 彼がこっちを向いて、首を傾げる。そのなんとなくいつもと違う雰囲気を感じて、自分の頬が綻びてしまうのが分かった。多分、お酒が回り始めてるんだろうと思う。

  彼は私の顔を見て優しく言葉を空間に添える。

「酔っ払った? ちょっと顔赤いよ」

 そうかな? もしかしたらそうだったかも。私はそう思い込んで彼に体を近づける。彼の服はひんやりとしていた。きっと冬だから、服が冷えている。私の顔が赤くなっているわけじゃない。

 彼の体が一瞬強張って、少し緩んだ。筋肉のある体に触れて、やっぱこの人も男だったな、なんてベッドの上でしか感じないことをいま思い出す。

「えへへ」

 そう笑って見せて、机の上にあったビールを煽る。

「明日バイトでしょ」

「うん」

「一限あるでしょ?」

「そうだね」

「じゃあそんな飲んじゃだめじゃん」

 大丈夫だよ、なんて軽くあしらって私はまたビールを飲んだ。口の中で苦さと炭酸が弾けて溶けあった。まだ酔ってないし、きっと大丈夫。きっとね。

 私はビールのジョッキを机の上に置く。どんっと存在感のある音が鳴って透明の向こうで泡が弾けた。

 じっと彼を見つめる。付き合ってかれこれ三年経った。高校三年の頃から付き合って、いつのまにかふたりとも二十歳になってしまった。くだらないことで笑えていたはずなのに、いつのまにかくだらないことで笑えなくなってしまってほんのりと悲しい。些細で、しょうもない事かもしれないけどさ。

 透いた瞳が私を見つめている。綺麗な黒瞳。その瞳を一番見つめているのは多分私。

「どうしたの?」

 彼が聞いてきた。私はそれに首を振って、頭を彼の肩に当てる。

 なんとなく見つめてる。その行為に答えなんて見つからない。だって今までそういうことはいっぱいあった。いつの間にか答えが必要になって、なんもないよって笑ってのんびり過ごせなくなっている気がする。

「なんとなく」

 適当に返事をする。彼が驚いたのが分かった。

 なんとなく。それで良い気がした。意味のないことで笑って過ごして、のんびり過ごそうよって。特別なんていらない。今くらい、そういう他愛ないものが許される気がした。

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